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ダンテの神曲について。
ダンテ・アリギエーリの神曲(河出書房新社/平川祐弘訳)の煉獄篇第30歌に、『しかし私は、第二の齢の声を聞いた時、世を変え(世を去り)ました。すると彼は私を捨てて、よその人の許へ走ったのです。私が肉体を離れて魂となって天へ昇り美も徳も私のうちに増してきたとき、彼は私をもはや愛さず、私を喜びとせず、およそ約束を果たしたためしのない善の虚像を追いかけて正道を捨てました。』とありますが、この“およそ約束を果たしたためしのない善の虚像”とは何を指しているのでしょうか?
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>ダンテ・アリギエーリの神曲(河出書房新社/平川祐弘訳)の煉獄篇第30歌に、『しかし私は、第二の齢の声を聞いた時、世を変え(世を去り)ました。すると彼は私を捨てて、よその人の許へ走ったのです。私が肉体を離れて魂となって天へ昇り美も徳も私のうちに増してきたとき、彼は私をもはや愛さず、私を喜びとせず、およそ約束を果たしたためしのない善の虚像を追いかけて正道を捨てました。』とありますが、この“およそ約束を果たしたためしのない善の虚像”とは何を指しているのでしょうか? ⇒以下のとおりお答えします。 むずかしいですね。本文の前後を見てもそれらしい説明はありませんので、明確なことは申し上げられませんが、推測を交えて次のように考えました。 ①いかに想像をたくましくしても断言はできませんが、この文言の置かれている位置、すなわち、煉獄篇の最後にして天国篇の直前ということを考え合わせると、見えてくるものがありそうな気がします。 ②煉獄篇では、第一環道から第七環道までの間に、「高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・暴食・(不倫などの)愛欲」という7つの罪を浄めました。 ③ベアトリーチェが死んだとき、ダンテはウェルギリウスに案内されて煉獄を巡り、この7大罪を浄めますが、「彼は私を捨てて、よその人の許へ走った」というくだりはこのことを言っているのだと思います。 ④「愛」を象徴するベアトリーチェが、第二の齢を得、魂となって戻りますが、ウェルギリウスは「理性」一辺倒で、神への愛を知らないので、そういう実態(「愛」の欠落)を詰られるわけですね。お尋ねの、「およそ約束を果たしたためしのない善の虚像」とはこのことを指しているのかも知れません。 ⑤「マタイによる福音書」12章32節にこうあります、「人の子に対して言い逆らう者は許されるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも来たるべき世でも許されることはない」と。愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴でもあるベアトリーチェとしては、これをダンテに説きたかったものと思います。 ⑥上のような課題をもってダンテは天国の門を入ることになりますが、言い換えれば、これが天国篇への導入題になる、ということでもあると考えます。ところで、ウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため、天国の案内者にはなれません。そこでダンテはウェルギリウスと別れ、ベアトリーチェに導かれて天国へと旅立ちます。 ⑦天国へ入ったダンテは、さまざまな聖者と出会い、高邁な神学論を聞き、聖人たちの神学試問を経て、天国を上へ上へと登ります。つまり彼は、地獄から煉獄山の頂上までの道をウェルギリウスに案内され、天国では至高天に至るまではベアトリーチェの案内を受けます。そして、その至高天ではベルナルドゥスが三人目の案内者となります。こうして、ようやく彼は、この世を動かすものが「神の愛」であることを知ります。 ちなみに、全体を要約すればこんな感じでしょう。 《ダンテを案内するのは実在した古代ローマの詩人であり、神曲の中では「理性と哲学」の象徴とされている。地獄と煉獄を案内する。ダンテは、煉獄山を登るにつれて罪が清められていき、煉獄の山頂でウェルギリウスと別れることになる。そして、そこで再会したベアトリーチェの叱責と導きで天界へと昇天し、天を巡って至高天へと昇りつめ、【見神の域に達し、神の愛と神への愛を覚知する】に至りました。》 以上により、「およそ約束を果たしたためしのない善の虚像」=「見神の域に達し、神の愛と神への愛を覚知すること」であるかも知れない、というのが私の結論です。
お礼
お礼が遅れてすみません。非常に詳しくありがとうございます!とても助かりました。