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征夷大将軍とは?
日本の歴史にとって当たり前のことなのですが。 何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか? 考えついたのは、大江広元だと思うのですが。
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征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・奨学院別当」を兼ねます。 http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/toyokuni.html 源氏は、天皇の子供(親王)が臣籍降下したときに与えられる姓として高い格式を持ち(平氏は親王よりも代が下がった王に与えられた)、準皇族として扱われ(藤原氏と同じように平安貴族であって、武士ではありません。)ていました。 平安時代に村上天皇の血統である「村上源氏」は、最高権力者を輩出しましたが、そのような「源氏」という氏族の長であることを、明確にする役職が淳和院別当です。 また、奨学院は皇族を対象にした学校で、準皇族の源氏も入学することが出来ました。 源氏の長者が、皇族の将来を左右する奨学院の責任者になることで、皇族代表の地位を明確にし、その立場で天皇の政治を代行するという形を取っているというのが、この説の骨子です。 尚、源頼朝が鎌倉幕府(幕府=幕を張った本部=軍事用移動司令部)を開いた当時は、征夷大将軍の名前のように、権限が及ぶのは東国だけで、京より西の地域では、平安時代と同じように朝廷の行政権が優越していました。 鎌倉幕府の全国支配が確立するのは、承久の乱の後のことです。 承久の乱では、三人の上皇(元天皇)が、後鳥羽上皇が隠岐に、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐に配流となり、仲恭天皇(九条廃帝:明治になるまで天皇として認められなかった。)が退位することとなり、朝廷・皇位の権威が著しく失われました。
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- IXTYS
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「征夷」とは、「夷を征する」の意味。 征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の一つで、太平洋側から進軍する軍隊を率いた。 源頼朝が『征夷大将軍』に任じられた時、その意味するところは、当時台頭してきた東国の武士の頭に任命されただけのこと。 彼が日本全土に号令を発したのではない。 実際に鎌倉幕府が朝廷に変わって権力者となったのは、1221年に起った承久の乱に勝って、後鳥羽上皇を島流しにした以降である。 これ以降は朝廷に変わって武士の棟梁である『征夷大将軍』が天下に号令を発し、統治するようになる。 『将軍様』はこの征夷大将軍から発した称号である。
- sudacyu
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No3です。質問があったので・・・ 一応、武家政権ですから軍事政権の性格が強いと考えて良いと思います。 特に鎌倉幕府については、元々の「幕府」という性格が強く、軍事政権といっても良いでしょう。 また、その実質的な最高権力は将軍になく、執権であった北条氏にあり、朝廷からその権力を保証される肩書きは与えられていません。 つまり、承久の変・元寇を通して全国の武士を軍事的に統括することで政権の基盤を確立しています。 それに対し、足利幕府は京都に拠点を置き、朝廷との関係も深く、公武合体した政権であったと言えます。 これは征夷大将軍が、朝廷内の位置づけである「源氏の長者・淳和院別当・奨学院別当」を兼ねる習慣が出来たことからもわかると思います。 徳川幕府においては、徳川幕府自体が大名の武力を抑制する政策を取ったことや、国替えなどでもわかるとおり、戦国時代からの領国をそのまま領国とした一部の外様大名を除いて、戦闘集団としての武士から行政官としての存在に性格が移っていきます。
