- ベストアンサー
北条義時
北条義時が元服後、江間小四郎と名乗っていたのは、かなり若い時から、分家させられていたのでしょうか?まあ、この時は兄である嫡男の宗時がいたので、しょうがないでしょうが、義時はどの時点で、時政の嫡男になったのでしょうか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
当時は嫡男とか関係なく領地や住所の地名を姓として名乗る習慣があったという説があります。 北条以外では奥州藤原氏の藤原泰衡は伊達小次郎という別名を持っていましたし、都の藤原摂関家の藤原氏も藤原忠通の嫡男基実も「近衛」姓を名乗り、弟らも「松殿」「九条」姓を名乗りました。 「藤原氏増え過ぎ問題」で「氏」ではなく「姓」が藤原氏の一般的な呼び方になって、他の氏も段々と「姓」を名乗るようになりました。 北条は「平氏」から「北条姓」とするところ「北条氏」としてしまったので、北条義時の姓は「江間」であると考えても良いという説もあります。 関東武士は「姓」を「氏」としてしまったので、読み方は「ほうじょう【の】よしとき」と「源頼朝(みなもと【の】よりとも)」のように氏と名の間に【の】が入るという説があります。 義時が北条氏の嫡男になったのはやはり宗時が亡くなったから…でしょうね。 時宗の「姓」が伝わっていないのは早世したせいかと。 時政自体出自がちょっと怪しいし、宗時がもうちょっと早く亡くなっている伝説もありますし、長男なのは間違いないけど政子の弟だった説もあります。
その他の回答 (1)
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
時政は牧の方との間に生まれた子を跡継ぎにしようとしていた可能性が高い。時政が失脚してから北条を継ぐことが決定したのだろう。
お礼
ご回答ありがとうございます。しかしながら、どうも、そうではないように思うんです。兄宗時が戦死した後、源平合戦や欧州藤原氏討伐に参加し、頼朝の乳母の一族である比企氏の嫁に娘をもらうなどを考えると、頼朝自身は彼に北条氏の家督を継がせたいと考えていたのではないかと思います。 牧の方の事件は頼朝が死んだ後だと思うので、ちょっと違うと思うんです。
お礼
ご回答ありがとうございます。義時が嫡男になったのは、宗時が亡くなったとき、源平合戦のさ中だということと、頼朝の強い支持もあったと思います。源平合戦、奥州藤原氏討伐といった大きな戦に参加しているというのも、その考えになる大きな要素と考えています。