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中国皇帝と朝鮮の国王と日本の天皇
韓国ドラマの説明をしているサイトで、朝鮮の王様は中国皇帝の臣下なので、 皇帝のように「陛下」と呼ばれることはなく、「殿下」と呼ばれた、とありました。 日本の天皇は、「皇帝」とは書きませんが、今では「陛下」と呼ばれています。 (いつから呼びかけに陛下を使い始めたか・・・知らないのですけど) 日本の天皇は、朝鮮の王と違って、中国皇帝の臣下ではなかったということでしょうか? このあたりの事情をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご回答よろしくお願いいたします。
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現在、ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられています。 昔は、その場所に『迎恩門』という門がありました。 それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して中国(清)の使者を迎える」という屈辱的な属国の象徴の門でした。 この迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは、中国の「皇帝」ではなく、中国の『使者』でした。 朝鮮はそれほどまでに国家として隷属扱いされてたのです。 韓国人は『中国の属国だった惨めな歴史を隠したい』 という意識から、歴史を捏造し続けてきました。 世界中の国家や大学などが知っているように、朝鮮はずっと中国の『属国』でした。 記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っています。 留学経験のある韓国人も自ら「朝鮮は中国の属国であった。」と認めている者もいます。 そもそも朝鮮の古い国旗にまで「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。 しかし、韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたいのです。 朝鮮最古の国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という文字をカットして報道したほどです。 実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係があります。 まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。 朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位でした。 そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国でした。 天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣です。 朝鮮国王の身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になるでしょう。 ・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。 ・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。 ・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。 ・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。 ・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。 ・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。 朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉がたった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けています。 日本は聖徳太子が「日いずる所の天子~」という文章を送ったように、古代から独立国でした。 中華の冊封体制に入ったことはありません。
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- tiuhti
