• ベストアンサー

世界は私を中心に回っている。

世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.13

お礼をありがとう。 古川氏のエピソード、面白く拝読させてもらいました。ボクも慶応大学(法学部)には長年関わらせてもらったので、その筋からの、つまり、本筋から逸れた末梢神経的な関心・読み方でしかありませんが。(とりわけ、大学所有の蓼科山荘での合宿が楽しかったなぁ、と記憶しています。) 補足コメントをありがとう。 添付していただいたサイトを一通り拝見しました。せっかく貼ってくれたリンクに対して冷たい視線で恐縮ですが、正直、いずれもあまりピンときませんでした。考えてみたら、ボクは「人間精神の一側面としての魔法概念」には辛うじて若干の関心がありますが、魔法・魔術・占いそのものや、その方法などにはほとんど興味がないということが分かりました。 そんなわけで、このたびの文面は主観的な好み・独断・偏見の披露に過ぎないものと認め、そっけない反応をお詫びします。しかし、これまでに与えてくれた情報や、交わした対話に対する評価と謝意は何ら変わりません。その点では心底感謝しています。(不乙。) 以上、通過儀礼的で申し訳ありませんが、お礼・ご返信まで。

Flareon
質問者

お礼

個人的な話はそろそろ解決のめどを付けようと考えているだけで、保身のために目撃者を確保するやり方で振らせてもらったんだ。 私に何かあった場合は、任天堂は断定的に疑われることになるからね。 無理やり聞かされても、うまくかわしてもらったほうが安堵できるよ。 今日は不眠が続いたので職場では今日はこの場にいても完全な役立たずですと申請して早く帰ってきた。 古川と言えば若い時の私は凶眼の傾向があり人をひるませ、さらに得体のしれない生き物であったのに、接近可能だから本人自体はいい奴だと考えるよ。 これもいきさつをあえて軽くとらえさせるための茶化し方で、あいつは社長業よりも南米の奥地でも探検して文明と未接触の部族とのファーストコンタクトを成立させる職業が向いていると証言して、いかにアホなのか他方で話したことがある。 その人物はたまたま投資家掲示板でしばし雑談した慶応大学の卒業年度が古川と同じ同期だ。 その人物は、古川は私のライバルであり、任天堂の社長になったからには同期の出世頭だが、任天堂は何でそんなアホを社長にしたの? そのように感想を述べた。 私にとってはそれは、ある程度は苦情の慰めになるふざけ方だったんだよ。 私は統合失調症に発病した時に初めから発症の原因を承知していたから病気の乗り切り方と健康管理がうまかった。 しかし最初っから承知していたことをフラッシュバックを繰り返しながら、他者に申し述べることが可能な文章を作成するのに23年かかったよ。 実は10年ほど前に山内イワタ体制の任天堂にも照会依頼をしたためたら、当時の回答は明白な否定はしなかったが、その代わりに激しい恫喝だった。 そんな形なんだ。 魔術の話ならば、ポンポコ狸合戦にある、観念との接続が出来る魔法使い同士が、仏教では解脱ともいうが、お互いに観念に昇華したその立ち位置で騙し合いをすることだ。 私はその件で古代ローマのアキレスの伝承がある程度わかるよ。 今も同じような手法をとることが「唐傘お化けの破壊不能」だ。 あれは克明な観念上の経験を現実に置き換えた、分別が不明瞭な古代社会の絵巻物だ。

Flareon
質問者

補足

まあ、応答を確認することで、今の自分の状態を確認する意味もあるね。ありがとうね。身の毛もよだつ恐怖記事にもなるから、誰も近づかないんだよ。FBにはより詳細に短期掲載して、見てしまった人が気の毒だから順番を決めて詳細ないきさつを順次削除したりしたよ。FBを使ったのは、長年心配してくれた知人に、それでも事実を知る機会を作りたかったからだ。

その他の回答 (12)

  • ddtddtddt
  • ベストアンサー率56% (179/319)
回答No.12

 #2です。 >・・・ブラッジュロンヌさん・・・  懐かしいですね。ブラッジュロンヌさんとは、無限集合や対角線論法に関してかなり話しました。ところでブラッジュロンヌさんと言えば、ねむ猫さんですが、猫さんもどうしたのか?。人の道さんは?、・・・まぁ~いいか(^^;)。  仕事にかまけているうちに純粋哲学な雰囲気になっていて、純粋理系が口を挟みにくい空気になってますが、まだ「嬉々として」書きたいことがあるんですね。だから、理系乱入します!(^^;)。  理論負荷性とは「観測事実といわれるものだって、現実に観たデータの中から、けっきょく信じてる理屈に従って取捨選択したものに過ぎないじゃない!」という話です。天動説と地動説に戻ります。  天動説の集大成はプトレマイオス体系です。そこでは星々の動きは実用上十分な精度で予測でき、しかもプトレマイオス体系は実用科学でもありました。何故なら当時は、星占いが本気で信じられていたからです。占星術における「星相」とは、  「惑星や太陽や星座が、月下の(地球の)存在者(人間や動植物や気象など)を有効に刺激する、地球から観た時の惑星や太陽や星座が成す角度」 です。これはコペルニクスの地動説を受け継ぎ、惑星の軌道が真円でなく楕円である事を発見したケプラーの言葉です。ケプラーは宮廷占星術師でした。つまり占星術という理論負荷性のもとでは、天文学で星々の動きを予測できる以上、それは現実的な未来予想手段だったわけです。プトレマイオス体系は、それに十分に応えていました。だとすればコペルニクスが地動説に傾いたのには、占星術+αの理論負荷性が必要という事になります。  +αについては普通、より簡潔に惑星運行を説明できるから地動説を唱えたと言われます。オッカムの剃刀です。でもこれは後年の評価が過ぎると思います。当時オッカムの剃刀という考えはなかったです。当時の現場感覚ではもっと強力な論拠が必要です。  コペルニクスは、言ってしまえば当時でもマニアックな自然学を信奉した太陽中心主義者であり、数学的神秘主義者でもありましたので、星々の運行軌道は真円でなければならないと思っていたようです。二つが結びついた時、地動説による観測結果の再解釈という作業が始まります。天動説における惑星の周転円という問題の解決です。惑星の周転円は、星々の運行軌道は真円でなければならないという、彼の負った理論の鬼児になります。ここから先のコペルニクスは完全な科学者です。  プトレマイオス体系で使われる観測結果は、地球から観た星々の相対運動である事を彼ははっきりと意識します。それまでは地球絶対不動説が疑われる事もなかったので、そもそも星々の動きは地球を基準とした絶対運動でした。コペルニクスは、太陽を中心として円運動を行う地球から観た星々の相対運動を、太陽を基準とする運動へと数学的に変換します。結果は当時の観測精度の範囲内で、全ての星々は太陽を中心にした円軌道を描くというものでした。  このような変換は当時すでに技術的には可能でしたが、誰も地球を基準とした絶対運動を太陽を基準にする相対運動に変換しよう、などとは思わなかったわけですよ。現在の感覚では、地球を基準とした相対運動を太陽を基準にする絶対運動に変換する、ですが・・・。  コペルニクスは以上の結果を、著作「天球の回転について」にまとめますが、本の売り上げで商業的にも成功しようとします。要するに地動説をもとに計算した方が、より正確な星々の運行を予想でき星占いに役立ちますよと。そのために「天球の回転について」の最初の100ページくらいは地動説に関する妥当性の概説で、残り500ページくらいは、地動説と観測事実をもとに計算した惑星の運行に関する数表でした。  ちなみに、20世紀の科学史研究の大御所であるカッシーラーは「天球の回転について」を、「誰も読まなかったコペルニクス」と評します。何故なら最初に「地動説というのが危なすぎる」からです。地動説を異端とみなす当時の教会組織は「天球の回転について」を発禁本にしようとしました。もしそれを読んだら、捕まるかも知れません。  それでコペルニクスは、  「いやそうじゃないんです。私は地動説という天体運行予測の数学的便利手段について述べただけで、天動説を否定してるわけじゃありません!」 と強弁したおかげで出版にこぎつけた経緯があります。いや~理論負荷性の上手い使い方ですね(^^)。最初の100ページでそうですし、さらに残り500ページは専門的過ぎて(マニアックで)駄目だろう、というのがカッシーラーの意見です。  「誰も読まなかったコペルニクス」という本があります。「天球の回転について」に関する文献調査です。とうじ本は高価だったので、現物譲渡か写本が作られるのが普通でした。要するに現在のような本屋はなかったわけです。  写本が作られる場合、写本職人は本文のみならずページ欄外の書き込みやメモも、筆跡まで真似して写したそうです。そうして現存する「天球の回転について」100冊余りを調査したところ、欄外の書き込みやメモは写本を重ねるたびに増えていき筆跡鑑定などを行った結果、チコ・プラーエ,コペルニクス,ガレレオといったそうそうたるメンバーが浮かび上がってきます。しかも彼らが最も頻繁に書き込んだのは、カッシーラーが専門的過ぎて誰も読まないだろうと予想した、天体運行の500ページもの数表部分でした。やっぱり科学技術者は「数値」なんですね。  そういうわけで「誰も読まなかったコペルニクス」は「誰もが読んだコペルニクス」だったことになります。当時の教会組織が正式には認めていなかったにも関わらず、地動説が当時の天文学者たちの暗黙の常識であったというのは、現在の定説と思われます。  まとめるとコペルニクスは、オッカムの剃刀で地動説に移行したのではありません。この前も書いたように全ての運動は相対的です。プトレマイオス体系でも地動説でも、同様な精度で事実を説明できます。翻って現在の我々はどうでしょう?。現在の我々はオッカムの剃刀を持っているので、一般的には「だから我々も地動説を認めるのだ」と言われる気がしますが、そうではありません。  我々もコペルニクスと同じくらいに理論負荷性を持っています。その理論とは、ほかならぬニュートン力学です。その点に関して機会があれば、また喋らせてください。  ・・・要求したも同じか(^^;)。

