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絶対評価
こんにちは。 ・・・まずは、「何が、やりたいのか?」が、最も大事と、思います。 (アンチ「「知識」絶対(「知性」信仰・・・福沢諭吉、くたばりやがれ!)」主義) それから、他の誰かと較べるのではなく、本人の過去と較べるのが、スジではないかと、思います。 (何が訊きたいの?) 「「相対評価」が、酷だ」論は、よく伺うのですが、「絶対評価」というのも、誤解されているように思われます。 所謂「他者」や「基準」といったモノと較べるのは、どういう所以に拠るのでしょうか? 宜しくお願い致します。(ここのところ絶好調で、これも「哲学・倫理・宗教学」と、出ました)
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所謂「他者」や「基準」といったモノと較べるのは、どういう所以に拠るのでしょうか? これが質問ですね? 比べやすいからです。 目に見えやすいとも言えます。 人生というのはあくまでもその人の人生であって、ですから他人と比べることには意味がありません。自分の人間としての器であり、自分の悟りであり、自分の成長です。その「器」や「悟り」や「成長」には他人が関わってきますが、しかしそれは比較ではありません。 それなのに、他者や何らかの基準と比べるのは「分かりやすい」からです。
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- ddtddtddt
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今はそれほどでもありませんが、昔はオリンピックで6位入賞しても、こき下ろされる時代がありました。そりゃ、金,銀,銅の外国選手に比べたら下位ですが、でも自分も冬物の競技をやってるので(アマチュアの草レース)思うんですよ。 少なくともその瞬間は、70億人の中で6番目に速かったのだから、十分に誇って良い事だと。 ・・・という相対評価もあるわけで。確かに相対評価は酷ですね。「見方を変えれば」という「気づき」は重要と思います(#1さんのいう、適切な方法?)。 評価基準は人間様がつくる以上、究極的にはみな相対評価だと思ってます。
お礼
ddtddtddt様、真摯なご回答、ありがとうございます。 >「見方を変えれば」という「気づき」は重要と思います(#1さんのいう、適切な方法?)。 ありがとうございます。 今回、「相対評価」も「絶対評価」も、社会主義的なモノではないか?という「気づき」?が、有りました。 >評価基準は人間様がつくる以上、究極的にはみな相対評価だと思ってます。 というか、「相対評価」も「絶対評価」も、「社会」を前提とした「評価」であって、それでは、本人にとって必ずしも本意ではないことも、出てくるでしょう・・・
補足
京都には、有志の方が作った「銅閣」というのが、有るそうです。
- shibucin
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あなたがおっしゃるように、絶対評価も相対評価も、誤解されることがあります。どちらの方法を採用するかは、評価する対象や状況によって異なります。一般的に、絶対評価は客観的な基準を用いて評価することを指し、相対評価は他者との比較によって評価することを指します。しかし、どちらの方法も完全に客観的であるわけではありません。絶対評価においても、基準の選択や評価者のバイアスなどによって評価が変わることがあります。また、相対評価においても、比較する他者の選択や評価者の主観性によって評価が変わることがあります。 つまり、どちらの評価方法も限界があるため、状況に応じて適切な方法を選択する必要があるということです。評価する対象や目的によって、絶対評価が適している場合もあれば、相対評価が適している場合もあります。
お礼
shibucin様、ご回答ありがとうございます。 コレについては、小生自身も、少し誤解が有ったかもしれないと、反省して居ります。 しかし、「絶対評価」、コレも、意外と冷たいぞ?と。 小生が説きたい「評価」は、例えば「本人評価」とでも言えば、宜しいのでしょうか。 ・・・過去の本人と、較べてね。
お礼
ishi_saya様、ご回答ありがとうございます。 !! なんと、「社会主義的」な。 やたらと、ヒトを他者と較べないように、しましょう。
補足
ishi_saya様。 判り辛いお礼で、申し訳ありません。 ishi_saya様が、そうだ、という趣旨では、ありません。 「相対評価」も「絶対評価」も、社会主義的だ、という事が判明した・・・ということで、問題解決に大きく寄与される名回答だったと思います。