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99匹の子羊と1匹の子羊の話
キリスト教の説話だったと記憶しているのですが、100匹の子羊を連れた羊飼いが居て、1匹の子羊が迷ってしまったので羊飼いは迷える1匹を探しに荒野へ出かけた。迷える1匹をようやく助けて元の場所に戻ると99匹の子羊がケモノに食われたり盗まれたりで全滅していたが、迷える1匹は救われたという話。 おそらくは99匹を救うために1匹を見捨てるなという意味だと思うのですが、では1匹を救うためなら99匹は見捨てても構わないのでしょうか? 自分が羊飼いの立場なら、体は一つしかないのでどちらかしか救えませんが、1匹を取っても99匹を取っても、取らなかった方を見捨てた事になりますよね。 1匹を救ったのだから99匹は見捨てても良かったというのも、99匹を救うためなのだから1匹を見捨てても仕方ないというのも、同じに思えるのです。見捨てた側に対して罪悪感がない(価値を認めない)という点で。 子供の頃この話を聞き、釈然としませんでした。最近ちょっとした事がキッカケでそれを思いだし、やはり釈然としません。 それともこの説話の意味はもっと深いものなのでしょうか? ちゃんと聖書を読めば分かるのかもしれませんが、キリスト教徒でないもので…詳しい方、ご回答お願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
キリスト教徒の者です。 聖書には、99匹が全滅したという記述は掲載されておりません。 これは#1の方が紹介しているURLにもあるとおり、 単純な損得勘定や、1匹を救うために他を犠牲にしても良いという 単純なお話ではありません。世の中に正しい人が大勢いても、 ひっそりと自分の罪深さ・弱さに悩み、悔い改める少数の者をも 神様は見捨てない、という話を99匹と1匹の羊の話に例えたものです。 動物の群れの中で弱い者が脱落していくのは、悲しいけど 本来は自然の摂理として仕方のないことですね。 それにイスラエルの荒野で大勢の羊を連れて歩く羊飼いが、 迷った1匹を探し歩くのはとても大変なことです。 羊にも自分にも、何かしらのリスクが降り掛かります。 しかし、その1匹をも見捨てないというのです。 この例え話は、イスラエルの権威ある学者が取税人という、 当時はとても汚れた職業として人々から軽蔑された者を 差別するところから話が始まります。 取税人は、人々がローマとイスラエルに二重に納税義務があるのを いいことに不当に税を取り立て、一部を自分の懐に入れるような者たちでした。 取税人が自分の罪を悔い改めようとイエスの元に来たとき、 学者が「イエスは罪人と交流をもとうとしている」と批判したのを聞いて、 イエスが罪人を1匹の羊に例えて話を始めるというわけです。 聖書の例え話の中には、キリスト教徒の我々が聞いても 「え?」と驚き、解釈に悩むものがいくつもあります。 例え話が話されている前後のシチュエーション、 当時のイスラエルの時代背景・文化・習慣・価値観も 把握した上で読まないと、表面に見えてくる物に惑わされて 普遍的な真理がわかりにくくなります。 解釈が人それぞれなのではなく、表面に見える物だけで 話を理解しようとするから、人によって理解がバラバラだったり 釈然としなかったりするんですね。
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一人ひとりが尊い 誰一人として尊くない人はいないと言っているのだと解釈します。一匹と九十九匹との比較や取捨選択ではないと思います。 ものごとについても 一般に《神は細部に宿りたもう》と言ったりします。小さなもの・つまらないことだからと言って おろそかにすると 自らの不明を悔やむ事になるかもしれない。 落ちこぼれ・社会の弱者のひとりを見捨てるとするなら 自分をみずからが見捨てたと同じことになる。などなどです。 ただ 上の解釈は 質問者の言われる説話と捉えた上でのものです。信仰にとって もっと違う意義があるかも知れないとは思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 人の心ではなく、神の心についての話だと捉えれば少しは分かります。 迷う一匹がどの一匹であっても、という事ですね。 ここのところ、下らない話でちょっと考え込んでいたりして、それでこの話を思い出したのですが、自分なりの答えは出ました。 ご回答下さった皆様、ありがとうございました。
- mmky
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参考程度に イエス様は愛の化身なのですね。不幸な一匹に思いが行く方なんですね。隣人を愛することは誰でも出来る、あなたの敵をこそ愛せよという方なんですね。 だから、理性的に考えると理解できないのです。本来枠の無いお方なんです。後代のかたがたが理性的に考えそれをいくら説明しょうとしても所詮その深い愛いが理解できないのですね。枠に入れようとすれば何人もパリサイ人と呼ぶ方なんです。 一方、仏教的には、多数を生かすことを優先にします、これは釈尊が理性的であったからなんですね。 同じような話では、川で人がおぼれている、見るや否や飛び込んで助けようとしたが自分は泳げないことを忘れていた、結果は両方ともおぼれて死んでしまった。イエス様はその心と行動をほめ、仏陀は、心はほめるが行動の理性のなさを指摘するでしょうね。おそらく。神々にも個性があるということなのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 >本来枠の無いお方なんです。 なるほどです。 確かに99匹か1匹か?というのは人間の作った枠ですよね。 >神々にも個性がある そうですね。 そういえば仏陀は過酷な修行を止めて中道を取ったことで悟りを開いたけど、イエスは磔になることで信仰を貫きましたね。 イスラムの神などはまた、全然違う原理がありそうですし。 イエスはこういう個性なのだと思っておきます。