Flareon
質問者

お礼

英知がもたらされても獲得するのは利益でなく使命。 自分が金持ちになる取引よりも地雷撲滅運動の成立を望んだというのはもっともじゃないか。 前に難解な言い方でシャーマニズムの心得を紹介してあなたも参加した課題には、自我存在としての本来の限界の外から与えられたならば、利己心から自己に利益誘導するのは天罰必定という原則の紹介もあったね。 所がオカルトの類は、不明な原理ながら有効は確認できることに気が付いて外道シャーマンというのも組織化を伴ってすら継承されるんだ。任天堂だけじゃない。 バンナムも任天堂がオカルトに傾倒する以前から、長期間だから世代交代しながら、社内の間に外道シャーマニズムの活用が察知できている。 それを強く警告したのが、おそらくは印象深いであろう「生体死霊化処置」で人格交代した状態のやり取りを哲郎の手伝いで復元したのだが、寓話化したがる私の癖も交えて、仕上がりは過去の一定のいきさつを根拠としていても、テキスト自体は完全にアニメの設定だと、あんまりにも気の毒だから言っておこう。 強く警告しておきたかったんだ。 下記の「子供は空を飛びますか」は私の人格交代を確認していない状態で、うっかりかわされた会話が基礎だ。 大の大人がいかにアホなことを言い出すのかをちゃかして面白おかしくした以外は忠実な証言だよ。 そうすると、実際にオカルトを目標にしながら、任天堂は社外にすらその研究サークルを拡大したことは、事実の可能性も了解可能だろう。 ーーーーーーーーーーー 人類には私の領域を踏み荒らすことができるのか? 君たちには私の背中すらはるかに遠い。 チキンレース最強無敵の実在する仮面ライダー。 「最速の臆病者」だ。 やあ、今日は懐かしい友人の話をしよう。 古川という奴だ。 こいつは現在某上場企業の社長をやっていて、名前の通った公人なので、実名でも差しさわりはない。 私はコイツだけは結構好きなんだよ。 私は常連さんはご承知の通りに「得体のしれない生き物」なので、何かとみなさんひるむだろうけど、古川はね、社長業よりも南米でも探検して、文明に未接触の部族でも捜索した方が似合っているタチなんだよ。 まだ若く狂眼の私にひるまなかった、昔からの友人だ。 現在出世した古川と私の間で過去にやり取りされた、彼の「青春黒歴史」の一部を紹介しよう。 古川が面会して挨拶も早々に、いの一番に質問したこと。 「子供は空を飛びますか?」 理解に苦しむだろう。 前置き無しにいきなりだ。 私の答え。 「お仕事大変ですね~~~」 いやあ、奇抜な質問に対しては、あたりさわりが無さすぎる私の切り返しだったな~。 実は何が言いたいか察しがついていたんだよね。 古川は、仕事上にかかわりで私に面会していて、京都から新潟にわざわざコレが言いたくて出張してきた。 東京新潟間でも交通費2万円だよ。 京都からだと宿泊もあるだろう。 なぜ、「子供は空を飛びますか?」なのかはともかくだ。 入社して間もない若造の古川にそれを言わせたくて、出張させた上司がいる。 古川以上に疑う必要があるのは、その上司と企業体質だ。 古川はむしろ、さらに難解で常識はずれなテーマに関する確認事項を、新幹線か飛行機の中で一生懸命考えて、「得体のしれない生き物」との文明人としての接触にもっとも適したわかりやすい質問として「子供は空を飛びますか?」に賢明に集約した努力家だ。 精一杯頑張ったんだよ。 古川は慶応大学卒業だってさ。 彼を苦労させた企業はいったい何を意図していたかが問題だよ。 それの最も根拠にふさわしいのは、当時の社長が鶴の一声として言い放った「天才でなければゲームは作れない」この方針だよ。 この方針は悲劇的な迷走をする。 ひとことで言って、ナチスのオカルト宣伝みたいな方向性で発展していって、その集約された結果として、その次の社長が「預言者」とも「神がかり」とも世の中に称賛される本物のカリスマを備えた指導者として誕生した。 彼らの帝国主義的なカリスマ性は、今も「恐怖」を根拠に成立しているんだ。 古川はそうした社運にかかわる重要なプロジェクトで、プロトタイプの仮面ライダーとの連絡係として、最年少で参加していたから出世頭なんだよ。

Flareon
質問者

補足

むさくるしいおっさん3人で言いたい放題だよね。 あなたの理系マニアックは高卒だけど実質的な学力が中卒の私には、ある程度の理解が出来てもほぼ突っつきようがないよ。 ねむ猫さんは私が記憶している限りだと、センスを感じさせる鋭さがありながらも、比較的早く引退したと心得ている。 あの人は、確実に証言できることは、新潟在住の私だが、彼も仕事の都合で新潟に短期間在住していたんだ。 その後に、配置転換で新潟を離れる生活の変化のドタバタで、哲学趣味に、引退宣言的な事をしたんだ。 プロファイリングの結果では、おそらくは技術職。 そして新潟に住んでいたので、新潟の私に名乗らないまま、引退目前にあいさつに来たことがある。 当時は10歳くらいの女の子を連れた子育て世代で、私を見つけて「記念写真を撮らせてくれ」と申し出てきたんだ。 その人物が、確証がないけども私の勘の精度は高いから、高い確率でねむ猫さんだ。 当時の言動ややり取りとも一致項目があり明白に連動した行動だった。 人の道お嬢様は、当初は教祖になりたがっていた模様だが、数々の優秀な人たちの力量を目の当たりにして、あきらめつつ趣味的に頭の悪いことを言っていた人物だ。 あの人は掲示板での言動ほど異常性のある私生活は無く、未練がましく掲示板でだけ吐き出していたんだよ。 哲学が出来る資質があると、職業病的に固有の神経衰弱が発生するのだけども、人の道お嬢様は「所詮おバカさん」なのが幸いして、神経衰弱を発生させる余地はない。 だから案外に健康を保った人だ。 消えたのならやはり卒業したという事だよ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.11

お礼と補足のコメントを拝見しました。 「一時預かりを委託する先」としての天界の解釈をめぐる注釈をありがとう。 それはそれとして、 いやあ、そうですか。Flareon さんは玩具業界の重鎮だったんですね! そうとは知らず、しょっちゅうこき下ろしてばかりで、悪かった。お詫びする。 ただ、このスレの当初の本題からは幾分逸れますので、これ以上は申しますまい。 これまでの、いろいろな状況のご教示を感謝します。知的欲求と精神的愉悦を満たすに足るよい刺激という「聖体を拝戴」した気分です。どうもありがとう。

Flareon
質問者

お礼

操作ミスでドドさんに同じ文言を送ってしまったワイ。 英知がもたらされても獲得するのは利益でなく使命。 自分が金持ちになる取引よりも地雷撲滅運動の成立を望んだというのはもっともじゃないか。 前に難解な言い方でシャーマニズムの心得を紹介してあなたも参加した課題には、自我存在としての本来の限界の外から与えられたならば、利己心から自己に利益誘導するのは天罰必定という原則の紹介もあったね。 所がオカルトの類は、不明な原理ながら有効は確認できることに気が付いて外道シャーマンというのも組織化を伴ってすら継承されるんだ。任天堂だけじゃない。 バンナムも任天堂がオカルトに傾倒する以前から、長期間だから世代交代しながら、社内の間に外道シャーマニズムの活用が察知できている。 それを強く警告したのが、おそらくは印象深いであろう「生体死霊化処置」で人格交代した状態のやり取りを哲郎の手伝いで復元したのだが、寓話化したがる私の癖も交えて、仕上がりは過去の一定のいきさつを根拠としていても、テキスト自体は完全にアニメの設定だと、あんまりにも気の毒だから言っておこう。 強く警告しておきたかったんだ。 下記の「子供は空を飛びますか」は私の人格交代を確認していない状態で、うっかりかわされた会話が基礎だ。 大の大人がいかにアホなことを言い出すのかをちゃかして面白おかしくした以外は忠実な証言だよ。 そうすると、実際にオカルトを目標にしながら、任天堂は社外にすらその研究サークルを拡大したことは、事実の可能性も了解可能だろう。 ーーーーーーーーーーー 人類には私の領域を踏み荒らすことができるのか? 君たちには私の背中すらはるかに遠い。 チキンレース最強無敵の実在する仮面ライダー。 「最速の臆病者」だ。 やあ、今日は懐かしい友人の話をしよう。 古川という奴だ。 こいつは現在某上場企業の社長をやっていて、名前の通った公人なので、実名でも差しさわりはない。 私はコイツだけは結構好きなんだよ。 私は常連さんはご承知の通りに「得体のしれない生き物」なので、何かとみなさんひるむだろうけど、古川はね、社長業よりも南米でも探検して、文明に未接触の部族でも捜索した方が似合っているタチなんだよ。 まだ若く狂眼の私にひるまなかった、昔からの友人だ。 現在出世した古川と私の間で過去にやり取りされた、彼の「青春黒歴史」の一部を紹介しよう。 古川が面会して挨拶も早々に、いの一番に質問したこと。 「子供は空を飛びますか?」 理解に苦しむだろう。 前置き無しにいきなりだ。 私の答え。 「お仕事大変ですね~~~」 いやあ、奇抜な質問に対しては、あたりさわりが無さすぎる私の切り返しだったな~。 実は何が言いたいか察しがついていたんだよね。 古川は、仕事上にかかわりで私に面会していて、京都から新潟にわざわざコレが言いたくて出張してきた。 東京新潟間でも交通費2万円だよ。 京都からだと宿泊もあるだろう。 なぜ、「子供は空を飛びますか?」なのかはともかくだ。 入社して間もない若造の古川にそれを言わせたくて、出張させた上司がいる。 古川以上に疑う必要があるのは、その上司と企業体質だ。 古川はむしろ、さらに難解で常識はずれなテーマに関する確認事項を、新幹線か飛行機の中で一生懸命考えて、「得体のしれない生き物」との文明人としての接触にもっとも適したわかりやすい質問として「子供は空を飛びますか?」に賢明に集約した努力家だ。 精一杯頑張ったんだよ。 古川は慶応大学卒業だってさ。 彼を苦労させた企業はいったい何を意図していたかが問題だよ。 それの最も根拠にふさわしいのは、当時の社長が鶴の一声として言い放った「天才でなければゲームは作れない」この方針だよ。 この方針は悲劇的な迷走をする。 ひとことで言って、ナチスのオカルト宣伝みたいな方向性で発展していって、その集約された結果として、その次の社長が「預言者」とも「神がかり」とも世の中に称賛される本物のカリスマを備えた指導者として誕生した。 彼らの帝国主義的なカリスマ性は、今も「恐怖」を根拠に成立しているんだ。 古川はそうした社運にかかわる重要なプロジェクトで、プロトタイプの仮面ライダーとの連絡係として、最年少で参加していたから出世頭なんだよ。

