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知恩院の忘れ傘とは?
- 知恩院の忘れ傘は、不思議な世界への入り口となっています。
- 実際に現地にあるかなり古い骨組みだけの傘を見ると、その理由が気になります。
- 傘の柄がハリに突き刺してある状態や紙の残骸がないことから、誰かの忘れ物ではない可能性が高いです。
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>知恩院の忘れ傘 知恩院は、法然上人のお墓がある浄土宗の本山ですよね。 徳川家の信仰を受けて、多くの建造物が建ちました。 >現実的な事を考えた時にどういうことであそこにあるのでしょうか 有名な「知恩院七不思議」の一つですね。 夢を壊す回答だと「おまじない」です。 木造=火災=消化設備が弱い(当時)ですから、「火災よけのまじない」です。 家光の時代?に、名工・左甚五郎が意図的に置いた!という説が有力です。 が、徳川の威光で再建した工事に意図的に傘を置く事は・・・。 まぁ、家光は「遊び心を持った将軍」ですから「見て見ぬふり」をした可能性が高いです。 弟が次期将軍候補だったのを、家康の一声で次期将軍に決まった家光。 従兄弟の光圀が水戸家二代目として謁見した時に「光圀には、実兄がいるそうだな。今度、連れてきな」と言った事は有名です。 光圀の兄(頼重)は家光と謁見して以降は、一緒に遊んだり食事をしたり風呂に入ったりしています。 頼重が元服後は、讃岐高松藩主に任命します。 まぁ、表の歴史では厳しい家光ですが「案外おちゃめだった」 記録が讃岐高松藩の逸話に残っています。 ですから、傘の件も「おもしろい!」と思ったかもね。^^;
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- Carbadoc
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1633年、寺に大きな火災があって、多くの建物が燃えました。現存する御影堂は、このとき建て直されたものです。 あの場所に傘が置かれたのは、この再建作業のときです。 火事が起きると、町中の火消しが集まって、消火活動を始めます。このとき、どの組が現場を仕切るのかは、競争でした。 いち早く現場に着いて、目立つところで纏(まとい)を振った組が、消火活動の指揮権を握れたそうです(当時、火消しが駆け足で現場に向かったのは、いち早く火を消すことよりも、いち早く纏を立てる為だからとも言われています)。 ある組(当時の消防団は「○○組」と、組の名前で呼ばれていました)のまとい係りが、どの組よりも早くまといを立てるにはどうすれば良いのか、考えました。そこで思い付いたのが、「あらかじめ、現場にまといを置いときゃいいんじゃないの?」でした。現場にまといを置いておけば、火事が起きたとき、自分一人が現場に走って、身軽な体で建物をよじ登り、仕込んでおいたまといを振りかざせば良いのです。 下から見ると傘ですが、あれは、まとい竿の先端部分です。奥のほうには、頭に付ける飾りの部分も置かれています。(他の組にとっては、「してやられた」かもしれません。「傘だと思っていたら、まといとは。なんてこった!」) 幸い、知恩院では、その後、目立った火事は起きませんでした。 それもそのはず。火事が起きても、現場で真っ先にまといを立てるのは、置き傘組。他の組にとっては勝ち負けの分かっている勝負なので、「だったら、火事を起こさなっきゃいいんじゃねえの?(負けないためには、勝負そのものを無くせばいいんじゃねえの?)」と、火の始末には気を付けるよう、声を掛け合ったそうです。 「火事避け」という部分が受け継がれ、今の伝説になりました。 ※これは私の憶測ですが、廊下の大杓子も、同じ理由で置かれたのかもしれません。傘組が置いたのか、対抗して杓子組が置いたのかは分かりません。 「骨ばかり」は、ものの例えで、紙の部分も残っています。 と、ここまでしゃぁしゃぁとハッタリが書ければ十分でしょう。
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ありがとうございました ご回答者さまは話し上手でどんな場所でも人気者だと感じました 回答は大変興味深くて納得してしまいました ところで纏というのは結構大きくてビラビラしたのが付いていて骨はない気がしますけど。 また、威勢のよいいろは組の火消しは京都という土地ではどうでしょうか 厚かましいですが自分としては火除けのまじないなら龍を置くのが良いと思います 大雨を降らすといいますし、ついでに日照りの害から護り、飢饉を避ける事もできますし。 あれこれ申しましたが、纏はありで、今後は一説として文化遺産を楽しみたいと思います
お礼
ありがとうございました ぽつんと置いてある傘は本当に謎が湧いてきて諸説があるのも無理はないと思います 実物を手にとって調べた人が本当にいないのでしょうか いつか文献でも出てきたら面白いですね 実物が公開されればよいのに。