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真田丸について
真田丸は今はなぜないのですか? だれが、どるいを潰したのですか?
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大坂冬の陣で豊臣と徳川は講和をし、その時の講和条件が大坂城の外堀を埋める事です。 現実には内堀も埋めましたが、外堀の外殻にある防御施設も当然外堀と同等にみなされ破却されたでしょう。 ただ破壊されたのは土塁の上の木製の壁で(射撃台と銃眼になっています)、土塁の地形は今でも残っています。 千田教授は真田丸のあった場所を航空写真で地形の凹凸を探し発見しました。
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- eroero4649
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真田丸というのは「臨時に作られた砦」なのです。元々そこには何もありませんでした。 大阪城は西を大阪湾、北を淀川、東を平野川に囲まれた難攻不落の堅城だったのですが、市街地が広がる南側は空堀があるだけで、ここが大阪城の弱点でありました。 その大阪城の南に、急峻な崖で隔てられた丘のような一角がありました。真田信繫(幸村)はその場所に砦を作りました。それが真田丸だといわれています。 真田丸は大阪城の南側に出っ張るような形でありますので、非常に目立ちます。東西と南の三方向から攻め込めるうえ、北側の大阪城側とも崖のような地形で隔てられているので、一見すると攻城側からすると格好の目標となってしまいます。そしてそれが信繁の作戦でもあったのです。 いかにも血祭りにあげるのに良さそうな場所に敵を引き付けて、それを返り討ちにして大損害を与えようとしたのです。そしてその作戦は、大成功しました。 しかし大坂冬の陣での和議の条件のひとつが「真田丸の破壊」だったので、和議が成立した後に真田丸は破壊されました。誰がというのなら、徳川方となりますね。
- oska2
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>真田丸は今はなぜないのですか? 大坂の陣で、徳川によって破壊されたからです。 大坂の陣の後、徳川家は秀吉時代の大坂城を埋め戻しました。 約1メートルから10メートル程度に土を盛って秀吉の大坂城を埋めました。 その上に、現在に至る徳川の大坂城を増築したのです。 ※本丸の発掘調査で、秀吉時代の石垣が見つかっています。 >だれが、どるいを潰したのですか? 先に書いた通り、徳川家です。 実際には、家康から命令された(転職の神様)藤堂高虎が総責任者として秀吉時代の廓を潰しています。 余談ですが・・・。 真田丸の位置は、最近資料によって明らかになりました。 現在の明星学園が、真田丸跡です。 土塁は残っていませんが、空堀らしい形状は残っています。
- ジャンピングハイ(@apostrophe3)
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こんばんは。 まず、「真田丸」の存在自体が、「聖徳太子の存在」までとはいいませんが、確かなものではありません。即ち、様々な説・憶測が飛び回っているわけです。歴史上のものは、そのようなものばかりで結論が「誰がとは分からない」では、面白くもありませんので、私が一番「これだ」と思う説をご紹介させて頂きます。 NHK大河ドラマ「真田丸」でも放送されましたが、大坂(大阪)冬の陣のあと、徳川方と豊臣方は、一度和議を結ぶこととなります。 ですが、この和議には、家康方が有利な条件が多かったわけです。 その条件は、「大阪城の外堀を埋めること」と、「真田丸を取り潰すこと」。 他にもいくつかあるとされていますが、「真田丸を取り潰すこと」。ここで、真田丸は潰されたと考える説が私は有力だと思います。 余談ですが、大阪城の外堀を埋める条件では、家康が内堀まで埋めてしまったため、大阪城が裸状態になり…(ここより先はネタバレにも繋がりかねませんので…)と言ったわけです。 真田丸を取り潰したのが誰か、というところまでは特定できませんが、今に残っていない理由は、真田丸を和議を行う際に取り潰したというのが、私が思う有力説だと思います。 いずれにせよ、あくまでも一説に過ぎませんし、真田丸の存在自体もあやしいものですので、「そんな説もあるんだ」程度に聞き流して頂ければ幸いです。