歴史の話になってしまいますが、聖書というのはもともと「説教のための本」ではなかったんです。この世に登場した当初は、単なる短編集だったわけです。 で、それを宗教本として使えるように、歴々の人々が数多くの改変を加えていきました。 だから、あとあとから解釈をこねくり回したような話がたくさんあります。 100匹の子羊の話のように、あきらかに良い方には解釈しようのない物語を、いくばかの改変を加えて良く解釈できるようにしてあったりもします。 ゆえに、あなたの解釈だって「答えの1つ」ではあるんです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 >聖書というのはもともと「説教のための本」ではなかったんです。この世に登場した当初は、単なる短編集だったわけです。 ええええ??そうなんですか? 歴史の話になるともうお手上げです・・・ 改変は、色々あるでしょうね。 キリスト教自体があれこれ宗派があったりなんだりですから。 歴史の長い宗教ではどうしてもそうなりがちなのでしょうが・・・
- kevinkun
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損得の問題ではなのだと思いますよ。 >元の場所に戻ると99匹の子羊がケモノに食われたり盗まれたりで全滅していた というのははじめて聞きましたが。 問題は結果ではなく、99匹を大事にするために迷った1匹を見捨てるな、と言う話だと解釈していました。 キリスト教徒ではありませんが、子供の頃この話を聞いて、漠然とですが人として大事な事なのかなぁと私にとっては今も心に残っている話です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 99匹全滅は私の思い違いのようです。 私もキリスト教徒ではありませんので、この話をキチンとした説法の場で聞いた訳ではないのです。 自分で、『じゃあ99匹はどうなるんだよ。死んじゃうじゃん』って思ったのを、記憶違いしていたかもしれません。 でもそこで『じゃあ99匹は?』って思ってしまったのが、まあ生身の人間くさいという所でしょうか… (苦笑)
- apple-man
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キリスト教徒ではありませんが、聖書に興味がある ものです。 100匹の羊の例えは、新約聖書の 何箇所かに出てくるようなので、 99匹が全滅したという話もある のかもしれませんね。 No.1の方が挙げられている ルカによる福音書第15章の話は 思いつかなかったのですが、 私が思いついた100匹の羊の 話は、マタイ福音書18章です。 弟子たちがイエスに、天国では 誰が一番偉いのでっしょうかと聞く 話で、誰がとか、何が偉い、或いは何が特に重要だと などという考えそのもの が間違っているということの例え話に出した 1つが、100匹の羊の話で、以下のような 内容になっています。 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。 天の父、つまり神様のことですね。 >自分が羊飼いの立場なら、体は一つしかないのでどちらかしか救えませんが、1匹を取っても99匹を取っても、取らなかった方を見捨てた事になりますよね。 普通は多いほう、つまり自分にとって 得があるほう。小の虫を殺して大の虫を生かす というふうに、1匹をとるにしても100匹を とるにしても、損得勘定とか、こちらよりあちら 重要と言うある種の差別を行うのが普通だと 思います。 逃げた1匹が珍しい羊で、そのほうが お金になるなら、羊飼いはその1匹を 追うかもしれない。 でも良き心というのは、そういう差別的 なものではない。 最後のところの 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 というのが、この羊の話の要点です。 でも99匹が全滅という話が別にあるのなら、 それはまた別の意味かもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 99匹全滅は私の思い違いのようです。(汗) ただ、私たちは日常的に1匹を取って99匹を見捨てる、逆に99匹を取って1匹を見捨てるということをしていると思います。 親しい人が大事な一匹だったり(つまり他人ならその他大勢だから無関心)、あるいは大勢の利益のために少数をつぶしたり見捨てたり。 それでいいのか?と思う出来事がありまして。 かといってやはりこちらも大した人間ではありませんし、そうそう誰彼構わず手を差し伸べるという事もできませんしね・・・ > 最後のところの >「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 >というのが、この羊の話の要点です。 ↑これで少し分かった気がします。 99匹も1匹も同じなんですね。 1匹だ99匹だと天秤にかける心が、人間の弱さであるけれど、神の御心はそういうものではないと。
- naminami73
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↓のサイトで少しは納得に近付けると思います。 私はミッションスクールで、礼拝でもその話を聞きましたが、99匹が食べられてしまう展開ではありませんでした。 聖書(派)に依って違うのかな・・
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 参考URL拝見しました。 私はキチンとした場でこの話を聞いたのではないんですよ。 何かの話のついでに出てきたので・・・ どうも、他の方のご回答によると99匹の話は思い違いのようです。 でも自分で『99匹はどうなっちゃうの?』と思ったのは事実なんですよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼が遅れて失礼しました。 そうですか。99匹は私の間違いでしたか。 (^^; ありがとうございました。 >例え話が話されている前後のシチュエーション、 当時のイスラエルの時代背景・文化・習慣・価値観も 把握した上で読まないと、表面に見えてくる物に惑わされて普遍的な真理がわかりにくくなります。 そうですね・・・ 取税人どうこうという前置きは初めて知りました。 聖書に限ったことではないですが、言葉というのは部分だけ切り取ってしまうとまったく真意が伝わらないですよね。 そう言えば、右の頬を打たれたら左も出しなさいなんて、最初聞いた時は『何考えてんだコレ言った人・・・』と思ったものです。 実際、暴力で支配されていて保護を必要とする人に、右の次には左も出しなさいなんて絶対言えませんし。 参考になりました。 今度から何か『ん?』という話があったら前後関係から調べてみます。