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世界は私を中心に回っている。
世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。
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お礼をありがとう。 古川氏のエピソード、面白く拝読させてもらいました。ボクも慶応大学(法学部)には長年関わらせてもらったので、その筋からの、つまり、本筋から逸れた末梢神経的な関心・読み方でしかありませんが。(とりわけ、大学所有の蓼科山荘での合宿が楽しかったなぁ、と記憶しています。) 補足コメントをありがとう。 添付していただいたサイトを一通り拝見しました。せっかく貼ってくれたリンクに対して冷たい視線で恐縮ですが、正直、いずれもあまりピンときませんでした。考えてみたら、ボクは「人間精神の一側面としての魔法概念」には辛うじて若干の関心がありますが、魔法・魔術・占いそのものや、その方法などにはほとんど興味がないということが分かりました。 そんなわけで、このたびの文面は主観的な好み・独断・偏見の披露に過ぎないものと認め、そっけない反応をお詫びします。しかし、これまでに与えてくれた情報や、交わした対話に対する評価と謝意は何ら変わりません。その点では心底感謝しています。(不乙。) 以上、通過儀礼的で申し訳ありませんが、お礼・ご返信まで。
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- ddtddtddt
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「反証可能性」は、いわゆるアドホックな仮設を防止するためのものと思います。反証可能性がないという事は逆に言えば、それには立証可能性もないから。 ガリレオ・ガリレイはたぶん、実質的な望遠鏡の発明者で、木星などの遠くの星(惑星)を観測しました。だから当然、もっと近くの月を詳細に眺め、月面に凹凸(クレーター)を発見します。当時のキリスト教神学に基づいたアリストテレス自然学では、天界(宇宙)の物体は疵一つない無垢の完全球体でなければなりませんでした。宇宙は遠くへ行くほど無垢で高貴で完全でなければならない、という宇宙観があったからです。神様は宇宙の彼方にいらっしゃり、下賤な我々と地上を見降ろします。 しかしアリストテレス自然学の信奉者であっても、望遠鏡をのぞき、月面のクレーターを観る事は可能です。以下はガリレイの著作での話ですが、たぶん実体験だろうと自分は憶測します。 信奉者は言いました。 「月には目にも見えないし手でも触れない表面物質があり、それがクレーターの谷間を埋め月面全体を覆って、疵一つない無垢の完全球体になっているのだろう」 ・・・と(^^;)。これは観測事実から導かれた仮設ではあります。 ガリレイは、こう皮肉ります。 「そうであればその表面物質は、月世界人(いたとして)にとっても、目にも見えないし手でも触れないものだね。無いのといっしょじゃねっ?」 ・・・実証も反証もできないものを持ち出しても、しょうがないよと。 このようにアドホックな仮設は、事が起こった時の言い訳のような検証不可能な仮説であり、それに真面目に関わると碌な事にならない可能性大です。不毛だから。実際には判断の困難なケースも多いですが、それは理論を迷走させ科学のためにならないと考えたエルンスト・マッハは、過激な実証主義を唱えます。 観測や検証できないものは科学には不要だ!。彼はこれを「思考経済の法則」と呼びました。ちなみにマッハは19世紀の人で、音速の単位であるマッハの由来になった人でもあり、立派な物理学者です。 マッハは、惑星運行など多くの経験事実を破綻なく説明したニュートン力学の熱烈なファンでした。力と質量を運動方程式に関連づけ、加速度という観測可能な量でそれらを定義した最初の人です。また当時の最新理論であった電磁気学との関連で予想された唯一の素粒子、電子を認めませんでした。電子どころか分子も原子も、当時は検出されていなかったからです。マッハはその後、クルックス管(真空管)の中を走る陰極線(電子の流れ)を目の当たりにして、自分の誤りを認めたそうです。しかし実証主義の歴史的価値は高く、そのエッセンスは受け継がれていきます。 19~20世紀初頭の電磁気学の大家はヘンドリック・ローレンツでした。