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護良親王は殺されなかった?
護良親王は殺されたといわれていますが、本当は逃がされたのではないですか? 理由 1、淵辺義博と格闘後とありますが、義博本人が家来を連れず一人で処刑するのは不自然 2、首が藪に捨てられたとあり、重要人物なのに首実検がされていない
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そういう伝説は昔からあります。最も有名で大がかりなのは石巻での生存説。「淵辺氏は牡鹿湊の領主で、「御所入」の付近にある「淵辺屋敷」という地が淵辺氏の居館であった。淵辺義博は、護良親王から子の弥四郎が命を助けられたこともあって、親王の恩義に深く感じていた。そこで実は、親王を殺さず、ひそかに鎌倉を逃れて牡鹿湊の地をお隠れの里とした。その地が「御所入」であった。(中略)しかし、親王は永い間土牢に閉じ込められていたため健康を害し、建武二年十一月に湊の地でなくなり、塚をつくって葬った。後年この小祠を建て親王をまつった。それが「一皇子神社」である」ここから更に荒唐無稽なお話もでき、それを元にねぶた祭で大型ねぶたが作られた(2010年)こともあるくらい。 他にも足利直義自身が、殺すには忍びない、しかし反乱を起こした連中に担がれるのは困る、として密かに別の場所に移し、死ぬまで隠しておくように命じたという説もあります。 一方で戸塚区には「首洗いの井戸」があります。広報紙によれば殺害された後、打ち捨てられた首は、侍女(または側近)によって守られ、柏尾にまで運ばれ、この井戸で洗い清められたのち、王子神社の本殿に当たる場所に埋葬されたという言い伝えです。 現代の誰がどういう説を出してももはや証明が不可能ですから、いろんな説をたてて楽しむのがいいようです。