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戦国時代の城主の客の泊まる場所、移動手段

戦国時代に城主が客を泊める場合、城の中の二の丸などに泊めるのでしょうか? それとも、城の外の城下町に屋敷があり、そこに泊めるのでしょうか? また、泊まった後、城主に会いにいく際の移動手段は何でしょうか? 例えば、宿泊場所が二の丸なら、城主がいる本丸まで歩いていくのでしょうか? それとも、城主が馬や輿を用意してくれて、それに乗って本丸まで移動するのでしょうか? ちなみに、客は最上位の賓客を想定しています。 以上の点を教えていただきますようお願いいたします。

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  • pri_tama
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回答No.3

>もしよろしければ、戦国時代の城内の邸宅の一般的な大きさを教えていただけないでしょうか?  戦国時代と仰りますが、豊臣秀吉以前と以降では城の立ち位置が全然違います。  秀吉が天下統一以前は、国持ち大名クラスであっても、家臣は各々主君とは別に城(傍目では砦以下であっても)を自分で持っていて、重要な式典や会議の時だけ主君の城に来る(殆ど日帰り)だけなので、家臣が城内に所謂邸宅レベルの立派な建物は立てていません。  と言いますか、戦国期に全国に数万存在したと言う城の殆どは、周りを堀で囲って、堀を掘るときに出た土を使って土塁を築き、木材で柵を作って囲い、木を使って櫓が有れ上出来です。  城主の座所の建物も、礎石すら使わない掘っ立て小屋レベルです。  (合戦時に建物が有ると、火矢の的に成るので、合戦が見込まれる際に容易に破壊して、バリケードに流用できる様にしていた。)  なので、多くの大名は日常の生活および式典および領内支配の政庁業務をこなす邸宅は、城と別に設けます。  岐阜時代の信長も、防御機構が有る金華山上の岐阜城と、日々の生活と政庁業務及び賓客もてなす麓の邸宅を区別して運用していました。  (ちなみに最近岐阜では「信長のおもてなし」と題して、最新の発掘調査結果をもとに岐阜城(金華山)の麓に有った邸宅の復元などを進めて言います。ルイスフロイトの記録に有る山の壁面を流用した人口の滝等…。)  まあ冷静になって考えれば、戦が何よりも最重要と成る戦国期には、敵に城の防御機構の情報が漏れる可能性を考慮すれば、部外者を城内に招くと言うのはあまりやりません。 (城内の防御機構を知っている大工親方等が、完成後に殺されたと言う話も…。)  秀吉の天下統一や江戸時代の一国一城令などで、戦国期に有った城が破壊され、秀吉や徳川将軍家の直参家臣となった大名が領有を一円支配を行う様に成ると、秀吉や徳川将軍から見た陪臣クラスは、直臣たる大名の城・邸宅周りに自身の邸宅を築くようになります。  (ピラミッド型の主従関係の構築。各大名も主人の邸宅の周りつまり、大阪や江戸などに邸宅を作る。)  ⇒まあ仙台藩伊達家みたいに、領地一円支配が成立せず、家臣が独自に城を保持し続けた藩も少数ながら存在しました。  なので、現在我々が知る事が出来る有名城は、秀吉あるいは江戸時代以降の主君在所の直近に邸宅を設ける事が前提な形に成っている事を意識する必要があります。  