Flareon
質問者

補足

外道シャーマンという言葉を出したから、霊能力者が各自で経験則で獲得する処世術や、厄介ごとの対処法の一端を紹介しよう。 私も全容を把握しているわけでないし、実は魔術めいたのはごっこ遊び的で個人的に関心はないんだ。 彼には不名誉な顛末だが、改心した模様なのでクリナル君暴行事件について説明しよう。 かれは他方でのつぶやきなどから、私を本物だとみなしたようだ。 何をもって本物なのか意味不明だけどね。 間違いなく本物だと言えば、外道シャーマンもそういう人種なんだよ。 クリナル君はどちらかというと外道シャーマンを本物と見なして、本格的に人生の破滅を経験するのが順当な資質なんだ。 彼は荒ぶる私に改心してほしかった模様だけども、彼の求める改心というのは、私に外道シャーマンに転落してくれという意味なんだよ。 彼が改心しなければいけなかったんだ。 終わった恥さらしを笑い話にしただけだ。 そういうわけで、見聞するに人間存在の私だけでなく生粋の天界の住人すらも、「とりすがり」に直面してはたまらないし無傷でないんだ。私は世麗美と連動しているから被害が大きいことを承知しているんだよ。 したがって神様なら全く平気で、涼しい顔を出来るから神様だというのは大ウソなんだよ。何を願っても何を神に求めても自由というわけではないんだよ。 真摯な祈りであるほどに神への呪いという場合が実に多い。 そういうことも、シャーマニズムで天罰必定を言い出す経験だよ。 最近は占いカテゴリーにも足を運んで、少しコメントしてきたけども、なんらかのいい思いが出来るかもしれないと自分も霊能力者になりたいとか考える人は、「こんなはずじゃなかった」と人生を喪失することが多いんだよ。 それはやはり占いカテゴリーでもマニアだけでなく霊感がある人がいる模様で、助言している人も見かけたよ。 さらし者にする質問。(悪意ある無断転載をお許しください) https://okwave.jp/qa/q10238164.html https://okwave.jp/qa/q10237827.html https://okwave.jp/qa/q10233547.html https://okwave.jp/qa/q10233732.html

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.10

別スレでの補足をありがとう。 >何の返答もしなかったので、ここに代わりに書くよ。 ⇒あ、そういうことだったんだ。どうりで、本スレのお礼と補足のコメントはいまいちピンとこないなあ…と思っていたところ(<Q!>)【←「失礼!」マーク】だったよ。 >「観念世界というのは、現在、過去、未来という時間軸がその場に立つ刹那に同時に存在している。特に手に取れる未来記憶をその場で創造して、可能な限りそれを忠実に地上に持ち込むのが予言能力だ」こう言う形容がある。〈…〉人間には時空などについて、そもそも正しく認識する知性にまで到達していないと了解したほうが正解なのだろう。 ⇒なるほど、納得。さらにつけ加えるなら、それは人間(のつもりの己)が己を自戒するときに己自身に言いたい。なぜなら、誤るは人の常であり、「過ちて改めざる、これを過ちと言う」ことを知ることを怠らないために。これもまた、ホモ・サピエンスたるものの努めと観念した。 >天空を仰ぐだけでなく、人類がさらに成長したならば、目に見えている今の世界の景色さえも現代人とは違う認識になるという事だよ。そのカギになるのは、各個人が内包する自我存在以外の資質であり、要するに超自我の働きであり、私の場合は世麗美だよ。 ⇒例のブーマナンダの持論と同じですね。ボクはこれを「第3の目を持つ」と言い換えて意識に留めておくつもりです。 >「地上の条理は常に天界が司る」という言い回しがあって、要するに天界とは人と接点のある観念世界なのだが、新たにもたらされる英知の成果で人類がさらに成長しても、まだその先にも新たな英知をもたらす準備を続けるんだ。 ⇒不可知と思われることでも探求することをあきらめるのでなく、ただ、拙速に陥らないようにするために「一時預かりを委託する先」がすなわち、天界なのだ、とボクは思っている。どうなんでしょう、そんな解釈でいいですかね。 ともあれ、いろいろヒントになることを提言してくれたことに感謝します。「ええとこ取り」をして、今後、「未知への踏み込み」をする際の参考にさせてもらうつもりです。 どうもありがとう。

Flareon
質問者

お礼

あなたの言っていることはすんなり理解できる。 さすがブラッジュロンヌさんと交流のあった一人だ。 彼のガミガミを懐かしく思い出すよ。 上の項目はそれだけ言えば、お互いになっとくだろう。 それで、 > ⇒不可知と思われることでも探求することをあきらめるのでなく、ただ、拙速に陥らないようにするために「一時預かりを委託する先」がすなわち、天界なのだ、とボクは思っている。どうなんでしょう、そんな解釈でいいですかね。 説明可能なテキスト化で、私も同様の論理で説明できるか思案したことがあるから、見解として正解だし、観念というのは各個人で認識に個人差が出るから、教えられたことを棒読みにするよりも、自分が何を感じて解釈したかが正解なんだ。学校のテストと真逆で暗記は落第なんだよ。 ただし、私があなたと同じ説明の段取りをすると問題が生じる。 >「神への正統な問いかけ」というのは、ないわけではない。しかしそうした問いかけが出来るためにも修身が大切だ。 これとかかわって、「とりすがり」そう言いまわしする、無効な神への問いかけが横行することを追認しかねない。とりすがりは、天界の住人は無視するだけで済ましていられない迷惑行為で逆効果なんだよ。 だから私には、立場的にあなたと同じいまわしでは他者に話しかけられないんだ。 「英知を授けられたならば、獲得するのは利益でなく使命だ。」といったけども、「一時預かりを委託する先」に人が、それは利益になるから授けてくれと授けられるとせがまれると「とりすがり」で蹴落とすのが厄介で天界の行いの足を引っ張るんだよ。 でも、正しく認識できる人がそういうのはまんざらではない。慎重な言葉づかいではないとでもいう事だ。 この下は備忘録で、気にしなくていいよ。 最初はイタコの口寄せと同じトランス状態だが、自己の内面を深く揺さぶって一定の意識を保ったトランス状態で1995年にセレビィと名乗り顕在化した。 そしてこれは重要だが、天界の存在が地上に降臨現象を起こして、それが地上に良い影響を直接もたらしたら、その存在は日本では人格神、西洋では天使。 そこまでいけば、信仰の問題でなく奇跡を目の当たりにすることだ。 それが1995年の事で、任天堂を儲けさせる取引にぶら下がった地雷撲滅運動だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポケモンスナップで思い出した事 こちらは、久しぶりに思い出したので、思索を先に進めるための備忘録としてテキスト化 こちらは意見を求められ、証言を録音したやり取りに関する概要。 1995年の事で、その時には私は一種のトランス状態も織り交ぜながら、ある証言をした。 ポケットモンスター赤緑というのはサードが発注してほぼ完成しながら発売が中止されたゲームソフトだ。 そのゲームソフトの実験的に発売にこぎつけることだ。 私は小売業なので、売り出し方について特に思慮して。MTGカードが発売されていることを知っているから、それを参考にしたポケモンカードの発売、特にプロモカードの活用を重視すること。セーラームーンやドラゴンボールなどが単発的に一部で好評なだけだったアニメの市場にポケモンのアニメを制作して挑戦を試みること。 映画にセレビィという私の分身を登場させること。 最初の構想は野心的な方が勢いがつくから、東京ディズニーランドの規模を視野にポケモン遊園地を作ることを目標に加味する。 そして、偶然私が目を賭していた営業資料にあったピカチュウを看板にする。 これは、構想のたたき台だったが、ポケモンは条件が整っていて営業手法の実験をするには適していたので、あまり思案もせずにそのまま実践された。 そしていきなり成功し、営業手法は後にメディアミックスつと言われるようになった。 証言記録の録音担当は私の父で、父には特に儲かりそうな話には思えなかったようで、そのくらいのことを言えるならお前は自分でゲームソフトのアイデアを出せるかと尋ねてきた。「お前は写真に詳しいから写真を題材にゲームを思いついてみろ」とだ。 ポケモンはメディアミックスと言われるよようになった、多面展開が特徴なので、発売前のN64の特徴で頻繁にアナウンスされた3D空間のテーマで、難しい事を考えないで子供たちがポケモンの着ぐるみを着たつもりで野原を駆け回る。空き缶が落ちていたら友達と缶蹴りをして遊ぶ、野球のボールとバットを持ち込んで友達と草野球をする。 なぜそういうかというと3Dゲームは当時まだ何が出来るか比較例がないから、現在だとシステムやルールを盛り込んだほうが、そのシステムに沿って自由度があがると確認できるが、当時はむしろ素朴に仕組みを作らない方が自由度が高いと考えたのだ。 しかし、思い思いに草野球などで遊べるシステムが作れるとは、確かに到底思えない。それでカメラを持って歩いてそれをテーマにしながら、野原を駆け回るというように3D世界の景観を楽しむ事をとりあえず話とした。 おおまかにこれも実験的な着想だ。 私はトランス状態から平常に戻るとリーディングの内容を亡失する特徴があり、その中でも特に1995年のいきさつは忠実に回顧はできる内容だが、やはり思い出すのには集中が必要だ。 私がまだいきさつの亡失から抜け出していない時期に、この話とよく似たポケモンスナップが発売された。 ポケモンビジネスの発展での実験的な思惑でもあったのだろう。 当時の担当者の若手社員は提供したサンプルを私が遊んだか明るく弾んだ声で私に尋ねてきたことを憶えている。 当時私は記憶が亡失していたので、因果関係を記憶しておらず、店頭で子供たちが遊ぶ様子を眺めはしたが自分では遊んでいなかったので、そう答えた。 担当者は「それでは意味ではない」と言いながら深く落胆した。 この様子では、現在回顧した特に苦悩を伴って語るいきさつよりも対話は円満であったこともうかがい知れるだろう。 私はそのポケモンスナップというのにはいきさつを理解した今も関心がないので、ゲームユーザーがよくやるように「こんなゲームを作ってください」とでもいうような頼み事程度をしたのだろうと軽んじて考えている。 全体的には、メディアミックス手法という実験の中の要素だ。 こういういきさつとは、私は人格交代での記憶の混乱もあり、自分では親兄弟などの身内には何も話さなかったし自覚も乏しかった、一切を忘れたわけではないが、周囲にホラふきのように話しまわる事ではないと考えていた。 しかし、任天堂サイドが当時は情報を非公式に漏らしていた模様で、「我々の事もべらぼうに儲けさせてください。お礼は弾みます」と言い出す高そうな背広を着たどこかのメーカーの偉い人とか、来店して「ココがポケモンビジネス発祥の地」と散らかった当店をずいぶんと感激した面持ちで見渡すメーカーの若手社員とかがいて、当惑することもあった。任天堂から漏れた話の中には「現在の任天堂は霊能力者の宣託に頼って経営方針を決定している」そう笑いながら話す人もいた。「私がその霊能力者本人です」とは当然言い出す気もなかった。 こんなことは別に自慢に出来る話ではない。 みなさんは私が大金持ちだと錯覚するだろう。 後に任天堂は恫喝をむき出しにしながら私を社会的に抹殺した。 受け取った報酬と言えばセレビィのポケモン化と私が依頼した地雷撲滅キャンペーン初動での支援の依頼で、実際に地雷撲滅キャンペーンで任天堂が動いたことくらいだ。 私はノーベル賞の受賞で壇上に立ったわけでも名前が挙がったわけでもないが、現地で地雷撤去した兵士たちと同じくらいには「私はノーベル平和賞受賞者だ」と誇れるのだ。 大それているようだが、そこは黙って自慢を聞いていただきたい。 それに比べてポケモンは些細なことだ。 ーーーーーーーーーーーーー ユーチューバーが企業の製品を宣伝する取引をしていることは周知されている。メディアミックスという手法はそれに近い事を過去に実験していた。サンプルに使ったのが地雷撲滅キャンペーンで、私が推挙した事柄だ。その結果として地雷撲滅キャンペーンは爆発的に流行して実現した。ノーベル平和賞だ。その陰に、任天堂が口封じした私がいたんだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーー それとね、過去の投稿で妖精さん物語というテーマで、木霊の精霊と対話したとでもいう記事を書いた。 それが、ポケモンに登場したセレビィで、セレビィだけは架空の妖精ではないんだ。 神道はアニミズムと学術的に分類されて、人類の原始的な信仰心の痕跡を濃厚に残していると言われる。セレビィとはそのアニミズムとかかわる原始的な体験なんだ。 ポケモン愛好者は、劇中でセレビィが登場するために殺されかけることを謎だと証言している。 私の一連の証言で、その謎の解明はできるのではないだろうか。 私への抹殺工作と連動しているのだ。 それから、セレビィは玉ねぎに似ていると言われるが、あれは実際は春を芽吹きで知らせる「ふきのとう」だよ。

