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私の身体状況からの一発見 - 病床生活について質問
- 病気とは休息のように感じられる私の身体状況。健康な時は絶えず心に鞭を感じる衝動に苛立ち、何かしようと思いながらも何もできない無力感を抱えている。
- 私は穀つぶしではなく、廃人ではない。だからこそ、有意義な仕事をしなければならないと感じている。しかし、私の才能は怪しいし、生活能力にも欠けている。
- 「私が廃人であり、穀つぶしでない」という表現は、廃人であるが穀潰しではない、つまり私は何かしらの意義ある仕事をしなければならないという意味。
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#3です。 接続助詞「ながら」や「つつ」の省略形とみる見方がより趣旨に近いのかもしれません。 A「私は廃人であるが、穀潰しでない」 ↓ 「私が廃人であり<ながらも>、穀つぶしでないならば、」 「私が廃人であり<つつも>、穀つぶしでないならば、」
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- kine-ore
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これは変に難解な文章ですね。 私はB‘で「私は廃人であり、穀つぶし(である、)でないならば、何ら…」と読み解きたいと思います。 随筆「病床生活での一発見」のこの箇所は、「私は駄目だ!」「生活能力の欠乏した人間なのだ」という「廃人」であり「穀つぶし」でしかないという「厭らしい必然感」「墓穴の底」の心境、すなわち酒でも晴らし得ない中での「何事かを、人生に仕事しなければならないのだ。」という「生活焦燥」であり「不断の退屈感」たる日々の心境を語っている箇所だからです。 それが「病気は一切を捨ててしまふ」「病気が一切を諦めさせてくれる」、つまりは「「無為自然」のといふ哲学の意味を知った」という後段の文脈になっていくのでしょう。
- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 udonxboyさんが、「私は廃人でも穀潰しでもない」の意味に取りたいお気持ちはよく分かります。ただ、「文脈から読み取れば」とのお説ですが、文脈それ自体は必ずしもそれを暗示も支持もしていないような気がします。つまりそれは、あくまでも読者の願望にすぎない解釈だと考えます。 一方、有り体に見れば、この文は一種の対句法で、「廃人」と「穀つぶし」を一対とし、「であり」と「でない」をもう一つの対としている恰好ですね。ですから、あるがままに解析すれば、「廃人であり、穀つぶしでない」は、「廃人ではあるが、穀つぶしでない(ならば)」と読み取れるのではないでしょうか。 作者は今病気療養中ですので、それを「廃人である」と読みかえている、もしくは、そうだと認めている。「(けれども)穀つぶしではない」と言いたいのではないかと思います。「廃人ではあっても、穀つぶしではないのだから、何らかの有意義な仕事をしなければならないのだが…(なかなかうまくは行かない)」と、焦心した心情を吐露しているくだりと見ました。
- g27anato
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文脈は「~ならば、仕事をせねばならない」に続いているのが明らか。 仮に「廃人で」あるなら「仕事を」するのは現実的に無理な話であり矛盾を生じるからして、 読みとしては「廃人であり、穀潰し」と並列した上での否定「でない」から次の「ならば」に続くのが、矛盾なく解釈可能な文脈として理解できる自然の流れ。 文中の読点「、」は、 「文脈の区切」りというよりは、「文言の句切り」として捉えるのが妥当と言える、朔太郎独特の詩的表現法と思われる。 …よって「Bになるような気がする」のは感性として間違いではなく、 あとは論理的な解釈説明ができれば完璧と言える。