何が言いたいかと言うと、下記の画像(安土城に設けられた武井夕庵の邸宅)を見てください。  武井夕庵は、信長直下の文官として重きを成した人物です。  (森成利(森蘭丸)、津田信澄、織田信忠に次ぐ城内の重要箇所に邸宅地を与えられた。)  武井夕庵の邸宅があった事を示す石碑の大きさから面積を推察できると思いますが、正直日々の事務作業[事務作業をやる書院と少人数の顧客と面談する部屋程度しか作れません。]と信長謁見前の身だしなみを調える事と待機場所ぐらいが出来る場所ぐらいしか確保できません。  江戸城の各大名に与えられた伺候席の面積と比べれば、武井夕庵が優遇されている事は、理解できるかとおもいます。  (伺候席なんか、一人あたり畳数畳分ぐらい…。)  ⇒つまり城内の家臣宅って、今で言う所の大企業の役職者室ぐらいしか確保されていません。  まあ、安土城には伝羽柴秀吉邸と言われる場所も有りますが、ここですら馬6頭をつなげる馬舎が有った程度です。  (秀吉邸跡があるのに、柴田や丹羽や明智と云った秀吉以上の重臣の邸宅が無いのに秀吉の邸宅跡だけが有るのは、おかしいとの指摘がある。⇒後の天下人だから?)  ⇒馬6頭って大したことないように思えるかもしれませんが、山城内の家臣邸宅内で築く建物としては、他例があまり見えない極めて巨大な建築物です。   ⇒伝羽柴秀吉邸は、他の家臣邸宅では見られない巨大建築物なので、本能寺の変の後の火事で天主や本丸御殿を失った後に、織田家一族が安土での御殿代わりとした織田御殿[安土城内で所在地が推定が出来ていない]に当たるものと推察する歴史家もいる。  本能寺前に家康が安土に訪れた際にも、名前が発覚しているだけでも34名[おそらく、名前が残るレベルの武将なので乗馬があった筈。]もいましたから、安土の最大規模の家臣宅でも彼らは収容できません。 >また、戦国時代に宿舎として利用されて、現存するお寺(形が大きく変わっていないものでお願いいたします)もあわせて教えていただけないでしょうか?  正直、宿舎に成り得る有名寺って殆ど、江戸時代に将軍家や大名から寄進を得て、境内・建物を拡大化したのちに明治以降に廃仏毀釈などで縮小しています。  ⇒殆どの寺社が明治~昭和時期に境内の大半を放棄しており、最盛期の往時は、現存の数~数十の領域が有ったと言います。  基本京都の有名寺って、つながりのある大名の宿舎として使用されてます。  信長の京での定宿でして有名な妙覚寺や本能寺は、境内が1~2町(1町は、碁盤目状の京都で大路のみで囲まれた領域)を占めており、下手な貴族の邸宅よりよっぽど巨大な領域を確保していました。  (しかも、当時の寺は宿坊等の部外者を停泊させる施設を保持していた。因みに本能寺は、現在ホテル経営をやっていたりする様に、寺って意外と旅行者の接待ノウハウを持っている…。)  まあ、京都の寺は秀吉~江戸幕府のせいで、所在地・建物が変えられているので変わっていない者を提示するのは難しいです。  徳川将軍家の京での拠点として二条城と並んで重要な知恩院は、上段部が戦国期の寺域と重なっていたと言いますので参考に成るかもしれません。  まあ、京都には金閣寺や銀閣寺を山外塔頭とする程の大寺社である相国寺が有りますから…。  (応仁の乱での一軍[東軍]を収容可能な程の大寺)

