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身心問題の基礎
疑問の結論 人格は表象あるいは知覚の対象となることは 絶対的に排除されている。 難解な前提 自我はこの語のあらゆる意味においてもまだ対象である。 これに対して作用はけっして対象ではない。 人格の与えられる唯一無二の様式はむしろただ 人格の作用遂行そのもののみ (したがってまた、おのれの行為の自己反省という作用遂行) であり、この作用遂行のうちに生きながら 人格は同時に自己を体験するのである。 ところで、私は、一般的に、身体、本能、感官、感情、感性、知性、理性、良心、自我といった、私自身の内部の諸機能・諸作用・諸内容を、内省や反省を通じて対象に出来るような気がします、尤も、情動や衝撃に自身が充たされた場合、この限りではないようですが、その衝動すら後の反省を通じて対象化できるような気がします。 それと同様に、一般的意味における「私」や「私の人格」も反省を通して対象化でき、後悔や達成感の感情を味わうこどできるように感じます。(勿論、この「私」や「人格」は「他者から見た私や私の人格」では有りませんが) これは私の勘違いか、 あるいは哲学的な「人格」の意味を取り違えているのでしょうか、 もう少しのような気がしますが、 どなたかアドバイスをいただけませんでしょうか? この質問は、以下の文献の解釈についてです。 「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」 下巻 38頁~ マックス・シェーラー
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質問者が選んだベストアンサー
対象化されないからこそ認識の主体であり続けることが出来るのではないでしょうか。創でないと自分の尻尾を飲み込んでいる蛇が完全に自分を飲み込んだようなもので対象化されたとたん認識の主体は消滅するのではないかというのが素朴な想像です。アインシュタインですら自分のことだけは分からなかったのではないかと思っています。あるいはソクラテスにしてもプラトンにしても。ただ主体は自分が存在するところまでは分かるのではないかと思います。デカルトの有名なコギトエルゴスムはこのことを言っているのではないかと考えます。
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- kankororin
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ここで引用されている文章では、「自我」は反省できる対象のようですが、「人格」はそのときどきに体験をしているだけのものと取れます。 「生きられた瞬間の暗闇」という有名な言葉がありますが、人間は<いま・ここ>にある状態では、それを体験しているだけで、*同時に*反省的にそれを捉え返すことはできない、というのは20世紀初頭の大きな思想の潮流だったのではないかと思います。
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ご回答有難うございます。 確かに、仰ること良く理解できます。 ただ、「人格」と言う言葉に、改めて辞書を引いても、 そのような意味は無く、行為する主体です。 本来、このような言葉の使い方に関する、 微妙な違いは、飛ばしてしまうのですが・・・ たとえば、半信半疑で何かの行為をするとき 反省しながらと言うか、自分を対象化しながら 同時に体験しているって事ないですかね。 たとえば、「この一杯はよせばよかった」、 と思いながら苦い酒を飲んだりして、謝々。
お礼
ご回答有難うございます。 蛇が尻尾から自分の頭まで飲み込んでしまうのは 想像すると面白いですね。 対象化できないから主体と言う理屈はわかるのですが、 自分を対象化した私を、そのあと反省和通じて対象化している私が現れるわけで、 カントは理性をこのように使用をしてはいけないと戒めていますが、 この著者は、現象学的武器を使ってそこを乗り越えたと聞いています。 そこで出てくる「人格」が、もう一つ良く理解できません。 参考にさせていただきます。