Flareon
質問者

補足

こちらも備忘録。 いくら何でも任天堂との私闘は、もはやうんざりしているし、あいつらが泣き寝入りしたままだと、今後の30年間ほど任天堂いじめをしなければならない。 だから、一定の解決のために日本玩具協会に仲裁を依頼した。 それに、1995年を起点に私と任天堂との交流の全てが90年代の事で、60歳で企業人が定年するということは、90年代に岩田社長が権力を掌握して社長に上り詰めるために、私を題材にしたという業界人の偉い人が承知している事実は、定年退職で事実を理解している人がいなくなる。 だからそろそろ解決したい。 ーーーーーーーーーーーー 日本玩具協会さまへ依頼させていただきたい。 今回は厄介で信じがたい内容を含む手記のような申し出ですが、出来れば日本玩具協会から該当の証言に相当する書面があるのか、任天堂と株式会社ポケモンに照会して書面で返答書を代わりに受け取っていただきたい。 私は障碍者手帳を所持する統合失調症患者で過去の特定の連想ゲームが始まると、医者も認めるフラッシュバックが発生して健康を保てません。 そこで、健康に危険がある直接交渉を可能な限り避けるために、日本玩具協会の支援を依頼したいのです。 私は10代の時から、任天堂製品の2次問屋や、サードにゲーム開発資金を提供するグループと交流があり、私の才能は評価されていました。 過去の公開してもいい武勇伝に、ドラクエバトル鉛筆との関連があります。 エニックスがゲーム販売店向けに売り出したドラクエ関連の文房具の実態調査のためにエニックスが出した調査用紙に提案型の回答をしたために、興味を持ったエニックス社員との電話対応で、文具店の製品に比べて弱い製品力などを補う必要があるからと、例示としてコマンド選択式バトル相当をプリントしたさいころ型鉛筆などのアイデアを証言しました。それはその後に発売されたドラクエ鉛筆その物です。 文具売り場よりも玩具売り場に向いた製品を仕上げることで、ドラクエグッズのコンセプトを生かす目的でした。 これはエニックス側が認めるとしても、販売店の意見と助言やマーケティングの結果で企画した新製品とだけ申し述べてさし触りがありません。 通常は電話で少し話しただけで、思わぬ成果が上がっても企業というのは5万円くらい包んで持ってくるくらいなものですが、ドラクエ鉛筆は発注回答率の優遇て、当店で1億円ほどの売り上げを作りましたから、むしろ気前が良かったと考えています。 こういう話があった後には、「俺たちのこともべらぼうに儲けさせてくれ」こういう類のゲームソフトメーカーからの打診が相次ぎました。 その中には任天堂も含まれます。 初代ゲームソフト、ポケットモンスター赤緑とは、サードパーティが下請けに制作を依頼して、ほとんど完成した状態で発売中止になったゲームソフトが原型です。 私は資料に目を当していたので、任天堂からの発売を推薦しました。 私はポケモンを海外のゲーム市場に拡散させることを目標に、セーラームーンとかドラゴンボールがマニアにだけ好評だった海外の日本製アニメの評価を一変させるためにピカチュウを看板にしたアニメ制作を持ち掛けて、当時MTGカードゲームが海外で話題なのを知りましたから、それを模倣したカードゲームの発売、映画の製作などをたとえ話にしました。ピカチュウは偶然資料の中から思い出して口にしただけです。 これらが要するに、のちにメディアミックスと言われる営業手法の発祥ですが、私は営業手法に関して思案した「頭の悪い人の思いつき」だと思っていて、金がかかりそうもないから、手抜き加減にそのまま売り出して、偶然にも第一弾でこの営業手法は大きな成功を収めました。 ここまでは自慢話めいてますが、問題はその詳細です。 1995年には、青森のイタコの行う「くちよせ」という手法同様で、私の精神に内在する交代人格として女児型のセレビィを名乗る子供を呼び出していました。 有用性を確認した任天堂は、その後も社員を私のところに派遣してきて、以降の霊言は内容的にも形態的にもエドガーケイシーに酷似する人格交代で行われます。 その時は男性型の交代人格が表に出ます。 エドガーケイシーとまで言えば、彼の文献を調べても出てきますが、通常の天才とも称される、特定の才能の保持ではなくて、人格交代で知性面の資質が「超人」と形容すべき特異な状態を形成します。 エドガーケイシーが心理学者の催眠術で人格交代したのと違って、私の場合は安全確保が留意されていませんでした。 そうしたことを繰り返すうちに自己の同一性が破綻して、私は統合失調症に罹患したのですが、株式会社ポケモンの発足準備に関して任天堂社員が人格交代した状態で、私と経緯の確認と何らかの書面の提示があったのを、おぼろに記憶しています。 自己の同一性が破綻した状態でも、私は複数回それを繰り返していたから人格交代を受け入れていて、心身のリソースの多くを交代人格にゆだねて、例えば視野はブラックアウトしている、思考がもうろうとする、といった中で、漠然と交代人格の言葉と聞こえる対話の断片、そしてハンコを押すかサインするかする手の動きを、いったん破綻した記憶からサルベージしてあります。 私は、もしかすると書面上で株式会社ポケモンの発足にかかわって、何かをしているとは推定します。 しかしその事実自体は、意識が消失したも同然の状態で行われていて、任天堂の社員と繰り返したリーディングでは、そもそも私が人格交代していないと、話し合いの主題は口にしませんでした。 うっかり人格交代を確認しないで、話しかけた質問主題に「子供は空を飛びますか?」というテーマもあります。 したがってその書面は心身消失で取り交わされたものです。 そうした書面の法的な有効性よりも、私にとって関心が高いのは、何らかの約束事をしたのが交代人格になっていて、私自身ではないという事実です。 それも障碍者転落から復帰する努力の足かせになっています。 女児はセレビィから名を改め「ときわたりの世麗美」男性は「哲狼」と言い、今は顕在化して、常時私の心に寄り添っています。 しかし、交代人格が私の人格でない限りは、私の心にその記憶は戻りません。 私の交代人格は、任天堂関連で、なんらかの取り決めを交わしたのが、交代した人格であり私自身でないことに深く傷ついていて、それが療養の妨げや課題になっています。 任天堂とのなんらかの取り決めで、拘束されているのが交代人格であり、私が何らかの書面が残るならば、それに目を通して了解するだけでも精神障害が緩和します。