poxtupoo
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、真にありがとうございます! なるほど、確かにいつぞやの大河ドラマで初期の前田利家は、城で家族たちと一緒に過ごしていた記憶があります。 初期の前田利家の城は、館を柵で囲み、入口に物見櫓が付けられていた覚えがあります。 大河ドラマが全て正しいとは思いませんが、やはりある程度は時代考証が確かなのだと再認識しました。 知らない情報ばかりでしたので、大変勉強になりました。 本当にありがとうございました!

その他の回答 (2)

  • pri_tama
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回答No.2

>ちなみに、客は最上位の賓客を想定しています。  最上位がどのレベルを指しているか不明なので、織田信長の2例を提示させてもらいます。 例1) 客が格上(天皇)クラス  安土城本丸御殿は、天皇の住まいである内裏清涼殿を模したつくりと成っており、武家の実用を考慮した作りと言うよりも天皇の僥倖を考慮したとされています。  信長自身は、天主閣に住んでいたと推測されますので、最上級の賓客(天皇)の為に、邸宅を城内に作っていたと考えられます。  時代は少し下がりますが、江戸時代も将軍が各大名家の上屋敷にお成りする場合、各大名は邸宅の改築や門・庭の新築を行わなければ成らないので、大名家の負担の一因と成ったようです。  (秀忠・家光は、数十~数百回も大名の上屋敷にお成りしている。)  ちなみに名古屋城の本丸御殿は、将軍家光の上洛に合わせて藩主が本丸御殿から二の丸御殿に移動し、将軍に使ってもらった後は、藩主は戻らず、いつか再度将軍の上洛が有った場合に使用してもらうために、掃除は欠かさなかったものの、使用されない邸宅に成ってしまったそうです。  ちなみに、このクラスの場合、城主自ら賓客の御座所に赴いて歓待しますので、賓客の移動に関しては心配する必要はありません。 例2)客が同格者(徳川家康)クラス  信長が本能寺で亡くなる直前に、安土城で家康を歓待した際には、家康は、安土城外の大宝坊と言うお寺を宿舎(信長公記)にして、信長からの歓待(能などの閲覧)は、摠見寺(まあ広義の城内ですが)にて行っております。  家康が、信長が居住している天主閣まで赴くと、信長の家臣(謁見という形に成ってしまう。)とみなされてしまうので、お互いの面子を調整した結果かと思います。  ⇒信長と家康では力関係が信長に圧倒的に有利なので、安土に家康が赴く事に成ったわけで、本当に同格だと、信長と斎藤道三の会見みたいに、お互いの領土の中間の寺等で会見します。  通常、城主の賓客であれば接待役が指名され、客の格式に応じて宿舎(接待役の邸宅の場合もある)の準備が接待役に一任されます。  まあ城主の賓客と成れば、通常お供の数もそれ相応に居ますから、城内の邸宅より城外の広い境内を持ったお寺が宿舎として当てられます。  (安土城の各家臣の邸宅と伝わる地も、賓客のお供が数十~数百人程度で来たら寝泊まりできる程の面積はそもそもない…。←合戦時の籠城なら兎も角、賓客の歓待時にお付きの人は外でごろ寝しろとは言えないので…。)  また賓客が指定された宿舎に着いて以降の諸々は、全て接待役が準備しますので、輿や馬が必要であれば、接待役が用意します。  ただ、普通は自分の乗る輿や馬は自分でもっています。  (庄屋クラスの農民や医師などの平民でも、登城の可能性が有れば、使う機会が滅多に無くても、自分用の駕籠を準備していた。)  城内の何処まで乗って行けるかは、身分によって厳格(城門~玄関まで細かく)に決まっていますから、ケースバイケースかと思います。 (まあ、足腰が悪い方(江戸城でも老齢だと例外になる)をお招きする際など、城主の指示で特別のはからいをする場合も有ります。)

poxtupoo
質問者

お礼

詳しく教えていただき、真にありがとうございます! 大変参考になりました。 戦国時代の城内の邸宅の大きさが分からなかったため、幕末の西郷頼母の武家屋敷をなんとなく想像していましたが、戦国時代では広い境内を持ったお寺の方が面積があったのですね。 もしよろしければ、戦国時代の城内の邸宅の一般的な大きさを教えていただけないでしょうか? また、戦国時代に宿舎として利用されて、現存するお寺(形が大きく変わっていないものでお願いいたします)もあわせて教えていただけないでしょうか?

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (427/1332)
回答No.1

>城の外の城下町に屋敷があり、そこに泊めるのでしょうか? 警備上、これは無いでしょう。 城主と城主との、その時点での関係、派遣された家来の役目の 内容などで、状況が変わるので、一概には、言えないです。 通常は宿泊しないで、日帰りでしょう。 織田信長は、安土城下、家臣達の屋敷群の外れに、同盟者の徳川家康 は屋敷を造ってました。

poxtupoo
質問者

お礼

教えていただきありがとうございます。

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