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徳川将軍の正妻は子を生んでいないのか?京都の女は身分を鼻にかけ嫌われる?
1.徳川将軍の正妻は、大概、、大大名の娘か、藤原家か内親王/女王ですが、なぜ一人も(女子すらも)子どもを産んでないのですか?子どもを産んで後継者とすれば、京と将軍家の結びつきは強固なものになったはずなのに。 そういった正妻は、一人の女性として悲しくないですか? 2、よくドラマや小説なので、公家や内親王出身の京都の妻は、「プライド高く、身分を鼻にかけ、愛嬌がなく、ツンツンとしていて夫から愛されない女」として描かれていますが、、、本当でしょうか?
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こんばんわ。 NO3.です。 >>それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。 中々「するどい」ところに気付かれましたね。 平安、鎌倉、室町時代は、「幕府」は開かれていますが、朝廷を中心とした、朝廷を「敬う(うやまう)」政治体制で、「荘園」なども持っていましたので、「朝廷」や「公家」もまあまあ「裕福」でした。従って、「食事」なども、かなり、「贅沢」を極めています。 やがて、室町幕府の15代足利義昭あたりから、「武士」が世を動かすようになりました。もちろん、それ以前にも「平氏」なども「武士」ですが、「朝廷」にとりいっての天下でした。また、「足利氏」や「源氏」なども武士ではありますが、朝廷を大いに「守り立てて」の政(まつりごと)でした。 しかし、信長はご存知の通り、朝廷に頼ることをしませんでした。自らの力で、逆に、朝廷を動かそうとしていますよね。 そこで、朝廷は「官位」の「大安売り」をして生活費を賄っています。 例えば、「左京太夫(さきょうだいぶ、または、さきょうだゆう)の職は、京都の東側を統括して、司法、行政、警察権を司る役目ですが、本来は、「四職家」と呼ばれる「山名氏」「赤松氏」「一色氏」「京極氏」だけに代々継がせていましたが、多額の献金により、「大内氏」がその「職」を手に入れたことで、東北の「伊達氏」も「それでは、わしも・・・」と、「献金」と引き換えに「左京太夫」に任じられました。となると、「我も、我も」と、地方の中小大名たちも「真似」をして、実態としては、京都で活動することなく、「官職名」だけを取得するようになりました。こうした「献金」で、朝廷や公家衆は「生き延びて?」きました。 やがて、秀吉の時代になると、秀吉の「関白職」を得るため莫大な「献金」をして、再び、朝廷や公家衆は「豊か」になりました。 まあ、この頃あたりまでは、公家の姫君も「健康体」だったと思います。 次に、秀吉の後の徳川幕府になると、再び、朝廷や公家衆に対する「献金」がなくなり、ただ一つの拠り所としては、将軍家が公家の様式を取り入れたい、と、いうことで、公家の姫君を将軍家に嫁がせることで、「引き換えに」公家への「献金」がありました。将軍家と「親戚」になった公家は、まあ、そこそこに生活はできましたが、他の公家衆はというと「貧乏公家」と呼ばれ、住居の壁が壊れたり、屋根から雨漏りがしても「修繕費」さえ支払えないありさまでした。 朝廷は、と、言うと、やはり「左京太夫」などの「官職」を切り売りしての存続でした。 江戸時代は、「朝廷」や「公家衆」は大変な「貧乏」でした。 従って、姫君が将軍家や大名家に嫁ついでも、立派な「男子」を産むことができなかったのでしょう。 >>歴代の徳川将軍の正妻は子なし、というのは、単純に、将軍のお渡りが無かった、少なかったからではないでしょうか それは言えますね。特に、元禄時代(1688~)あたりから、早くも、将軍家にしても大名家にしても、公家の姫君は「権威付け」であって、「徳川実記」などにも書かれていますが、丸顔で腰の座った「健康美人」を求めるようになり、そうした「側室」に子どもを産ませる傾向が強くなったとありますね。 余談ですが、あなたの「歴史感」は「素晴らしい!!」。 「一般的な」「常識的な」回答ではなく、その「奥」まで知りたい、と、いう姿勢には、こちらも、「覚悟して」答えなければならない、と、思っています。
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#4です。 大奥は、3代家光の頃に、彼の乳母であった春日局が整備したと言われています(よくドラマでみる大奥総取締という役職は実際はなかったようですが・・)。 正室である御台所は、起床時間、起床の仕方から始まって、就寝するまでの行動すべてが「しきたり」によって動いていました。 御台所1人対し、彼女に遣える奥女中は200人弱だったそうです。御手水(トイレ)の中にも、お世話する女中が入ったそうですし、1日4回(5回だったかも)着替えました。一度来た物は2度と着なかったとも。 