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中国の皇帝に対し、臣下の礼をとり、形式上「君臣関係」に入る一方で、国王としての地位を承認してもらう事を、他の方の回答にあるように「冊封を受ける」と呼びますが、日本が冊封を受けたのが記録に残っているのは、倭奴国王、卑弥呼、(既に回答があった)倭の五王、足利将軍(義満の後、義持は国王に封ぜられる事を拒否しましたが、義教が復活し、たしか義輝までは続いていると思います。)の時代ですね。 冊封を受ける主なメリットは、王としての権威付けと、貿易上のメリット(下賜品=輸入と同じ)で、それぞれの国が、地理的な位置や、それぞれの時代の状況に応じた関係を、中国と持ちました。日本は、地続きではないので、中国の影響は直接受けず、冊封を受けたのはごく一時期でしたが、朝鮮やベトナムのように、地続きで古くから直接的な影響(征服も含む)を受けてきた国では、長く冊封を受け続けました。中国の北側の遊牧・半遊牧民族は、冊封を受けたり、あるいは離脱して、中国に攻め込んでみたり、などと(中国から見れば)『反復常なき行動』を取りました。 というわけで、朝鮮国王は古くから名目上は中国皇帝の臣下だったが、日本の天皇あるいは将軍が、皇帝の臣下であった時代はごく僅か、というのは事実です。また、一般論としては、中国と同じく農業を基本とする社会であり、かつ地続きだった為に、朝鮮半島が中国の直接的な影響をかなり受けたのも言うまでもありません。ただ、「国王殿下」という呼称については、冊封体制云々よりも、李氏朝鮮に於いて、『君臣の別』、『名文論』を重視する朱子学が非常な影響力をもった、という点から、考えてみた方がよいのではないか、と推測しています。 ところで、学問の世界では、冊封体制に入る事=『属国』になった事と考える学者はまずいません。既に他の方が回答されたように、国王が皇帝の臣下になっても、それだけでは中国が国内の事に口を出せるようになる訳では全然無い(というか、進駐軍のようになった、朝鮮に於ける元のような例を除くと、原則として口は出せない。)ので、国自体が属国になったとは考えません。こういうのは、アジア史だけでなく、フランス王に対して、フランスでの領土に関してのみ臣従したイングランド王とか、形式上、アイルランド全土の領主がイングランド王に忠誠を誓った事にはなったが、実効的な支配は限られた地域以外はほとんどなかった中世のアイルランドとか、他にも例はあります。(勿論、何か機会があれば、中国皇帝にしろ、アイルランドに対するイングランド王にしろ、口出しをしようとしますが、それができるかどうかは、その時の状況によります。) そもそも、国家主権という概念が曖昧だった、近代以前で「臣下になったかどうか」という観点で区分しようとする事自体が、無茶です。朝鮮が長い間冊封を受けてきたから、その間ずっと属国だった、というのも、歴史の常識とは相容れません。時代毎に、中国の影響力がどの程度あったか考えて、はじめてわかる事です。 例えば、冊封体制においては、形式上皇帝が国王に任ずるのですから、『皇帝によって任命される』というのは、他の冊封を受けた国と同じです。これから朝鮮の地位が低かったか高かったか、という事はわかりようがありません。(ついでに言うと、朝鮮も貨幣を発行しています。) 尚、日本が冊封を受けたのはごく限られた時期だけですが、冊封を受けるという事は、概念としては中国文明の一員になるという事で、受けないのなら、ただの蕃国です。蕃国からの使いは、朝貢です。753年の遣唐使で大伴古麻呂が唐で新羅と席次争いをして結果は勝ちましたが、これは、唐から見て、冊封と朝貢に明確な上下のなかったよい証拠です。また、天平の遣唐使多治比広成が持って帰った中国皇帝の勅書には「勅日本国王主明楽美御徳」とありました。朝貢なのだから、唐が日本を対等に扱わないのは当たり前ですが、主明楽美御徳はスメラミコトと解釈されています。天皇が中国に対しては自分で『天皇』と名乗れず、中国人からすると、意味不明だが、日本人からすれば天皇の意味になりうる『主明楽美御徳』を使って、自分達の気分だけでは天皇となのった事にした、って感じですね。(でなければ、主明楽美御徳なんて名前を中国が思いついて返事に書く訳が無い)当たり前ですが、遣唐使の頃の日本人は、『天皇』という自称を中国に対しては使えない、って事は良く知って、ちゃんと自主規制していたって事です。 現代では、自称を尊重して、天皇の英語での呼称をEmperorにすれば、正式の場では、外国もEmperorと呼んでくれますが、そうなるまでは、東アジアの国際関係に於いては、日本の主権者の呼称はあくまで『日本国王』である、というのは、日本人自身がずっと理解していました。 まぁ、こんな程度の話なので、臣下になったか、朝貢したかの違いを、形式論から見ても、概念としていつも『臣下』であり続けるか、あるいは朝貢した時だけ蕃国の扱いに甘んじるか、それぐらいです。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます。 天皇も、皇帝ではなく日本国王という位置づけとは知りませんでした。
- kawakawakawa13
