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小牧・長久手の戦いと黒田官兵衛

小牧・長久手の戦いの時に黒田官兵衛が羽柴秀吉の陣にいなかったというのは本当ですか?黒田官兵衛がいれば、岡崎への中入り策は採用されず、徳川家康に負けることはなかったという人がいますが、本当ですか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • jkpawapuro
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回答No.4

黒田官兵衛が作戦指導してたら、中入り策が採用されなかったというよりは中入り策を成功させてたんじゃないですかね? 小牧長久手の中入り策って作戦の大筋自体は十分優秀ですよ。 完全な包囲戦をするには3倍では兵力不足ですし長退陣をしたくない秀吉が家康に決戦を強いる方法論としてはほかに無いのではないでしょうか? 問題点は二つあって、米か麦の収穫が狙える時期なら中入りが単独で作戦となるのですが、食糧が無い時期にやるから家康を釣る餌というのが見え見えである点と、 もう一つは万の家康軍に隠密作戦を許してしまった点ですね。 普通は500、せいぜい3000とかならともかく万の兵の家康軍に隠密行動を許したとなると作戦の概要ではなく細部に手抜かりがあったとしか言いようがありません。 なので私であれば黒田官兵衛であれば作戦を成功させていたと主張しますね。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

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その他の回答 (3)

  • pri_tama
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回答No.3

>小牧・長久手の戦いの時に黒田官兵衛が羽柴秀吉の陣にいなかったというのは本当ですか?  小牧・長久手の戦いの初期(尾張[犬山]から小牧へ戦線が移行する段階)では、大阪で留守居役をして居た様ですが、岡崎への中入りの頃には秀吉の本陣に参加しています。  なお、小牧山包囲からの撤退戦で活躍し、播磨国宍粟郡の5万石の大名に成っていたりします。 >黒田官兵衛がいれば、岡崎への中入り策は採用されず  秀吉は、池田恒興を内応させる条件に勝利後は尾張国(一説によると家康の領土の三河を含めた3国)を譲るとしていたので、痛み分けと成りががちな、対陣戦ではなく家康撃滅できる積極的攻勢戦略を取りたいとの事情が有りました。  ⇒恒興との約束を反故にしていると認識されると、まだ不安定な諸将の造反が出かねない…。   (秀吉も家康も戦いつつ調略合戦を繰り広げていたので…。)  なお、最近では秀吉が丹羽長秀へ宛てた4月8日付書状から、中入りは秀吉が構想していた作戦を恒興が意をくんで進言したとの説も上がっています。

  • gunsin
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回答No.2

#1です。 誤認が有りました、訂正します。 秀吉が関白になったのは1585年で小牧長久手の戦いは前年の1584年 でした、独裁政治前なので、歴史にタラレバは無いのですが官兵衛 の意見に耳を傾けているかも知れません。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.1

黒田官兵衛が居なかったのは事実です。 羽柴秀吉では影響力が有りましたが豊臣秀吉の独裁政権下で どれだけの影響力が有ったかは疑問な処です。 --------------------------------------------------------------------------- 多くの書籍では、家康が勝利したと成ってますが、長久手の戦い の局地戦では敗北したが戦い全体としては秀吉が勝ったと、 共立女子大学 堀新教授が唱えています。 説の根拠になるのは複数有るのですが、最も重要と思われるのを 記載します。 講和に於いて、家康は次男 於義丸を石川数正らの複数の重臣が 人質を差し出し、秀吉側から一人も出していない点で秀吉の勝利 としています。 前々から勝利した家康が跡取りの於義丸(結城秀康)を差し出した のが疑問でしたので、納得の勝利説です。 ------------------------------------------------------------------------ NHK-R2 カルチャーラジオ歴史再発見で放送されました。 聞き逃しサービスで視聴出来ます。

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