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ソ連の対日参戦が早ければ原爆投下はなかった?
第二次大戦において、ポツダム宣言受諾の要因は原爆投下よりもむしろソ連の対日参戦だったといわれています。 だとすれば、ソ連の対日参戦がもっと早ければ原爆を投下されずに済んだという可能性はなかったのでしょうか。 独ソ戦は1945年5月には終了しており、ソ連からすれば西部の兵力を極東に振り向けるタイミングはもっと早くてもよかった気がしますし、ソ連が攻め込んだのは満州とか南樺太なので、広島への原爆投下があろうがなかろうが、ソ連にとっての戦況は大して変わらなかった気がします。 もっと早くにソ連が対日参戦することはできたのでしょうか。 できたのだとすれば、それによって原爆投下を待たずに降伏した可能性はあったのでしょうか。 ご回答お待ちしております。
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ドイツ以東のヨーロッパの東半分を占領下にあったソ連としては、いかにドイツが降伏した後とはいえ、占領地の治安維持と目と鼻の先にいる英米軍への警戒のためにそうヨーロッパにいる部隊を簡単に引き抜くわけにはいきません。 またウラジオストクからモスクワまで現在のシベリア鉄道でも7日くらいかかりますから、ヨーロッパの鉄道は標準軌でロシアは広軌であることを考えると少なくともソ連領内でまるごと乗り換える必要がある手間を考えると、ドイツから満ソ国境まで10日くらいはかかるだろうと思われます。 部隊をただ単に東に持っていけばいいだけではなく、燃料、食料、弾薬なども運んで保管しなければならないので送るものは膨大でかつ計画的でなければ現地は大混乱になります。 また対日参戦となると、まずは千島列島および樺太への上陸作戦が行われるので、その船舶の確保と補給維持のためのロジスティクスの計画も必要です。 さらにその先の北海道上陸作戦も視野に入れると、考えなければならないことは山ほどあります。 そう考えると、対ドイツ戦の終了から2ヵ月程度で満州への侵攻作戦を始めたのはかなり手早かったといってもいいのではないかなと思います。 ソ連の対日参戦の密約が交わされたのが1945年2月に行われたヤルタ会談です。このとき、ソ連は「対ドイツ戦終了後3ヵ月で対日参戦する」と米英と密約を交わしており、実際のスケジュールはほぼその通りになっていますから、スターリンは米英との約束を守ったことになりますね。 >ポツダム宣言受諾の要因は原爆投下よりもむしろソ連の対日参戦だったといわれています。 ここはちょっとなんというかまあ、それはそのとおりではあるのですけれど、「軍事的に」って意味ではないんですよ。 質問者さんもご存知かもしれませんが、実は大日本帝国はソ連を通じてアメリカとの停戦(終戦)を模索していたのです。 東京大空襲で帝都も焼け野原になると、昭和天皇は「これはもうアカンやろ。戦争を終わらせろ」と言い出すようになります。で、周りの者たちは「ははっ。今、ソ連を仲介にして和平の道を模索しておりまして・・・」といっていました。ちょいちょい昭和天皇から「終戦はどうなってる?日本がどんどん焼け野原になっとるぞ」と催促されてたのですが、「ははっ。今、ソ連を仲介にして・・・」といってたんですね。 そしたらそのソ連が対日参戦してきたので、遂に昭和天皇も堪忍袋の緒が切れた。「おまえらふざけんじゃねえぞ。和平を仲介してた相手が攻めてきたら最初から仲介する気ねえじゃねえか。この役立たず」と激おこされたのです。それで、もうこの期に及んではポツダム宣言を受諾して無条件降伏もやむなしという雰囲気になったのです。 ただどうも各種資料から推測するに、どうやら当時の日本軍内では「ソ連が対日参戦する」という情報は半ば公然の秘密だったようなのです。有名なのがスウェーデンに駐在していた武官がヤルタ会談の密約の情報を手に入れて本国に送ったが握りつぶされた、という話です。この情報は日本側にも日本の情報網をほぼ筒抜けで知っていた連合国側にも残ってないので、話が有名な割に真偽不明の話なのですが、当時の軍高官の中には「ソ連が対日参戦の準備をしているらしい」という情報を耳にしたという証言も残っているようですね。 まあそもそもが150万もの兵力が全く察知もされずに展開するなんてことは不可能なわけで、関東軍も国境のソ連軍が増強されていたことは察していました。だけど秋まではかかるだろうとか、楽観的だったのかそれとももうどのみち対抗できる手段がないと諦めモードだったのか分かりませんが、特段関東軍も手を打ってなかったようですね。打ったところで彼我の戦力比は10:1に近い状況でしたからどうにもならなかったですけどね。