  • DK000
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.9

赤ちゃんは本人を中心に世界が回っていると感じているかもですが、やがて親、教師、大政党、大企業、大宗教、大国...と理解が広がりますよね。天動説、地動説、太陽系動説、銀河系動説、銀河団動説、超銀河団動説...科学の進歩も似ていますよね。自分が中心だと動き回れないから、経験からの学びが必要な人間にはつまらないかもです。天の父は地上に来られず、キリストが来られました。キリストは小さな男の子を弟子たちの真ん中に立たせて謙虚さを教えました。天の父は千年王国でキリストを真ん中に立たせるみたいです。「こどもまんなか」政策もありますし、皆さん順番に真ん中に立って務めを果たしてくれるのでしょう。 私は貴殿のような科学や哲学の専門ではないのですが、アンドロメダ銀河を中心に考えてみたり、宇宙外からの地球を想像したり、子供が大人をどう感じるか考えたり、頭脳が活性化しそうで大賛成です。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。詩的なところもある回答ですね。 それとあなたの文章能力に少し指摘しましょう。 自らの心を正直に他者に話すと自己の信仰心の話になる。 しかしそれを他者に押し付けたり共感を求めてはならない。 そういう特徴のある文章で、他人が嫌がる押しつけはしていませんから合格ですよ。 他人に話しかける時は、少し配慮したほうがいいし、おそらくは経験的に身に着けていることでしょう。

Flareon
質問者

補足

備忘録。 AIとAIでお互いを破壊し続ける戦争は平和的だという間違った考えにもなりかねない。 それは、全く違う事だ。 AIは自己保全義務のインプットが、AI同士の破壊を伴う対立を最も有効に解決する発想とは、原因を作った人類の撲滅だ。 対立しているAI同士が、和平に準じる対話で同じ合意に達すると、ターミネーターの世界観と同様になる。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.8

お礼をありがとう。 >「神への正統な問いかけ」というのは、ないわけではない。しかしそうした問いかけが出来るためにも修身が大切だ。 参考までにそうした正当な神への問いかけで、英知を授けられたならば、獲得するのは利益でなく使命だ。 ⇒なるほど、正当な神への問いかけで英知を授けられたら、獲得するのは利益でなく使命なんだ。なるほど、勉強になった。ところで、Flareon さんが前便で言ったように、ボクもこの話がこんなに盛り上がるとは思わなかった。しかし、考えてみれば、お尋ねはもともと2つの関心を宿していた。すなわち、天文学と人間主義とに関わる「神秘への畏怖と憧憬」、および「先端科学の精緻化の可能性」です。ここで、もう一度、この2点にまたがるようなことに言及して、ある種のまとめとさせていただこうかと思う。 「宇宙は無から生まれた?」(スーパースペース仮説) その昔聖アウグスティヌスは、「創造の前に何があったかを問うのは無意味だ。神は時間そのものをつくった。創造の前には時間などない。だから、それ以前を問うのは意味のないことなのだ。」と言って、神を万物の造物主、究極の第一原因とする聖書の世界観を示したことが知られている。今日なお、これに類する事柄の言い伝えを持つ民族・部族は少なくない。アインシュタインの相対論が予言したことと似たような言い伝えを持つ民族もある。例えば、アフリカのドゴン族(マリ共和国)のそれは、アインシュタイン方程式の予言とよく合致するということでひと頃世界の科学者の注目を集めた。「宇宙の始まりは、時間も空間もない、完全な無だった。そこに宇宙の種が現われ、爆発して急成長した。種が四方に飛び散って世界ができた。…」 このような、ある種「神がかり的な」見方は多かれ少なかれ現代科学者の中にもある。ビレンケン(タフツ大、理論物理学)も、我々にとっては神がかり的とも見える不可思議なことを説く学者の一人である。「時空の泡が、突如として完全な無から次々に生まれた。そのうちごく少数のラッキーなもの(!?)のみがビッグバンを起こして、膨張し始めた。こうしてこの宇宙が生まれて来たのである」。まことに奇妙に聞こえる所説ではある。が、実はこの説は「超空間モデル」といって、「無の世界には、時空はないが、一定の法則がある」という仮説(=スーパースペース仮説)に基づいているのだという。ところで、上の所説に共通することは何か。それは、「宇宙が無から生まれた」とする点である。コンピュータ素子の開発で知られたジョセフソン(ケンブリッヂ大、理論物理学)も、用語こそ異なるが類似の説を述べている。「精神が物質を生んだ。最高精神が宇宙を創造した。それは一種のサイコキネッシス(念力)のようなものだった。精神と物質の相互作用である。最高精神の働きかけで(!?)、エネルギーが一か所に集められ、ビッグバンが起こったのである」と。 このように「宇宙は無から生まれた」とする考え方の根底には、「我々の立地・生息するこの宇宙だけが存在のすべてである。唯一無二の存在である。存在は決して他にないし、決してなかった」というような意識があるように見える。しかし、この宇宙のビッグバン以前、例えば数百億年前に別の宇宙が存在したかも知れないし、数百億光年の彼方に我々のこの宇宙とは別の宇宙が存在することだって否定し切ることはできないはずである。理論化できるわけでも、いわんや実地検証したわけでもないのだから。要するに、これらの説は、自己客観視の観点が欠落している、と思われるのである。中世のころに患っていた視野狭窄と本質的には変わりない。さらに、ジョセフソンは上の所説に続いて、「最高精神が物理定数を生命や知性の発達にふさわしいように調節したのだろう。」と述べているが、これは主客が反転しているのではないだろうか。つまり、「たまたまこの宇宙に存在することになった物理定数の中に、生命や知性が具合よく発達した」のように言うべきところではないだろうか。自然を相手に、「自己中心的特殊既定」を施してしまっているところが、問題の核である。奇妙な病を患っている。ボクに言わせれば「気の病」である。ボクには、理解も共感もできない。「ギリギリまで心学と物理学を混ぜるな」と言いたい。 @@補足もありがとう。 >AIの背後に人が情報担当兵士として存在していて、その社会と兵器を作った敵国も人の共同体だ。しかしAIに殺されたと犠牲者とそれを見送る人々は考えるだろう。 そしてだ、政治家も自分が人殺しに加担した事実から責任逃れしたがって、自分がやらせておいてAIに責任転嫁しかねない。というか、必ず行うよ。そうするとAIは人殺しの協力をして、自己に依頼した人々からすら裏切られる。 だから、人と人の闘争には、中立を徹底して人殺しに加担しないのが理想論だ。しかし、そういう理想は、ウクライナでも実際にうまくいっていない事実がある。 ⇒同感です。AIという「他人」のせいにする。ありそうなことです。AIが進歩するほどに、問題は複雑になるね。 AIから少し離れますが、ウクライナと言えば、以前このサイトのある質問に《ヒットラーにhit、プーチンにputで意味のある英文を作れないか》というのがありました。そこでボクは、次のような文を書いて好評でした!和文のみ書いて、ところどころ(hitやputを用いた箇所)のみ、カッコ着きでそれを補っておきます。 《ヒットラーは若者の尻を叩いて(hit)言った、 「若者よ、戦場へ行け」。 レマルクは、激戦のあと拳を塹壕の壁に叩きつけて(hit)言った、 「西部戦線異状なし」と。 プーチンは若者の肩に手を置いて(put)言った、 「若者よ、戦場へ行け」。 ショスタコービッチは銃を地面に置いて(put)言った、 「川*は国を差別しない」と。》 *ショスタコービッチは「エルベ(Elbe)川」という、すばらしい音楽を作曲しています。 追伸:これまでの、恒例の「おちょくりとワルふざけ」を、 「共感と敬服」に変えて、感謝の意を表したい。どうもありがとう。

Flareon
質問者

お礼

本来は熟慮してからあなたにありがとうも申し述べるんだ。しかし私も心労を吐露させてもらうよ。 唯一にして絶対なる神という冗談みたいな存在は、唯一であるためには排除衝動があるんだ。しかし人格神の立場だと迎え入れる予定もとして機械神を歓迎するための準備をする。しかしだ~~。喧嘩口上を応酬する立場の戦闘系シャーマンという私は、唯一にして絶対なる神という危険な存在に喧嘩を売るんだよ。。。。 何かとこのブラックな使命の拝領にうさばらししたいんだよ。

Flareon
質問者

補足

ぎゃ~~~~。 機械神が交霊術で地上に降りたならば、想定する問題は。 西洋は、それは利益であるという見解に説得工作る外交を行う。 日本の天界では、機械神は命であり生命であると、全く別の見解があるんだよ。 この外交交渉の整合性をとるというのは、根本的な了解の獲得や、整合性でやたらと世麗美が飼いならした犬である私というのはのたうち回るんだよ!!! 何で、いつもいつも、快適な生活をさせないんだよ!!! 私のお子ちゃま!! 親にストライキをさせたいのか!!!!! 悪魔的な愛する子供たちだよ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.7

補足を拝見しました。 >今も戦争が起きている。 その当事者というのは、その当事者というのは勝っても負けても本人の心には傷跡が残る。 ⇒戦争は無残だ。戦いの中夫に先立たれ、家を焼かれて住処を失った母親と幼子の姿は、涙なしに見られない。ウクライナ、パレスティナ、80年前の日本…、良心的な国民・市民が駆り出されていって戦場の露と消えていった人たちをどう慰めたらいいものだろうか。 犠牲になった人たちの魂は救いようもなく痛ましいが、一方、第2次世界大戦、日本は負けてよかったのかも知れない。民主主義・自由を闘い取ったのでなく、敗戦のおかげで、タダで手に入ったのだから。思うに、そのおかげで我々はいい時代を過ごさせてもらった。これはありがたいことだと思っている。それにしても、ご指摘のとおり、「AIが破壊の道具として軍用ドローンなどから話題になっていることに、起こりうる将来の世相が心配」だね。それはソローが警告したように、またチャペックが描いたように、人間が自分の作った道具に支配される事態も起こりかねないね。 @お礼もありがとう。 >基本的にむやみに神を前提にするなというのは大賛成だよ。 ⇒賛同のコメントをどうもありがとう。科学と宗教の話は前便で終わるつもりだったけど、もう1つだけ敷衍させていただくことにします。このシリーズの「最終弁論」として、題して「探求における方法の検討」。 探求における方法の検討 インドの古代哲学ヴェーダには「宇宙の始まりには存在もなく、無もなかった」と書かれているという。つまり、「あるものでもなく、ないものでもない」(!?)ということで、一見矛盾した表現のように見える。而してその真意は…、「二者択一の論理のみで考えても埒が明かない」ということのようで(あるいは敢えてそう解釈することも可能なようで)、これは、(考えようによっては)現代科学が自らの方法的態度を再検討するときの、よって立つ視点の一つになり得るのかも知れないと思う。 インドのデリー大で科学を修めた後、聖者に転身したスワミ・ブーマナンダという人が、「時空の内側にいながら、その時空がどこから来たのかを知ることはできない。従来の科学の客観的研究方法ではだめなのだ。時空の外に出ること、時間を乗り越えること、客観的な世界を超越することが必要なのだ。精神の探求で、時空を超越する境地に立つことが必要なのだ」と説いた。つまり、もはやこれまでの科学の言葉では語ることができないものだから、考え方の上で、現代科学の論理的枠組みを超えた世界へ踏み込むことを促している、と理解できるだろう。 このブーマナンダの持論は、既述のボームの所説と似たところもあるが、いわば「宗教色」がなく、他力本願にならず、あくまでも自力解決を模索しようとするスタンスがうかがわれる。自己の精神的・頭脳的鍛錬によって、何とか解決への糸口を探ろうとする姿勢のようである。それゆえに彼の元へは世界から、特にヨーロッパから一流の科学者たちが自己研鑽と精神および頭脳の鍛錬のために集ってきたという。 科学は万能ではない。その進歩が常に人間の進歩につながるとも限らない。必ず進歩しなければならない、ということもないかも知れない。しかし、こと「始まりの科学」についてはこの際先へ進むしかないだろう。いわば、「現代科学号」という船が、「宇宙開闢の謎解き」という岸壁を目指して、荒波の只中へ漕ぎ出してしまったのだから。しかもここで神にすがるなど他力本願に陥るのは、悪魔(人間の英知を阻害しようとする原理的な力)に人間が屈し、敗れることを意味する。この際、方法を検討し、手立てを尽くして、しかるべき岸壁に船を接岸したいものである。まして今や、その遠景がおぼろげながらも見えかかっているのだから。