NO.2です。 >何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか? このご質問に対しては、NO.2で述べたのと同じことになりますが、再回答させてもらいます。 征夷大将軍は源氏でなけりゃなれなかったとか、何でなければ幕府を開けないとか、そういうことはありません。歴代の征夷大将軍のリストを見れば一目瞭然自明のことです。 それは朝廷が権威付けのため勿体をつけ、将軍側がそれに乗ったからに過ぎません。こういうことは江戸時代に入って、さらに箔付けがなされました。 要するに日本を制覇した武士が、「征夷大将軍」を欲しいといえば、朝廷は出さざるを得ないんです。実力で幕府を開くんです。朝廷側は最初はなんのかんのというかも知れませんが、結局は後付の理屈を付けて出してしまいます。 氏素性が全くわからない百姓上がりの豊臣秀吉が、征夷大将軍よりはるかに位の高い、臣下としては最高の関白太政大臣になりました。これだって藤原氏でなければなれないはずなのに、全く新しい豊臣姓を創設して授け、形式を整えたわけです。仮に秀吉が将軍をほしいといえば、朝廷側は出したでしょうね。 ただし、幕府というものは、形式的には臨時の軍政です、なにせ形だけですが、本物の政府が京都の天皇の下にありますから。したがって、当時の頼朝には征夷大将軍という官職が似合いであったということです。
- tiuhti
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なぜ、征夷大将軍という職名を源頼朝が望んだかについては、一般的に言われるのは、 1.奥州藤原氏との戦いを前に、「東北地方を平定する」という目的に合致するタイトルを欲しがった。(実際に朝廷から征夷大将軍の位を認められたのは、奥州平定後の1192年でしたが。) これは、木曽義仲が、頼朝勢の西上の直前に「東国の反乱者(=頼朝政権の事)を討つ」という名目で征夷大将軍になったのと、同じ発想でしょう。 2.非常時に直接天皇の指図なしに非常大権が行使できる「大将軍」という肩書きが欲しかった。 必ずしも『征夷』大将軍である必要はなかったが、上記の奥州との関係+坂上田村麻呂などで特に有名だった征夷大将軍が選ばれた。 といったところでしょうか。 ただ、基本的な点として抑えておいた方がいいのは、征夷大将軍になったから武家政権が成立したのではなくて、東国の支配権を確保した後で、征夷大将軍になった、という事です。尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事があり、かつ政所下文が、「将軍家政所下」から「前右大将家政所下」に変わった事を理由に、頼朝が征夷大将軍を辞したと考える説があります(詳細は回答の末尾のURLを見て下さい)が、辞めたかどうかはこの際置いて、ここから推測できるのは、「将軍」という職名と東国の支配者の地位とは、この段階では不可分ではなかった、という事です。政所下文は、政務・財政に関わる頼朝の意思が文書で正式に現れるものですから、もし将軍という権威が重要であれば、一貫してその職名を使ってしかるべきですが、実際には、将軍か前右大将かにはそれほど拘っていません。(辞職説をとるのなら、そもそも将軍の地位が、必要不可欠ではなかった、という事になりますから、結論は同じです。) 現実に、他の方も指摘されているように、二代将軍頼家は、1199年の頼朝の死と同時に家督をついでいますが、征夷大将軍になったのは1202年です。言うまでもなく、この間鎌倉幕府が断絶した訳ではありません。武家政権のトップは征夷大将軍でなくてはならない、という考え方は、頼家の跡を継ぐのとほぼ同時に征夷大将軍になった三代将軍実朝から、実朝の死後の将軍不在の時期をはさんで九条頼経の摂家将軍ぐらいまでに生まれた、と考えるべきです。 もともと、武家政権は、「武力で武士の所領を保証する」という、天皇を頂点とする法・政治体制の全く外で生まれた、現実の力を基礎にしたもので、征夷大将軍はその後朝廷側が後追いで認めたものに過ぎません。ですから、それなりに征夷大将軍を選んだ理由は推測できますが、その位と武家政権の長としての権力の本質との間に、不可分の関係はありません。征夷大将軍と同様に、武家の中で人気のあった「鎮守府将軍」を、頼朝が奥州平定後望んだとしたら、今頃我々は、「鎮守府将軍が武家の棟梁」と考えていた事でしょう。鎮守府将軍よりは征夷大将軍の方が、ぴったりくるように思えるのは、実は実際に征夷大将軍が選ばれたという結果によって影響されている部分もかなりあります。 いずれにせよ、鎌倉時代成立期では、征夷大将軍≠幕府権力というのは、学問の世界ではほぼ常識だと思います。そこらへんの観点から、鎌倉幕府の成立を何年と考えるかについてまとめたサイトのアドレスを、参考URLに入れておきました。 尚、征夷大将軍=源氏の長者は、足利義満の時代からですから、「なぜ幕府を開く事ができたのでしょうか」という話には関係ないでしょう。 http://members-abs.home.ne.jp/sanraku/yoritomo_2.html
