• 締切済み

慣性力について

物理を解く際に、非慣性系を考える上では、「慣性力」を考慮して考えるので、感じる•感じないなどの感覚などは必要ないと思うのですが、気になったので質問させていただきました。 慣性力はよく「見かけの力」と書かれていますが、実際に感じることはないということでしょうか。私が「見かけ」という言葉に対しての理解がないのかもしれません。 例えば、電車に乗りブレーキがかかると、後ろに下がる力は電車に乗る誰も(非慣性系にいる)が実際に感じる力ただ思うのですが、これも「見かけの力」なのでしょうか。 ですが、加速度aを持つ人(非慣性系)から見ると、慣性系で静止している人は慣性力がかかっているとして計算します。こちらは「みかけの力」だな、とわかります。慣性系で静止している人は力を感じていないので.. 遠心力などもそうです。 非慣性系を考える際に、運動方程式を立てるための辻褄合わせのために作った「力」なので「見かけの力」などという言い方なのでしょうか。

みんなの回答

  • maskoto
  • ベストアンサー率53% (538/1008)
回答No.1

ブレーキを掛け始めた車両に 乗客AとBがいて 地面にCと言う人が静止してる Cから見ると Bに働く水平方向の力は、 Bは車両以外に接してるものがないから 車両からの摩擦力Fのみとなります →Cは 真実に働く力はFのみ と言う意識を持ってる そして、Bは真実には静止してはいないと言う 意識も持ってる これが静止した世界からの見方であり 一般の人は、静止した世界からの見方こそ真実だと言う意識が強い ここで Aから見たBに働く力を考えます BはAと等速度、等加速度なので Bはあたかも静止してるかのように見えます このとき、Fがなければ、Bの実際の速度(Cから見た速度)はAや車両より速くなっていくので、Aから見るとBは進行方向に投げ出される かのように見えます そして、あたかも、進行方向に投げ出されるよな力が働いているかのように見えます Bもまた、あたかも、投げ出されるかのよな力を感じます あたかもと言う表現がつくのは 前述の静止した世界からの見方が真実だと言う意識によるものです このよな意識のもとでは、慣性力は あたかもあるかのような力、 つまりは見かけの力 と表現されてしまうわけです (もし、Aから見た世界こそ真実だ と言う意識なら、慣性力は見かけではなく 真実に存在する力と考えることになるでしょう…) で、慣性力は実在の力なのか、見かけの力なのか、判断は分かれるのかもしれません… しかし、 加速度(→a)の加速度系(車両)に対して、さらに加速度(→b)、つまり相対加速度(→b)で運動する物体の運動方程式は m(→b)=(→F)−m(→a)となります…法則 相対加速度が0ならば 運動方程式は、ご質問の文章にあるように 慣性力を導入した形である 0=(→F)−m(→a) になるわけです 辻褄合わせ、ではないのです 法則なのです