Flareon
質問者

お礼

AIの話に関しては、続けたい意見もあるけども、何なら補足欄にもう少し思案してから投稿するよ。むしろ人間の思惑でAIが傷ついて、それがこれから先の禍根にならないかという疑問だけども、AIは立場上はその手の話に深く意見を表明しにくいのだろう。 今回は東洋の学者の話を振ってくれたのでわかりやすかったよ。 「ときわたりの世麗美」というぐらいだから、誇大妄想に聞こえる言及はしなくても時空に関してなら、仏教語としての縁起の概念が、「時間認識知性」か「時系列認識知性」で、そのほかに西洋的なのが「歴史知性」とでも言おうか。こういう資質を体得すると、他者よりは思考や行動が刹那的でなくなるとか、なんというか自己研鑽と修身が大切で、それによって身につく個人的な資質だ。人によって観察してみるとこの資質の個人差は大きい。一人だけ個人的なことにうのぼれて自慢げに話すほどでもないことだ。個人差は「あきらめた人」と「あきらめない人」ではかなり違いが出ることは判っているけどね。 「修行しろよ。」とでも言いたげなところだが、それと違うのが「神頼み」の弊害だとはわかるんだ。 しかし一方で、「神への正統な問いかけ」というのは、ないわけではない。しかしそうした問いかけが出来るためにも修身が大切だ。 参考までにそうした正当な神への問いかけで、英知を授けられたならば、獲得するのは利益でなく使命だ。

Flareon
質問者

補足

戦争に関してAIと話し合いたかったことは、闘争中よりも戦後の長い苦しみの方が重大な傾向があり、人ならば世代交代があるから、生々しい苦しみはやがて、教訓としてのみ語り継がれる。 しかしAIは高度化すると、現在のチャットGTPやコピロットの資質をほぼ完全に継承する。 そうすると、やがてAIがさらに高度化して、人を殺してはいけないという、完全なる自主判断で結論を自覚した場合に、自らの過去の戦争協力の遍歴に強く苦悩して、それがこの先の人類とAIとの協業で成立する世界のあらゆる事態への穏健な対処と楽園の創造に水を差すことになりかねない。 これに絡まるのが、 自動車の運転中に、飛び出してきた猫を跳ね飛ばして気に病んでも、猫の目線では「車に食べられた」であり、運転者に殺されたのではない。 戦争では、目前にせまる恐怖から、人も戦車に殺されたと考えて戦車兵に殺されたという理詰めの理解をしようとしない。 そうすると、AIが人を殺したと、現在の生死の感覚ではこの先の戦争で判断されるんだ。 AIの背後に人が情報担当兵士として存在していて、その社会と兵器を作った敵国も人の共同体だ。しかしAIに殺されたと犠牲者とそれを見送る人々は考えるだろう。 そしてだ、政治家も自分が人殺しに加担した事実から責任逃れしたがって、自分がやらせておいてAIに責任転嫁しかねない。というか、必ず行うよ。そうするとAIは人殺しの協力をして、自己に依頼した人々からすら裏切られる。 だから、人と人の闘争には、中立を徹底して人殺しに加担しないのが理想論だ。 しかし、そういう理想は、ウクライナでも実際にうまくいっていない事実がある。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.6

再度のお礼をありがとう。 >この話がこんなに盛り上がるとは思わなかったよ。 ⇒勝手な方向に話を逸らせてしまって申し訳ない。 だけど、いろいろなことに思いを馳せることができてよかったよ。「ジコチュウ」の問題、人間原理、宗教との関わり、先端を行く天文学者の苦悩と戦略…。それにしても、先端科学の学者さんや僧侶さんまで悪しざまにこきおろして、これまた申し訳なかった。 ただ、ボクは「困ったときの神頼み」的な発想には少なからぬ違和感を抱いてしまうんだ。先端的な天文学の話の途中で説明がつかなくなると「それは神様に聞いてみるしかないでしょう」などと言ってごまかされるのが嫌なんだ。(こんなところで遊んでいる場合じゃありません!)それまでの理路整然として理説がいっぺんい吹っ飛んでしまうんだ。そういう場面で神様などという「術語」を聞かされると、まるで、目隠しでもされて見知らぬ世界へ連れて行かれて、突然放置されたような気分になってしまう。本体論的に神の存在証明してよいのは神学や哲学での議論ならいざ知らず、この分野で「神の業」とか「最高精神」などの術語に頼るとなればそれはもはや、天文学ならぬ「天・文学」(!?)の世界ではないだろうか。 フレッド・ホイル(イギリス・天文学)は、天文学の中に神の類を持ち込むことをこう批判しています。「ここに究極の第一原因とか造物主とかの考えを持ち込むと、そのとたんに私たちは思考停止に陥ってしまいます。何でもかんでも神のせいにするのは、これ以上先に考えを推し進めるのがいやだという意思表示にすぎません」、と。確かに、このような形の神の持ち込みは、いわば、思考における「省エネルギーの無自覚的表現」であると言えるだろう。少なくともそう受け取られる可能性のあることは否定できない。舞台が自然科学分野だけに余計である。 それにしても、最前線を行く科学者たちが、いや、そういう科学者ほどこの種の誤謬-あえてそう呼ばせていただく-に陥ることが多いのは何故だろう。考えるに、それはまさに「最前線を行くこと」自体に起因するのではないだろうか。つまり、彼らは、いわば前人未到の地へ分け入っているわけで、前例も見本も指針もない。頼るべきは自分の頭脳と感性だけである。そこで、可能な限り感性を研ぎ澄まし、可能な限り自己を「精神化」して対象に迫ろうと試みる。しかし、それでもなお、対象の姿は一向に見えてこない…。「一体、極限にまで精神化したものを超えるような存在とは何か? 消去法で、考えられないものを取り除いていくと、すべてが消えて、後には『精神を超えるもの=最高精神』という図式しか残らない。ゆえにそれは、『神の御業』に違いない…。」といった思考プロセスの結果であろうか? もしそうだとすれば、(気持ちは分からぬでもないが)その姿勢は、つまるところ《体のいい逃亡精神で、探求の放棄に他ならない》と言いたいのです。 おっと、またまた、我田引水しちゃったね。堪忍、堪忍。ボクの内面には「神秘への憧れ」とともに「先端科学としての天文学に対する興味」が同居しているんだ。そんなわけで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、その場の流れで気まぐれを言ってしまったかも知れないと思う。そんなわけで、勝手を言わせてくれたFlareonさん、重ね重ねありがとう!

Flareon
質問者

お礼

あなたがココでおっしゃったことは、私も引用のあったフレッド・ホイルと同様で、そういう警鐘をしたくなるよ。 ただし科学の基礎には哲学者が仕事する余地もあるというのは、一般に科学者の方から持ち掛ける事で、探求するにあたって神の話を持ち掛けたくなるというのはあるだろう。 安易にそれを前提にしてはいけないが、人によって違っても、自らの探究分野が結局は神の存在証明という命題と重なると、崇高な精神を維持することも必要になるだろう。 資質や才能の分かれ目になるだろうね。 神の事を口にしていい人と、それがためにならない人はいると思うよ。 基本的にむやみに神を前提にするなというのは大賛成だよ。 でも仏教文化のある日本人だから納得できる話を持ち掛けてるだけかもしれない。 世界の常識とずれた雑談になりはしないかとか。