特殊相対性理論に出てくるローレンツ変換で有名な人です。彼は、光速度不変の原理の実証実験となってしまった、マイケルソン・モーリーの実験を説明しようとします。光速をc,光源に対する観測者の速度をvとした時、光源に向かう時に観測される光の速度はc+v,遠ざかる時の速度はc-vになる。これが当時の常識でしたが、結果はc±vにならず光速度は常にcという結果が出て、みなさん、どえれぇ~驚きました(^^;)。 ローレンツは、光速度の測定装置がvに応じて進行方向に縮めば、光速度の変化を検出できなくなると気づきます。ローレンツ短縮です。しかしローレンツ短縮だけでは、マイケルソン・モーリーの実験結果とわずかに違うと数学者のポアンカレから指摘されます。そこで光の伝搬速度を決める電磁場方程式が、観測者がvで走っても不変であれば良いのだと気づき、けっきょく運動物体の固有時間の遅れを発見します。 ローレンツに従えば、運動に応じて長さと時間が変化します。一方いかなる物理装置も、その場の空間(長さ)と時間(間隔)に基づいて動作するので、その変化は決して検出できません。ローレンツ短縮と時間の遅れという仮定は、そのままではアドホックです。ローレンツはその物理的理由をさがします。 当時予想されていた唯一の素粒子は電子でした。物体は電子から構成され、構成電子間の電気力と磁気力によって物体は体積を保つと彼は考えます。そうすると物体の体積(長さ)は電磁場に支えられるものだから、それを伝搬させる空間に対して電子が動けば電磁場も変化し、短縮が起きてもおかしくないだろう。 つまりローレンツにとってローレンツ短縮とは、物質の構成理論を通じた一種の物性論の結果となります。物性論的確認なら、色々と検証手段もありそうです。では時間の遅れはどうかというと、ついにその物理的意味を見い出せぬまま、ローレンツは没します。 ローレンツに少し遅れて登場したのが、アルベルト・アインシュタインです(アベルト・デスラーじゃないよ(^^))。アインシュタインは自身で語っているように、マッハに強い影響を受けたそうです。ただし、マッハは物理機構を推論する際の作業仮設のようなものまで無意味として退けるので、その点に関してはやり過ぎだと考えます。例えばニュートンは重力作用に万有引力の法則を作業仮設として導入しますが、惑星運行の観測結果に運動方程式を適用する事で万有引力の法則を導き、逆に万有引力と運動方程式を用いて惑星運行を再現するというところまでやっているので、これらはアドホックではありません。最初からこれらを無駄と切り捨てていたら、ニュートン力学はなかっでしょう。 マッハの影響のもと、アインシュタインはエーテルに関する観測可能量はあるかと問います。ここでエーテルですが、さっき電磁場は空間を伝播すると書きました。それは一種の振動ですから、振動を伝える物理的実体が必要と思われました。それが全宇宙にあまねく存在し電磁場振動を伝える媒質、エーテルという奇妙な物理的実在(と考えられいたもの)です。19世紀は史上最もニュートン力学が信じられていた時代なので、こういう発想になりました。 エーテルは全宇宙に充満し、電磁場振動は純粋な横波なので無限に固くなければならず、一方で惑星がその中を通過しても抵抗を受けないので無限に柔らかく、無限に固くて光速度は大きいので質量(密度)は0という奇妙なものです。重さもなく、無限に柔らかいので触ってもわからず、光を透過させるから観る事すらできない。ほとんど観測不可能です。そしてその物性はちょっとあり得ない・・・。 さらにそれは宇宙に偏在し、宇宙全体に対して静止していると考えられていたので、物理測定に不可欠な空間と同じ役割を果たせます。まさに空間そのもののように全宇宙と一体化した奇妙な実在、それがエーテルでした。 光は空間に対して速度cで進みます。だとするとローレンツ短縮で光との相対速度は測れなくとも、本当はそれはあるのだと仮定する事は、宇宙に対する絶対速度を認めるのと同じです。ひいては宇宙に対して静止した絶対静止系を仮定するのと同じになる・・・という事が、後になって気づかれます。 経験的には何かに対する相対速度しか測れませんし、その速度が絶対か、すなわち速度測定の基準物体が絶対静止しているかを確認するすべはない、と思われます。マイケルソン・モーリーの実験は目的は違いましたが、そういう意味では絶対静止系があるのかを問う、実証実験だったとみなせます。それは失敗に終わりました。 