さて、 >正妻との間に一人でもお世継ぎが生まれていたら、朝廷と将軍家の結びつきが強くなり、朝廷の伝統的権威と幕府の政治権力を併せ持った貫禄ある将軍が誕生し、幕府の力が強まって幕府政治が非常に安定する と質問者様がおっしゃる件ですが、これも何かで読んだか見たかしたのですが、表(老中を筆頭とする為政者側)と奥(御台所ではなく実質の大奥の上級職であるお年寄(現在の高齢者と同義ではありません、大奥の管理職名のようなものです)双方に、世継ぎをめぐる思惑があり、権力が移行することを阻止したいというか。手元で握っていたい、という面があるそうです。 なんだか、現在の官僚機構のようですね。 14代室の和宮ですが、結婚期間は4年ほど(実際は、夫である家茂が上京したりしていて、2年ほどらしいです)の間、身分や慣習の違い、時代背景など色々と複雑極まりなかったかと思いますが、非常に仲睦まじく過ごしていたようです。お墓も歴代の中でも珍しく並んで立っています。
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kamiya0987です。ご回答ありがとうございます。 表と奥の思惑というのは、、、「あちら側の」A子やB子C子には世継ぎを生ませてはならない、「こちら側の」D子に生ませよう、という風に操作していたのでしょうか、これこそ借り腹思想、、怖いですね。 和宮さんは仲が良かったのですね。
徳川将軍家の正室(御台所)は、3代家光からほぼ公家出身者で占められています。 将軍という当時の最高権力者の結婚ですから、政治的な色合いが絡むのはある意味で当たり前でしょうし、語弊がありますが、飾り物の色合いが強かったのかもしれません。将軍が個人的に気に入ったりした奥女中などは、側室にすればいいのでしょうし・・・・。 話がそれましたが、歴代正室(御台所)のなかで、世継ぎを生んで将軍生母となったのは、2代秀忠の正室であったお江与の方だけです。他にはいません。 これは、政略結婚だったせいもあるかもしれませんが、公家出身者の正妻に世継ぎが出来ると、朝廷が幕政に関わる口実を与える事になり兼ねないのを、防ぐという側面があった、というのを何かの本で読んだ記憶があります。(公家出身者の側室も同様だったようです) 大奥でも、そのように動いていたようです。世継ぎまたは将軍家を継いだ男子を生んでいるのは、肩書きは武士の娘がおおいようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 将軍の正妻は「お飾り」だったようですね。彼女たちは一日中、大奥でいったい何をして過ごしていたのでしょうか。○代将軍○○の正妻○○は、将軍の寵が厚かった、など、とんと聞いたことがありません。和宮はそうなんですか? 「正室から世継ぎが生まれると京がうるさくなる」説ですが、私は逆のように感じます。正妻との間に一人でもお世継ぎが生まれていたら、朝廷と将軍家の結びつきが強くなり、朝廷の伝統的権威と幕府の政治権力を併せ持った貫禄ある将軍が誕生し、幕府の力が強まって幕府政治が非常に安定するように思うのですが。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>藤原家か内親王/女王ですが この部分についてですが、摂家や関白家等の「公家」のことを指すものと考えますが、確かに、何代もの将軍に「公家」の娘が嫁いでいますが、15代将軍徳川慶喜の母だけが有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の九女で、後は、誰も「お世継」を生んでいません。ただし、14代将軍の家茂の室ではなく、水戸藩主徳川斉昭の正室。 これには、幕府の贅沢さとは裏腹に、朝廷も公家も非常に「貧しかった」。そして、特に、朝廷や公家の娘は、「人に顔を見せてはいけない」と言う「仕来り」で、一日中、家の中で暮らし、余程のことがない限り「外出」はしませんでしたので、日光にもあたらない。従って、健康状態も悪く、ひ弱だったことが挙げられます。 従って、 (1)子どもを身籠ることさえできなかった。 (2)子どもが誕生しても、子どももひ弱かったので早死にをしてしまった。 など、でしょうか。 >>「プライド高く、身分を鼻にかけ、愛嬌がなく、ツンツンとしていて夫から愛されない女」として描かれていますが 確かにそうですね。 これには、将軍家とはいえ、それを任命しているのは「朝廷」ですから、朝廷や公家にしてみれば、「我々が任命してやっているのだ」という、「優越感」や「プライド」があったためでしょう。 それと、公家の娘は「行儀作法」は厳しく「躾(しつけ)」られましたが、人付き合いはほとんどなく、身の回りの世話をしてくれる女官だけとしか会話をしていませんので、「話題」が「乏しかった」こともあります。 (よもやま話) (1)将軍の生母一覧。 初代・家康・・・母・於大の方。(ただし、戦国時代に翻弄されて、実名は、本当は「不祥」。後年に名前を付けられた可能性が高い)。 2代・秀忠・・・母、西郷の局(於愛の方とも呼ばれた)。戸塚五郎太夫忠春という家臣の娘。 3代・家光・・・母、小督(おごう)の方、または、於江与の方。浅井長政娘。 4代・家綱・・・母、於楽の方。「高島御前」とも呼ばれた。増山氏という武士の娘。 5代・綱吉・・・母、於玉の方。 