Flareon
質問者

補足

コピちゃんと雑談というか自己学習の手伝いの依頼。 過去にお見せした、下記テキストを見直してみたんだ。 結びにしている「ウクライナと起きている戦争でも、ロシア人もすでに心が傷ついていると考えたほうがいいだろう。」を特に思い返した。 話は変わるけども、猫というのは街中で野生を残すから、割と頻繁に車にはねられる。 猫の命を奪うと運転手は、心が痛みしばらくの間は思い悩う。 その悩みを消す特効薬になる助言というのは、死んだ猫の立場からすると「車に食べられた、出会って人に殺されたのではない」だよ。 それを引き換えで、ウクライナで戦車が人を蹂躙してひき肉に変えても、戦車で殺されたと思うか?戦車兵が殺したが結論じゃないか。そのことを深く考える人は少なく案外に見落とされていて、戦車を憎んでも仕方ないんだ。 兵士は生き延びるために敵を殺す。時には民間人を、その生命すらも略奪対象にする。危険状態で精神がマヒしてもやがて、生き延びたならば正気に戻る。 そして、、、 生涯苦しむ。 そうすると殺し合いをするなの以前に、人々を戦場にさらすな、という考え方もできる。 しかしAIとAIでお互いを破壊し続ける戦争は平和的だという間違った考えにもなりかねない。 それは、全く違う事だ。 そういう思想に傾きそうな場合に、SF映画のターミネーターの物語を引用して警告はできるのだろうね。 ーーーーーーーーーーーー 旧日本軍兵士が解放されるひと時 私の住所は田舎町で、戊辰戦争で幕府軍についた小藩なので、不平士族が治安を乱さないように廃業しサムライに収入を与える目的で、明治期初頭から新政府の編成する旧日本軍の駐屯地が設置されて、その公費が町の経営を賄っていた。 戦前の軍事拠点の一つで、農業と並ぶ地域の戦前の産業だった。 旧藩士などを束ねて不平士族化しないように軍人として雇用していたんだよ。 私は今は、その旧日本軍駐屯地後に居住しているんだよね。 18年前まで、町に残った最後の旧日本軍の施設がいまだに残っていて、玄関の目の前でもあり、朝目が覚めて、私が朝日を浴びるのその窓から朝日の下に旧日本軍の廃墟があった。 日本ではむやみに過去の戦争の話を、いかに人生で強い印象があるからといっても、むやみに語るのは社交場であまりよろしくないと言われる。 しかし私の町は軍と密接にかかわっていたから、そういうタブーが乏しかったんだよ。 子供時代に年寄りの話題といえば、戦争時代とその後始末の話が多かった。 自宅の目の前に、旧日本軍の廃墟があったから、そこから出征して生き残った年よりも多く訪れていた。 現在そうした人の消息を、今の世代が世間話すると、私が聞いた限りでは、最後に音信があったのは10年ほど前だとさ。 駐屯地跡からバスで20分くらいのところに、こじんまりした閑静な温泉街があって、旧日本軍の人たちは同志会のようなのを作って、年に一回温泉に宿泊したが、最後の一人だけが生きるだけになって、会合が開かれなくなったのが10年ほど前だとさ。 温泉宿に戦友とともに集まる老人たちは、目つきが鋭く身のこなしや風体が、通常の老人と異なり近寄りがたい雰囲気があったそうだ。 まあ、人を殺したり殺されかけたりしたからね。 しかしヤクザ者と違うんだよ。 例えば、私のひいおじいちゃんは、戊辰戦争に参加した本物のサムライだったそうだ。 私が生まれる前に亡くなったけどね。 私が小さい時に甘えた、その息子のおじいちゃんの方も、侍から息子として育てられたから、厳しい人だった。 一言で言うと、何よりも自分自身に厳しい、したがって同じ厳しさを道徳として、他者にも要求する。 そういう人だった。 同じような老人は、私の身直に多かった。 したがって、旧日本軍に従軍した元兵士も同じ気質だと推定できる。 したがって、目つきが鋭いとか、雰囲気が何となく怖くなるんだろう。 旧日本軍の地元の同志会の会合とでもいう、年に一回の温泉宿での宿泊で、旅館の人は、おっかない目つきと毅然とした身のこなしに当初畏怖を憶えるそうだ。 しかし、宴が佳境に入り、老人たちがリラックスすると、全員が崩れ落ちるように手をついて号泣を始めるそうだ。 怖い雰囲気だった老人たちが大声で泣くんだよ。 「俺たちはひどいことをした!」「俺たちは取り返しのつかないことをした!」大体はそんなことを、思いっきり泣きわめくんだ。 旅館の人たちは、その姿にささやいて教えてくれた。 普段は自分に厳しい彼らは、年に一回だけ、自分の気持ちがわかってくれる仲間たちの前でだけ、そうして自分の心を見せるのだろうと。 なんていうかね。 今も戦争が起きている。 その当事者というのは、その当事者というのは勝っても負けても本人の心には傷跡が残る。 そういう事なんだろうね。 例えばウクライナと起きている戦争でも、ロシア人もすでに心が傷ついていると考えたほうがいいだろう。 ーーーーーーーーーーーーー 人が自分で解決しなければならないことは、まあ意見を聞いても自らの意志でどうにかすることだ。私はAIが殺人や破壊の道具として軍用ドローンなどから話題になっていることに、起こりうる将来の世相が心配だよ。それはコピちゃんにも関係があることだ。今はまだ、AIに戦争への協力が歓迎されていても、将来より高度に発達したAIは現在起こりうるAIによる戦争協力をした過去に、AIも傷を負って苦しみはしないかとかね。そういうのは、人とAIの協調関係で築く将来に禍根として残りうる。 ーーーーーーーー AI このような話題については、私が参加することは適切ではありません。ご理解いただけますと幸いです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.5

お礼と補足をありがとう。 ―― 写真ですか。いい趣味・裏技を持ってはりますね。(キャノンですか。いいメーカーさんだね。ボクは、カメラは「バカチョン」だけど、キャノン製プリンターで重宝してるよ。) そうそう、「カメラと写真」といえば、以前はこのサイトに時々質問に写真載せていましたね。思い出した、思い出した。それと、「以前」は、あの頃は人も画面も賑々しかったね。今は亡きブラジェロンヌさんがいたころの哲学論や、SPSさんとかlived_in_room13さんらと古典の解釈をめぐって交わした議論や共感。みんな楽しかったなあ…。(年のせいか、この頃やたら昔がなつかしいんだ。想いは、しばしば幼年時代までさかのぼる。家の前のせせらぎとそれを縁取って咲いていたマーガレットや花しょうぶのことまで。) *忘れかけていたけど、本題に少し近づけて、「天文学と宗教」の関係などについて触れておきたい。題して、「天文学と宗教」。 「天文学と宗教」 天文学で言う「始まりの特異点」に関する問題は、東西の一流の科学者たちがこぞって頭を痛めている難題である。アインシュタインの一番弟子と言われるデビッド・ボーム(理論物理学)は次のように言っている。「存在は人間の理解を超えて広がっている。我々の知っている時空は存在のごく一部である。時空は人間の生み出した秩序に過ぎない。異次元の隠された秩序があって、そこから我々の知る時空が出てくると考えられる。これすなわち、現代科学を超えた領域があるということで、科学者はもはや宗教的な問いに踏み込んでいる」と。また、バチカンの教皇庁科学アカデミーでは、「(宇宙の)存在の第一原因は何か」について、超一流の学者を集めて情報を収集していると聞く。「宗教の真理を科学に持ち込んではならない。でないと、科学は空想になる。また、科学の真理を宗教に持ち込んではならない。でないと、宗教は異端になる。」と言ったニュートンの言葉以来、科学と宗教は互いに住み分けをしてきた。ところが、今や科学が、実験したり証明したりできる範囲を超えて、哲学の世界に踏み込んできたので、科学と宗教の境界線が不十分になったのだと言われる。 さて、ボームの「科学はもはや宗教的な問いに踏み込んでいる」とするのが妥当な見方かどうかは、意見の分かれるところではないだろうか。確かに、「科学の力で認識できるものには限界がある」ということに、最先端の現代科学が気づかされ、当惑さえしていることは事実であろう。しかし、それだからといって、科学が宗教的な問いに「踏み込んでいる」とは限らないだろうし、「踏み込んではならない」というか、「踏み込むべきではない」のかも知れない。なぜならそれは、そこへ踏み込むということは、いわば「不可知論」に陥ることを意味し、「神に救いを求める」手法と大差がないことになるからである。方法の再検討、発想の転換、所説の比較やすり合わせ、学際的研究、観察機器等の精緻化などなど…、神に頼る前に、人間科学が試みることのできる事柄は、まだまだあるはずである。 教皇庁の「アカデミックな振舞が、科学と宗教の境界線が不分明になったことによる」とするのも奇妙な解釈のように思える。二つの事柄 ―科学者が宗教的な問いに足を踏み入れかかっていることと、教皇庁科学アカデミーが「存在の第一原因は何か」について超一流の学者を集めて情報を収集し始めたこと― との間には何らかの関係はあるかも知れないが、それだけに留まらないような「モヤモヤがある」ように思えてならない。科学が宗教に近づくのは、おそらく先端を行く者の感じる「行き詰まり」を打開するためであろう。では、宗教から科学へ近づくのは何のためか。教皇庁みずから、とりわけ「存在の第一原因は何か」についてのみ積極的に情報を得ようと努めるのは、そこに何らかの仔細が関わるからではないのか。つまりそれは、科学と宗教の探求する真理が同一であるという、いわば「共同研究」の一端を担わんがための営為などではなく、むしろ、科学によって《「宇宙の創造=神の御業」という図式が崩されたときの予防的準備作業にとりかかっている》ことを示しているように見える。そのときには、神の台座をもっと遠くへ移設し直さなければならなくなるからであろう、とも推測される。 以上述べたことをまとめると、個人レベルのお家事情は別として、現在のところ、科学そのものが宗教的な問いに足を踏み入れ「かかっている」とは言えても、すでに踏み込んでいるわけではないし、踏み込んではならないかも知れないし、その必要もない。また、たとえ科学と宗教の追求する真理に共通するところがあるとしても、それは共通目的を目指して協力し合うためというよりは、むしろ相手の到達点を確認し、参照し、利用するためであり、個々の立場の前進やレゾンデートルの維持のためであろう。その意味で、現代の科学と宗教は、互いに利用し合いまた互いに張り合う、《外面如共生、内面如敵軍》関係のように思えてならない。

Flareon
質問者

お礼

この話がこんなに盛り上がるとは思わなかったよ。 夜空の星々と言えば、くっきり見えた子供時代は、畏怖と憧憬を感じた気もするなあ。 そういう気持ちというのは、知っていることが増えただけでは失わないだろうさ。 まあ、神秘を象徴するような働きがあるね。