アインシュタインはエーテルに観測可能量はないと結論します。つまり月の表面物質と同じで無いのと同じ。それよりも光速度不変という観測事実を、そのまま物理法則(原理)として認めた方が良いと考えました。オッカムの剃刀ですね。 そういうきっかけもあって生まれた特殊相対性理論は、ローレンツ短縮と時間の遅れを導きます。二つを合わせたのがローレンツ変換ですが、それは物性論(物質の理論)ではもちろんなく、直接に時間と空間を扱う初めての理論でした。相対性理論のエッセンスは、物理法則の不変性という形で現在へとつながる指導原理にもなります。 ところでカール・ポパーは20世紀の科学哲学の大御所ですが、それへの対立項としてハンソンによる、観測や実験の理論負荷性なるものがあり調べれば面白いかも知れませんよ。そこでは今までさんざん実証々々と言ってきましたが、理論負荷性を認めれば(認めざる得ない)、本当の実証実験などはあり得ないものになります(^^)。 最後に。 あ~、私はマニアです(^^;)。
お礼
ありがとう。 お久しぶりです。 これまた濃いなあ。 こういうのは哲学では大好物の住人が多いんだろう。 高卒の私ではついていくのがやっと。 嬉々とした様子がうかがえるあなたの文章に、私は自己の力量に敗北感も覚えるが、それは心地よい類の「負け」だよ。
- Nakay702
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Flareonさん、おもろいテーマをありがとう。 >世界は私を中心に回っている。 ⇒確かに、このような視点の転換は、一考してみる意味はあると思う。「何を寝ぼけたことを」などと揶揄する人もいるかも知れませんが、少なくとも、SFの構想や、頭脳の柔軟化、頭の体操・遊戯には格好の材料と言えるでしょうね。 >彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 ⇒そもそも宇宙は、全体が動いています。月は秒速1km弱で地球の回りを公転し、地球は秒速30kmほどで太陽の回りを公転し、太陽は秒速200kmほどで天の川銀河の中心(ブラックホール)の回りを公転しているとされています。1周するのに1億数千万年かかるそうです! しかも、この大宇宙には1千億個を超える銀河がひしめいているそうで、気が遠くなります。ま、それはともかく、天体はみなうごめき、「宇宙に定点はない」ということです。したがって、中心もない。ということは、自分を中心にして考えることも1つの手だ、ということになります。ラッセルの言うように、人間、多かれ少なかれ、Egocentric particular(自己中心的特殊規定)を免れない生きものです。自分の視点からしか見られないのですから。しかし、それを、他人の見たものと接合する時、「際限なく神の視点に近づけるのだ」と(オルテガは)言います。それは、人間原理で物を見る時の信条とすべきことかも知れません。 >あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。⇒かつてネイチャー誌に載った論文で、「宇宙の最果ては自分だ」というのがあったように記憶しています。超高速(亜光速)で飛ぶロケットで宇宙を直進すると、ロケット自体は絶対曲がらず直進するのに、アインシュタインの相対論が予言するように、大宇宙の曲がりに沿って「直進」し、大円を描いて元に戻る、というのです。おもろいじゃぁないですか! もちろん、これとて、全然実証されたわけでなく、ポパーの言うように、(科学と見なされるべく)反証の余地を残しています。いや、むしろ反証の余地だらけでしょう。それでよいのだと思います。彼の言うように、「誤りから学ぶ」ことが科学することの根本原理でしょうから。 >一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。 ⇒「研究や論考のために役に立たないことを、真剣に取り組む変人を研究者という」、まさに言い得て妙ですね。付け加えるなら、当の研究者はそれを遊びとも感じて、楽しんでいる。ホモ・サピエンス(叡智人)は、同時にホモ・ルーデンス(遊戯人)でもあります。そうであってこそ、人間は人間たり得る、とも言えます。そして、「精神の健全性のために」研究者は変人を続けることでしょう。これぞ、まさしく、ポパーの言う「現代的啓蒙思想」の雛型と言えるかも知れません。かく言う小生も、その路線にあやかりたいと願っている次第です。
