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キリスト教徒の方もしくはそれに詳しい方にお聞きしたいんですが 「我この地に平静と安息もたらしに来たと思うな」で始まる聖書の言葉があると聞きましたが  それはどのように意味が語られているのですか。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.2

聖書の文語体ですね 次の文章が良く似ていますので あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 そのままでしょう。ある一つの真理を置くなら絶対に否定するものがおりまた肯定するものがいる。 もしキリスト教がなければ好き勝手に生きてますね。みんな楽しくその場が良ければいい。こんな感じになるのえは?             聖書協会から抜粋 ルカの12:51あたり                           かな?

zep68
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返事が遅れてどうもすみません また何か有りましたら宜しくお願いします。

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  • michael-m
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回答No.3

一つの真意は時間の経過と共に慣習や保守的な解釈によって歪められていきます。イエスはその様な誤った解釈の法の中に現れました。 その役目は人が歩んでくる歴史の中で歪められてしまった法を元に戻す為です。 従って、そこには必ず、それまでの慣習や歪められた解釈に流される者、保守的に護ろうとする者、自利の為に抵抗する者との分裂が起こります。そして最終的にイエス自身も異端者として罰せられました。 しかし、それは罰せられる事によって人々の原罪を含めた罪の許しを得るための定められた行動だったわけです。 これに類する言葉(聖書の各所に書かれている同様の言葉)を以って、自らの改革を是とする(或いはある人の改革をこの聖書の言葉を以って是と解釈する)人が多くいますが、本来の聖書の言葉は、あくまでもイエスだからこそ成り立つものですし、その本意は改革にあるのではなく、イエスが成すべき努め(十字架にかけられる事)の為の準備と共にあるのです。 人が主張する改革全てが正しいとは限りません。最初から間違っているもの、後に誤りとされるもの、改革の後に保守に走るものなど、人の行なう改革は、必ず長短があります。つまり人が起こす改革は似て非なるものである事を忘れてはなりません。

zep68
質問者

お礼

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  • sugekoma
  • ベストアンサー率31% (9/29)
回答No.1

丁度、そのことに関しての説教が載っているサイトを見つけましたので張ります。 http://210.152.89.134:3220/worship.nsf/a2ac419283a37f9c49256c0f002e4cc8/4f23021a2c17a3cf4925731b002533b2?OpenDocument 私は高校生の頃キリスト教に興味を持ち、20才の時に、聖書で語られている神こそが本当の神だと信じ、洗礼を受けました。 しかし、私の家は仏教であり、また日本古来の冠婚葬祭とキリスト教の教えとの挟間で随分葛藤や衝突がありました。 イエスを救い主として受け入れる時、周囲の常識と対立する事がありますが、そんな時にこの御言葉をよく思い出します。

参考URL:
http://www.febcjp.com/
zep68
質問者

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