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聖徳太子と日本の仏教の歴史
- 日本で最初に仏教を取り入れたのは聖徳太子であるかとされています。
- 聖徳太子以前に日本人は仏教の存在を知っていなかったと考えられています。
- 日本の仏教は聖徳太子から始まり、最澄と空海が中国から戻ってきて宗派を広めたとされています。
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(1) 『インドの釈迦の教えを日本で最初に取り入れた人物は』 日本で外交を担当していたと言われる蘇我氏の「馬子」でしょう。 天皇家の権力に匹敵する力を持ち、外来の「仏教」を日本に導入(仏像の安置を)したので、皇族と「中臣氏(日本古来の神を祀るのを仕事にしていた)」の連合軍を相手に紛争を起こしています。 で、中大兄皇子+中臣氏連合が勝って(大化の改新)、中臣鎌足はその功績で、死の直前ですが「大織冠の位と藤原姓」を賜りました。 この藤原鎌足が、藤原はもちろん、加藤だとか斉藤だとか、多くの「藤」姓の元祖の人です。 (2) 最澄の天台宗が後のさまざまな宗派を産み出し(ある意味、広がった)、空海の真言宗はそれほどの広がりを持てなかったのは、先に戻ってきたとかいう時刻的な話ではありません。 言われているのは、空海は大天才で、最澄は秀才だったからだと言われています。 空海が中国へ行ったとき、彼を一目見た密教の最高僧(老僧)は、「遅きかな。我が汝を待つこと久し」と嘆いたそうですが、それほど彼の才は際立っていました。で、密教の正当な後継者と認定されて、日本に全資料を持ってきちゃったほど。 それほどなので、日本の僧に対する教え方が長嶋さん風。「ホームランを打つには、パッと待ってぐーっとしてズドンと打てばいい」みたいな教え方なので、凡人には何を言っているのかよく分からない。 最澄は、秀才で、自分も工夫しながら勉強したので、弟子に対する教え方もうまかった。だから、天台宗の比叡山には数多の(空海ほどではないが)才能が学び、巣立っていったようです。 空海さんには、日本の僧たちが馬鹿に見えたかもしれませんね。先に戻ってきても(仏教の拡大という点では)ダメだったでしょうね。 ちなみに、最澄さんは、空海さんに「密教の極意を教えてくれ」と頼み込んだものの、断られたらしいです。 (3) 鑑真は、「律宗」でしょうね。鑑真が建てた「唐招提寺」が本山です。 (4) 東大寺が天台宗じゃなくて華厳宗なのは、建立されたときからでしょうから、不思議はないのでは? 途中で天台宗に変わったのなら、「なんで変えたの」という疑問が出るでしょうが、宗教なんてのはそうホイホイと変えるもんじゃないと思うので、同じであることに疑問は感じません。 (5) 『華厳宗から天台宗に移っていく流れがわからない。』 天皇の信仰対象が移ったということですか? これは私の想像ですが、 A:薬もそうですが、新しいものほど効果がありそうに思えた。 B:密教が行う加持祈祷が、ありがたそうに見えた。お経を読むだけよりは、炎の前で汗だくになりながら、呪文を唱えながら護摩を焚くほうが効果ありげです。 ということではないでしょうか。
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- oteramairisuki
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まず質問者さんのあげた登場人物を整理しましょう 聖徳太子574~622 鑑真688~763 桓武天皇737~806 最澄767~822 空海774~835 質問者さんが上げていない名前の中に東大寺を作った聖武天皇がいます。 聖武天皇701~756 この中で会っているのは 鑑真と聖武天皇。桓武天皇と最澄。空海は桓武天皇の息子の嵯峨天皇に依拠しました。 登場人物の生年没年をこうしてみれば、歴史の流れというものが多少は見えてくると思います。どちらも聖徳太子の生まれる前です。継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたらしいですね。 なお、日本に仏教が伝来したと言われるのは古来から552年と538年の二説あります。 なお東大寺の時代と最澄の時代はおよそ50年ほど東大寺のほうが古いので、もちろん天台宗はまだできていません。 質問者さんが書かれている 聖徳太子→鑑真→華厳宗→東大寺→恒武天皇→最澄→天台宗→ これはタイムスケール的には合ってます。 なお鑑真が日本で開いたのは律宗といい、律宗の代表的な寺院は唐招提寺です。これは鑑真が開きました。
- notnot
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>インドの釈迦の教えを日本で最初に取り入れた人物は聖徳太子ですか? 違います。
お礼
ありがとうございます
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