お礼
ありがとう。 今回のテーマの本質を見抜いているよね。 「世界は私を中心に回っている。」だ。 投稿した直後にコピロットに頼んで、関連する予備知識と想定問答の練習をしたんだ。 今回は宇宙論だと思うと退屈みたいな戯言だね。 天動説の経緯と地動説などのおさらいも受けたけども、宇宙関連というのは観測手法が重要で、自己の立脚点でしか観測手法がない時代は天動説は必然であり、観測手法として効率がいい。 そして地動説になっても、今も観測者は地球人類だ。 その前提を哲学的な意味で踏まえて、冗談めいた試行として、天動説を前提にした計算や観測の仕方でも頭の体操をするのは一計だとかの話だよ。 変人のすることだけども、引用したポパーの言葉に沿う体裁になる。 私は宇宙論とか科学に夢見るほどの教養はないから、この面でも以前からあなたは熱心だけども濃い話になるとついていくのが精いっぱいだよ。 ただ以前に、酒に酔っぱらって掲示板で漫談していても不健康だから、よりロマンのある夜の過ごし方をしようと、天体望遠鏡で星を見ながら酒を飲んで過ごそうと、ヤフオクで冬になると夏休み直前の半値になるから、ビクセンの名品を安く中古で買って、準備したよ。でもおっくうで、自由研究用の5000円くらいのトレーニング用天体望遠鏡でのトレーニングでの試行しかしていなくてビクセンは持ちだしたことがないんだ。 カメラが好きだから、レンズが付いた利器には執着に近いところがあって、天体顕微鏡、学習顕微鏡、解剖顕微鏡、双眼鏡、オペラグラス、ミドルサイズフィールドスコープ、エアガン用ライフルスコープなどをコレクションしている。 以前にあまりにも病的な収集意欲があったから、六分儀と日本の路地であちこちで作業を見かけた、測量機器の中古も買おうかと熱心に探したけどもそれはやめたよ。
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お礼
個人的な話はそろそろ解決のめどを付けようと考えているだけで、保身のために目撃者を確保するやり方で振らせてもらったんだ。 私に何かあった場合は、任天堂は断定的に疑われることになるからね。 無理やり聞かされても、うまくかわしてもらったほうが安堵できるよ。 今日は不眠が続いたので職場では今日はこの場にいても完全な役立たずですと申請して早く帰ってきた。 古川と言えば若い時の私は凶眼の傾向があり人をひるませ、さらに得体のしれない生き物であったのに、接近可能だから本人自体はいい奴だと考えるよ。 これもいきさつをあえて軽くとらえさせるための茶化し方で、あいつは社長業よりも南米の奥地でも探検して文明と未接触の部族とのファーストコンタクトを成立させる職業が向いていると証言して、いかにアホなのか他方で話したことがある。 その人物はたまたま投資家掲示板でしばし雑談した慶応大学の卒業年度が古川と同じ同期だ。 その人物は、古川は私のライバルであり、任天堂の社長になったからには同期の出世頭だが、任天堂は何でそんなアホを社長にしたの? そのように感想を述べた。 私にとってはそれは、ある程度は苦情の慰めになるふざけ方だったんだよ。 私は統合失調症に発病した時に初めから発症の原因を承知していたから病気の乗り切り方と健康管理がうまかった。 しかし最初っから承知していたことをフラッシュバックを繰り返しながら、他者に申し述べることが可能な文章を作成するのに23年かかったよ。 実は10年ほど前に山内イワタ体制の任天堂にも照会依頼をしたためたら、当時の回答は明白な否定はしなかったが、その代わりに激しい恫喝だった。 そんな形なんだ。 魔術の話ならば、ポンポコ狸合戦にある、観念との接続が出来る魔法使い同士が、仏教では解脱ともいうが、お互いに観念に昇華したその立ち位置で騙し合いをすることだ。 私はその件で古代ローマのアキレスの伝承がある程度わかるよ。 今も同じような手法をとることが「唐傘お化けの破壊不能」だ。 あれは克明な観念上の経験を現実に置き換えた、分別が不明瞭な古代社会の絵巻物だ。
補足
まあ、応答を確認することで、今の自分の状態を確認する意味もあるね。ありがとうね。身の毛もよだつ恐怖記事にもなるから、誰も近づかないんだよ。FBにはより詳細に短期掲載して、見てしまった人が気の毒だから順番を決めて詳細ないきさつを順次削除したりしたよ。FBを使ったのは、長年心配してくれた知人に、それでも事実を知る機会を作りたかったからだ。