6代・家宣・・・母、於保の方。甲府府中徳川綱重の側室のため、晩年は不明。 7代・家継・・・母、於喜世の方。またの名を「輝子」。浅草唯念寺住職の娘。 8代・吉宗・・・母、於由利の方。紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門利清の娘。 9代・家重・・・母、於須磨の方。大久保氏(武士)の娘。 10代・家治・・・母、於幸の方。梅渓通条の娘。 11代・家斉・・・母、於富の方。 12代・家慶・・・母、於楽の方。押田氏(武士)の娘。 13代・家定・・・母、於美津の方。 14代・家茂・・・母、於みさの方。紀州徳川家から入った将軍なので、不明。 15代・慶喜・・・母、登美宮(とみのみや)。有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の九女。ここで初めて「宮家」を生母とする将軍が誕生。 (2)14代家茂に嫁いだ「和宮」も、初めは「気位」が高かったようで、史料などによると、結婚後も、 「公方さま、たびたびお渡りあるも、宮様にはご気分優れず、お会いなさらず」 と、記されていると言われています。 江戸時代、将軍のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれていました。 TVで良く「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、視聴率を上げるための所業。 (3)先にも述べましたが、朝廷や公家の姫君は、顔を見られることを非常に嫌いました。 では、お化粧は?というと、 将軍家に嫁ついできても、顔面から襟まで「白粉」を塗り、その上に「眉毛」や「口紅」を書きました。 はっきり言ったら、TVでおなじみの「志村けん」の「バカ殿さま」と同じだったのです。 「白粉」には「鉛」が多く含まれており、皮膚(顔面)からそれを吸収することにより、「情緒不安定」や「錯乱状態」に陥った姫君もいます。 また、こうした「毒」により、子どもが生まれても早死にする結果にもつながったかもしれませんね。 あなたのお役に立てたでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変参考になりました。 前々から知りたかったことですので。 うちの母親も、前々から、、公家や皇家の女子は、化粧として使う鉛害のため体が悪かった、運動不足のためひ弱だったため子どもがうめなかったと言っていますが、それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。 百何代も続く歴代の天皇の生母は、、、、健康体かもしれないが吉宗の母みたいな身分の女性はさすがにいないはずで(あくまで文献上)、、、、天皇に近侍できるような身分の姫様(公家/皇家出身)ですから、彼女らはちゃんと子どもを生んで天皇家を維持してきたということは、「お姫様たちの体が弱かった」説は、怪しい気がします。 歴代の徳川将軍の正妻は子なし、というのは、単純に、将軍のお渡りが無かった、少なかったからではないでしょうか
- Kiriyama-taicho
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徳川将軍家の御台所は三代家光以降、11代将軍家斉を除いて全員公家か皇女ですね。 このうち6代家宣、10代家治、12代家慶の御台所は子供を生んでいますが、 いずれも早世です。昔見た江戸幕府の大奥の争いを見ると後継者争いから 誰かが懐妊すると仕掛けて流産させたりしています。真偽のほどは 分かりませんが、夭折したことも含めて作為的なものを感じざるを得ません。 なお家康の正妻は今川義元の姪で、長男である信康は信長の命で切腹しています。 2代将軍秀忠の正室は浅井長政の子で子沢山でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >夭折したことも含めて作為的なものを感じざるを得ません。 だとすれば、なんのためにとついで来たのか、ひとりの女性としてみたとき、気の毒です。
- okg00
- ベストアンサー率39% (1322/3338)
秀忠の正室、崇源院は家光を産んでますけど? http://www.loops.jp/~asukaclub/omocya/midai.html >徳川将軍の正妻は、大概、、大大名の娘か、藤原家か内親王/女王ですが そうとはいえないようですが...
お礼
皆さんのご意見は大変参考になりました ありがとうございました。
お礼
kamiya0987です。ご回答ありがとうございます。出典をあげてのご回答、歴史作家というより歴史学者ですね。 栄養状態の悪い虚弱体質だと出産は無理かもしれませんね。慶喜のお母さんが宮家の女王というのは、珍しいですね。 政権の安定、お家騒動の回避を考えると、身分が高く健康な正室が嫡男・次男……を産む・・・これがベスト中のベストですね。ex)大正后
補足
「お礼」は少しお待ちください。 再度のご回答ありがとうございます。 まずはとりあえず簡易のお礼まで。