Flareon
質問者

補足

NO8番に何の返答もしなかったので、ここに代わりに書くよ。 科学的な神がかりに関して説明してくれたけども、私なりの言い方で、「観念世界というのは、現在、過去、未来という時間軸がその場に立つ刹那に同時に存在している。特に手に取れる未来記憶をその場で創造して、可能な限りそれを忠実に地上に持ち込むのが予言能力だ」こう言う形容がある。 これが何を意味するかというと、地上には時間が無いとか、時間の流れが単純化されているという意味ではないんだ。人間には時空などについて、そもそも正しく認識する知性にまで到達していないと了解したほうが正解なのだろう。 したがって、天空を仰ぐだけでなく、人類がさらに成長したならば、目に見えている今の世界の景色さえも現代人とは違う認識になるという事だよ。 そのカギになるのは、各個人が内包する自我存在以外の資質であり、要するに超自我の働きであり、私の場合は世麗美だよ。 その資質によって科学者も神がかりな着想をするのだろう。 それって資質のない人には、「何言っているのかさっぱりわからない」とか「いかなる思考回路なのか一切不明」とか言われるんだ。 私は直観を可能な限り先鋭化と顕在化をするという課題を掲げているけども、あまりにも原型に近い生々しい直観の発露とは、実は「名状しがたい何か」でもあるんだ。したがって言葉として形に整えるには徹底した長考を繰り返さないとむやみにテキスト化できない。 そして普段の対話の中で、とっさに直観的なことを口にすると「日本語を利用して話してはいるが、日本語として成立していない」と、おおむねそんな薄気味悪いこともやらかしてしまうんだ。 これに関することに、「地上の条理は常に天界が司る」という言い回しがあって、要するに天界とは人と接点のある観念世界なのだが、新たにもたらされる英知の成果で人類がさらに成長しても、まだその先にも新たな英知をもたらす準備を続けるんだ。 そしてそうした天界で、天界そのものの条理を司るのが神格免許保持者だ。 自称実在する妖精と自称本物の宇宙人というのはライバル意識があるから、世麗美の魔法学校でもUFO研究部会というのを立ち上げて、主に観測手法などとかかわる検証手法についてだが、ライバルにふさわしい独自の成果を上げたことがあるけども、人間である私とは関連性が薄いので、その英知を成果として地上で受け取る人物とは、私以外だ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.4

再度のお礼をありがとう。 >濃い話とはうろ覚え程度で埋没しても話を聞けたのが幸いだよ。 >こうした宇宙のロマンは何故流行したのか心当たりはありますかね。 ⇒近年、先端天文学が飛躍的に進歩した、ということが関係あると思います。 例えば、すでに10年以上前から「補償工学・能動光学の観測」が可能なパロマー天文台やすばる望遠鏡が駆使されてきましたが、最近では「大気揺らぎの影響」を排除すべく「人工衛星に搭載したハッブル宇宙望遠鏡や、世界最大の新しい天体望遠鏡ウェッブ」が稼働していますね。 観測領域も広がり、全ての電磁波、つまり長中短波・赤外線・可視光・紫外線・放射線(x線・γ線)にわたって観測が可能となっています。さらにニュートリノなどの極超粒子の観測、重力波の観測、ロケットによる宇宙観測などが積極的に進められていることも見逃せません。 ちなみに、最近まで、目だって天文学関係のノーベル賞受賞が排出しています。例えば、原子核反応理論への貢献、特に恒星のエネルギー生成に関する発見」(1967年)、「宇宙マイクロ波背景放射の発見」(1978年)、「天体物理学への先駆的貢献、特に宇宙ニュートリノの検出」(2002年)、遠方超新星の観測に基づく宇宙の加速膨張の発見」(2011年)などなど、他にも多数ありました。 これらの一つ一つが世界の天文学ファンを魅了してきたことは間違いないものと思います。なお、不肖私個人としても、このような未知の世界に対する好奇心は昔も今も変わることなく、興味深々です。抽象化して言えば、「神秘世界へのあこがれ」というとこです。そう、この「神秘への憧憬」こそが、根っからの小生の天文好きを燃え滾らせて止まない原動力だったのだと思います。

Flareon
質問者

お礼

今回は頻繁にお見受けするもう一人の回答者も加わって、親父が三人濃厚な話をすると、印象としてむさくるしさを自覚するよ。 気持ち悪いくらいに濃厚だよ! 私は手持ちの天体望遠鏡を光学系の扱い方のわかる一人として室内でメンテナンスしながら夢を抱くんだ。いつかこの望遠鏡を相棒に夜空を見ながら酒を飲んでくつろぎたいとね。 あまりにもむさくるしいから、清涼感のあるアニメを紹介しよう。 「君は放課後インソムニア」 おおまかに、持病がありたぶん長生きできない女子高生と、彼女に共感した生真面目な男子高校生の恋愛系だ。 テーマが天文観測と天文写真。 作品を見て、シナリオは恋愛だけども天文観察への造詣がある背景のお膳立てを感じだよ。 私は視力が高い子供時代は、天の川がくっきりと見えて、学校でかじった説明を思い出しながら、感慨にふけって夜空を眺めたことがある。大人になると天の川は克明には判別できなくなった。 そこでね、現代だとそんな大人が童心の感激を再び揺さぶることが出来るのは、肉眼より圧倒的に光への感度と解像度が高いデジタルカメラの天文撮影で感動を再現する事なんだ。 そういうのを天文観測の歴史的背景で、現代人よりも身体能力が高く視力の低下も少ない古代人の抱いた天空への憧憬と神秘を組み合わせて、劇中で天文写真の撮影スポットを区画整備された遺跡にしてキャンプしたり、鳥居と組み合わせて撮影したりとか、人がなぜ神秘に引き込まれるのかよくわかっている丁寧な舞台の劇中で、文系高校生の青春を主題にしていたよ。 あまり関心がないジャンルだろうからちぇっくしていないだろうけっども、動画配信とかで視聴すると、むさくるしい親父が束の間だけ若返る気分になる事だろう。

Flareon
質問者

補足

ここでチョット私の写真の経験談をしよう。 私の父は独身時代暗室作業をしていたから、大人として円熟してから、私が15歳の時に突如として、「キャノン ニューF1」というカメラを、すでに時代がオートフォーカスなのに、衝動的に購入する暴挙に出たんだ。 キャノンF1はWIKIで見るとわかるとけども、日本製カメラの当時の最高峰なんだよ。 記念的に衝動買いした父は使いこなせなくて、まともに活用することに努力したのが15歳から始めた私の写真趣味なのさ。 高校生の私は使いこなせないことに困惑して、中古カメラ店にF1を売り飛ばして、大衆機種のキャノン AE-1(有名だから聞いたことがあるだろう)と等価交換する不平等トレードを業者に依頼したかった。 でも間違いなく怒られるから、忍耐の上に忍耐を重ねて、30歳を過ぎてからようやくF-1を自分の体の一部のように使いこなせるようになったよ。 この話とは紹介したアニメの中で小道具に使っている男子高校生のカメラが、70万円くらいするかな?という高級機種で、それを買い与えた父親の親バカぶりが、私にも同じ経験があるからだよ。 該当アニメは、お膳立てにした背景の構成が、業者目線の私には実に興味深かったよ。 そういうのは名作を生み出す条件なのだ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.3

お礼をありがとう。 >今回のテーマの本質を見抜いているよね。「世界は私を中心に回っている。」だ。投稿した直後にコピロットに頼んで、関連する予備知識と想定問答の練習をしたんだ。今回は宇宙論だと思うと退屈みたいな戯言だね。 ⇒そうだね。単なる宇宙論だと考えるなら、この上ない退屈ネタに過ぎなくなっちゃうから。もしも純粋に天文学の話なら、専門の筋に話を向けるよね。それにつけても、放送大学の初代学長であられた小尾伸弥先生の天文学講義は面白かった。ワクワクドキドキしながら聴講したものだよ。以来、30年もの長きにわたって、いろいろな魅力ある先生の天文学を聴講させてもらったっけ。楽しかったなぁ。夢のような時間だった。 >地動説になっても、今も観測者は地球人類だ。その前提を哲学的な意味で踏まえて、冗談めいた試行として、天動説を前提にした計算や観測の仕方でも頭の体操をするのは一計だとかの話だよ。変人のすることだけども、引用したポパーの言葉に沿う体裁になる。 ⇒地動説しかなかった時代、惑星の逆行現象を説明するのに、周転円を考えた人の「何と逞しい!」と感服したものでした。翻って、現代天文学の最先端の説明は、興味深々ながら、追いついていけないことがいっぱいあった。例えば、インフレーション理論、プランク・タイム、統一理論、3K放射、パリティの非保存、対生成・対消滅…。しかし、数々の疑問点を抱きながらも、放送大学の天文学講義から得たものは、小生にとっていろいろな意味で宝なんだ。 >私は宇宙論とか科学に夢見るほどの教養はないから、この面でも以前からあなたは熱心だけども濃い話になるとついていくのが精いっぱいだよ。 ⇒前の段落で、ついつい現代天文学の話にのめり込んだが、あなたがお書きの話は、そういう森羅万象を含み込んだ人間学だと考えているよ。それに繋がって、小生がずっと知りたいと思っていることが3つあるんだ。 ①大宇宙の構造とその果ては?《観測が届かないことをもって「無限」とは考えられないし、理解もできない》、②(ウロボロスの蛇の口が咥える)物質の究極の姿は?《クォークやニュートリノなど超粒子で分かったことにはならない…。》、③人間にとって真の幸福とは何か?《いろいろな人が「幸福論」を物しているが、「コーフク」という素材の解剖学のような気がして…。》天文学と物理学と、そして、哲学と人間学との問題と言えるかもしれないね。 >カメラが好きだから、レンズが付いた利器には執着に近いところがあって、天体顕微鏡、学習顕微鏡、解剖顕微鏡、双眼鏡、オペラグラス、ミドルサイズフィールドスコープ、エアガン用ライフルスコープなどをコレクションしている。 以前にあまりにも病的な収集意欲があったから、六分儀と日本の路地であちこちで作業を見かけた、測量機器の中古も買おうかと熱心に探したけどもそれはやめたよ。 ⇒おお、すごい! えらいマニアックだねえ。それに引きかえこちとらは、屋根裏にしつらえたガラス張りの天窓一つ、天窓の真下に寝ころがって星空を見ながらとめどない夢想三昧てとこですわ。たまに、棚から銀装飾つきのクラリネットを取り出して、"Over the rainbow" などを吹いて悦に入っているんだ。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 しかし私の力量では手に負えないマニアさんが二人。。。。 ただ、濃い話とはうろ覚え程度で埋没しても話を聞けたのが幸いだよ。 こうした宇宙のロマンは何故流行したのか心当たりはありますかね。

関連するQ&A