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朝鮮半島は、新羅以降、完全な独立を果たしたのは、日清戦争後、下関条約により清がその宗主権を放棄するまで、概略1600年以上の永きに渡り、中国の諸王朝に隷属してきたのです。「臣下」と言うほど上等な扱いを受けていたわけではありません。 日本は、聖徳太子が「隋」の皇帝に対し、対等な国交を求めて以降、臣下の礼を取ったことはありません。 つまり、「朕」「陛下」と言った皇帝に関する文言もこれ以降天皇陛下にも使用されるようになったと考えられます。 ちなみに、朝鮮が中国に対して臣下の礼を取ったことを「仕方がなかった」としている方がいらっしゃいますが、ベトナム等、中国の支配に抵抗し、その支配を退けた国もありました。 朝鮮は、抵抗の歴史がなく、貢物として未婚・既婚を問わず、中国の求めるまま女性を奴隷として差し出した歴史を持つ国です。 なお、「皇帝」は始皇帝の造語です。アジアの一部の国を除く諸外国では、皇帝=天皇の扱いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お返事遅くなり、失礼いたしました。 皇帝というのが、中国独自の言葉?ということでしょうか? 知りませんでした。
朝鮮は、中国にとって地理的にとても攻めやすい国です。 朝鮮が独立を保つためには、屈辱的な冊封体制に甘んじるしかありませんでした。 それに対して日本は、日本海を隔てているので、中国の脅威は朝鮮ほど深刻ではありませんでした。 聖徳太子がタメ口の親書を送るくらいです。元寇も大丈夫でした。 朝鮮は1000年もの間危うい独立を保ってきたのです。その国家運営は見事というべきでしょう。 日本はアジアで独立を保った数少ない国の一つですが、島国というかなり恵まれた条件であったことが大きな原因です。 韓国・朝鮮の経験した厳しい歴史は、今後の国際社会でよい経験として生かされると思います。日本にはそれがないのが心配です。
お礼
島国だったことが、独立を維持するのに役に立ったのですね。 最後の一行で、日本の外交が下手なこと、意外に(?)北朝鮮の外交が上手(?)なことが納得です。
- moritan2
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天皇は5世紀までは倭の五王として知られるように、中国に対して日本国王に封じてもらっていましたから、この時代までは形の上では臣下ですね。そのあとは足利義満を除いて臣下としてのあつかいを受けたことはないように思います。足利義満は名より実を取ったのでしょう。それに足利義満は天皇でもないし。
お礼
どうもありがとうございます。 随分古い時代は臣下だったわけですね。 でも、中国の歴史では日本の感覚ほど古代ではないのかもしれませんね。
- rabbit_cat
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冊封国=属国というのは、かなり極論だと思います。 実質的に属国でないことはもちろんですが、理念的にも、朝鮮国王が中国皇帝の臣下であることと、朝鮮の地が中国皇帝の支配下にあることは全く違います。中国皇帝は、冊封国である朝鮮の地そのものについては、理念的にもまったく支配権をもっていません。 日本も古代は中国の冊封国(形式的に中国皇帝の臣下)だったと考えらますが、有名な遣隋使は、そこからの脱却を図ったものなのでしょう。 その後、天皇が公式に冊封されたことはありません。 懐良親王や足利義満が天皇を差し置いて日本国王に冊封されたことはありますが。 ただし、遣隋使、遣唐使は朝貢という扱いです。 #1の中国の使者より身分が下は明らかに誤りです。 使者より朝鮮国王の方が、(中国の王朝からみた)身分というか序列が上なのは間違いないです。 使者が中国皇帝の代理として振舞う時のみ、朝鮮国王は使者に対して臣下の礼をとるでしょうけど。 また、中国皇帝は朝鮮国王以外の朝鮮の人とは主従関係をもっていませんので、国王以外の朝鮮の人は中国や(中国の使者)とは全く無関係です。したがって上下はありません。
お礼
冊封国というのですね。 遣隋使がそういう意味も持っていたとは知りませんでした。 どうもありがとうございました。
- jamiru
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臣下ではないにしろ、中国の意をある程度は汲んでいたのではないでしょうか。 元寇の時に中国からきた高僧に南宋を支援し元に戦うように言われて、 元の使者を問答無用で切っています。 当時、世界屈指の元の使者を切って送り返すのは尋常ではありませんし。
お礼
早速ありがとうございます。 中国の影響を非常に強く受けていた国だったけれど、臣下ではなかったわけですね。 朝鮮の王は世継ぎの王子を決める時、中国皇帝に許可を取らないといけなかった(とドラマにありましたが)そうですが、 日本では、東宮を決める時には勝手に立太子(というのでしょうか)していたということでしょうか。
- masato0703
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こんにちは 朝鮮は中国の1000年属国です。 朝鮮王は中国の使者より身分が下。 日本は中国に唯一中国の属国にならなかった という点で、誇るべき歴史を有しています。 日本の天皇が中国皇帝の臣下であった歴史はありません。
お礼
早速ありがとうございました。
お礼
ドラマでですが、中国の使者が非常に丁重に、ご機嫌を損ねないように扱われていたことを知りました。 ただ、王自身がひれ伏していたとは知りませんでした。 具体的に詳しくありがとうございました。 初めて知ったことばかりで、びっくりしています。