- VFR
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頼朝が征夷大将軍を望んだ意味については基本的にNo.1の方の紹介のwikipediaに書かれている通りでいいように思えます。 ただし征夷大将軍が全国に実権を及ぼすのは承久の変以降であるらしいので、それまでは東国での自治権を持ち、軍事力を自在に行使できる職としての意味合いが強かったように思います。 実際に征夷大将軍が武家の頭領としての意味や政治的な実権を全国的に及ぼす職とされたのは3代将軍の実朝の時代であるようで、そこまでの時間をかけて既成事実を積み重ねてそのような認識を持たせるようになったのだと思います。 wikipediaによる歴代将軍の在位期間を見ればわかりますが、この頃は前将軍死去=次将軍就任とならずに空白の時期があります。つまり幕府(この言葉が武家政権を意味するようになったのは江戸時代後期で鎌倉当時はそう呼ばなかったようですが)を継いだ時点では将軍ではない訳です。 征夷大将軍が武家政権のトップであるという体制を考えたのが大江広元なのかはわかりません。そういう話はありますが、根拠がある話なのかはわかりません。状況証拠から言って充分あり得る話であるという以上は言いかねます。
- ewyr-05
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源頼朝は、京に近い所へ幕府を開こうとしましたが、味方が東国に集中しており、西に行けなかったのが事実であったようです。 既にこの頃、朝廷には力は殆ど無く、 頭角を現し、事実上武士の頂点に立った証を出すのが仕事であり、 源義経を抱き込み、官位で朝廷優位な政治を行おうと努力していたようです。 義経に頼朝討伐の院宣を出し、頼朝が大軍を率いて京に入ると、 頼朝討伐の院宣を取り下げ、義経討伐の院宣を下します。 この時点で、言いなりであったようです。 ここで官位の取り決めが定まったのだと思います。 どうも、兄弟、国賊である頼朝の策では無いと考えられ、 その側近の策と考えられますが、 大江広元がここまで不敬とも考えられません。 大江広元が打開の策を提案し、周囲の賛同を得た、 議会のような物だったのではないでしょうか?
征夷大将軍という官職は、源頼朝が鎌倉幕府を開く前からありました。 「征夷」の「夷」はエビスすなわち異民族とか野蛮人とか言う意味です。有名な坂上田村麻呂は東北地方の蝦夷を征伐するために任ぜられた将軍でした。その頃の征夷大将軍は純粋な軍人に近かったわけです。 平安時代末期から武士が力を持ち始め、政治の実権を握るようになりましたが平家は従来の政治機構の枠組みの中で、今までは公家がもっていた太政大臣などの地位を獲得して国内を治めました。 その後、源氏は力で平氏を駆逐し、実権を持つようになりましたが、本拠地の鎌倉を動くことはなく、その地で国内を治めることになりました。 したがって、当初は臨時的な軍政の意味がありましたので、源頼朝には征夷大将軍という官職が似合いであったわけです。 「幕府」の「幕」とは幔幕のようなもので、戦争のときは武士の首領の指揮所は幔幕で囲われています、それで武士が軍政を敷くという意味で「幕府」という言葉が後年使われるようになりました。 京都には天皇(または上皇、法皇)を上に戴く本物の政府(といっても力はなく形だけの)が明治維新まであったわけです。(豊臣秀吉は武士でしたが自分が公家になり、関白太政大臣になって国を治めました。) >何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか?・・・このご質問につきましては、以上のようなことで、武士で一番力の強かった奴が力で政権を取った、そして武士の軍政ですから役職名は征夷大将軍が適当であったということですね(なにせ形だけですが本物の政府は京都にあります)。 >考えついたのは、大江広元だと思うのですが。・・・ 大江広元が京都の公家に相談して「征夷大将軍」の官職名を思いついたというのは充分にありそうなことで、そういう説もあります。
Wikipediaに書いてあります。
補足
征夷大将軍という官職よりも、源氏の長者という血統の方がより重要だということですか。 ところで、 >幕府=幕を張った本部=軍事用移動司令部 ということは、日本は約700年間軍事政権下にあったということですか。