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- SPROCKETER
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関係無いと思いますね。当時の大本営が精神病で、米国が原爆開発に成功している事実を隠す事しか考えずに、真実の隠蔽工作と揉み消ししかおこなわずに、原爆を否定し続けていたのにトルーマンが激怒して原爆投下を命令したわけで、広島への投下後も隠しても揉み消して、長崎への投下を放置したわけで、ソ連の対日参戦のせいにするのは、責任逃れでしょう。
- 19satoru75
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ドイツに最初に侵入したのはソ連ですし、ソ連としては日本侵攻を最初に行いたかったでしょう。しかし5月にドイツが降伏してから部隊の再編成と再配置を行なって日本侵攻するには史実通りの日程が最速ではないでしょうか。 インプロージョン型はトリニティ実験を必要としましたが、ガンバレル型は実験なしに兵器化しています。 なのでソ連の対日参戦が早まってもガンバレル型原爆の投下は避けられないと思います。インプロージョン型原爆は間に合わない可能性があるかもしれませんが。
- oska2
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>ポツダム宣言受諾の要因は原爆投下よりもむしろソ連の対日参戦だったといわれています。 私は、この説は聞いた事がありませんが・・・。 私が聞いたのは「国体維持=天皇制の維持は、日本国民自身が決める事だ」との連合国側の回答を得たからだとの事でした。 日本政府・軍部は、都市部だけでなく地方都市・農漁村地域にまで無差別絨毯爆撃があっても、広島・長崎に原爆が投下されても「国体維持(天皇制維持)の保障・確約がない」との理由で受諾拒否を続けました。 結局、次は京都・東京が原爆投下目標との情報が入り「天皇制は、日本国民が決める事だ」との確約があったので受諾した次第。 ※京都が原爆目標にならなかったのは、文化を守る為ではありません。 ※GHQによる世論操作の一環です。 ※公開された資料では、広島・小倉などと一緒に京都の地名も入っていますよ。 ※既に爆撃を受けた都市よりも、爆撃を受けていない都市の方が原爆実験にはベストな情報を得る事が出来ます。 まぁ、「敗戦後の国民が、天皇制を続ける事を希望するのか?」という疑問が政府・軍部にあった様です。 次は京都・東京との情報が入った状況では、Noは言えなかったでしようね。 ※日本国憲法では、天皇は国民の総意に基づく!となっていますよね。 ※令和の時代になっても、一度も総意を確認した事がないのが証拠。 余談ですが・・・。 ソ連の対日参戦よりも、戦後の日本統治を単独で行いたいアメリカの意向が強かったのも事実ですがね。 そうそう、昭和天皇は「人間宣言」を行いましたが「朕は、天照大神の子孫である」との主張は最期まで曲げませんでした。
- sebsereb
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第二次世界大戦は日本軍の暴走でスタートした説を採用すると 誰が日本側から敵側をコントロールしていたのかって言うと天皇だと思います。 日本軍が完全に参ったと言わない限り、5.15事件のように将校が襲ってくるのです。 ソ連の参戦も原爆の投下も天皇の承諾の上の実行だと思っています。 「降参と日本軍が言うまで攻めていた」のだと思っています。 なので原爆投下が悪いとかでは無いのです。宣戦布告なしで真珠湾を奇襲した将校たちが「やっぱ降参、めんごして」というまで戦争をつづけただけです。
お礼
広大なロシアの端から端までとなるとそれくらい時間がかかるんですね ありがとうございました