文学・古典
- イギリス小説について
1人称小説では通常語り手が一人ですが、1人称形式でなおかつ複数の語り手が物語る小説をご存知でしょうか? 日本文学だと、江國香織の「神様のボート」、村上龍の「KYOKO」などが該当しますが、イギリス文学だと、どのようなものがあるでしょうか。日本語と違い、主語が"I"に限定されるので、そのぶん制約を受けることになりますが、もし知っておられれば、著者名と本のタイトル、それから、できれば出版社も教えてください。 アメリカの小説では"Ada Dallas"(Wirt Williams)が該当するようですが、イギリス小説でお願いします。
- 万葉集の口語訳をお願いします
以下の万葉集の口語訳をお願いします 花ぐはし 桜の愛で 如此愛(ことめ)でば 早くは愛でず 我が愛ずるこらよ かはず鳴く 甘南備河(かむなびかは)に 影見えて 今か咲くらむ 山振の花 山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水 酌みに行かめども 道の知らなく お願いいたします
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- tomoekensin
- 回答数1
- お酒に関する?こんな感じの詩にお心当たりはありませんか?
“お酒を飲んでいる時だけが生きている時”的なフレーズのある、漢詩か何かだったと思います。 こんな感じの詩の、題と作者にお心当たりありませんか? 大変あいまいな記憶で申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
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- noname#3406
- 回答数9
- 近代文学の中で未来について書かれている作品
近代文学の中で表現や内容が未来について書かれている作品を探しています。 未来でもSFっぽい表現でなくてもよいです。 ちょっとした表現でも良いので教えていただけませんか? 作家だけでも良いです。 よろしくお願いします。
- 「あない」?「あんない」?
古文で「案内す」に「あないす」と振り仮名があるのですが、辞書で調べると「あんない」の「ん」の無表記とあります。ということは、発音するときは「あんないす」と読むべきなのでしょうか?あと、「日記」は「にき」?「にっき」?「なめり」は「なんめり」?そういうのを教えて下さい。
- ネイティブアメリカンの口承文学について
卒業論文を書くことになりました。ネイティブアメリカンの 口承文学について書きたいと思っています。(まだ悩んでいます) ネイティブアメリカンの口承文学が日本文学に通じるような わび・さびの世界があるとアメリカ文学の授業で聞きました。 (詳しくはわかりません) ネイティブアメリカンの詩などは心を打たれるものが大変多く、 日本人の感性に大変良く似ていると思います。 この流れで卒業論文を書きたいのですが、いい文献や、題目、 章立てなど、どんな些細なことでも結構ですので、アドバイス お願いします。
- Itch-a-pods
Theodor Seuss Geisel ( 1904-1991) の 本 On Beyond Zebra の 中に出てくる Itch-a-pods って何のことでしょう。 教えてください。
- 夢野久作の時間的ミス
ちくま文庫「夢野久作全集8」の「解題」で西原和海氏が「壜詰地獄」の時間的矛盾を指摘し、 『久作は他の作品においても、年・月・日など、時間上のミスをよくやらかしている』 と書いていますが、具体的にはどの作品のどの部分ですか?発見した方いらっしゃいましたら教えて下さい。
- 慣用表現とイメージについて
先日、ジャンル「言語」で「猫撫で声」についての質問(249499)をしたのですが、そのときの回答を読んでいろいろ考えさせられたことがあるので、また別な形で質問をしてみることにしました。よろしくお願いします。 要点は「慣用表現とイメージの関係」ということになるかと思います。どういうことかというと、わたしなどは「猫撫で声」という表現に対すると、そのイメージ(五感すべてを含む)が自然とそのたびに浮かぶことが多いのですが、どうも一般的には猫の影もちらつかないようです。当初のイメージが擦り切れてしまった後に、はじめて、その表現は常套句と呼ばれるに値するものになるのでしょうが、表現とイメージとの関係についてはどうやら個人差が大きいように思えます。 たとえば「燈台下暗し」という慣用表現がありますが、あるときまでわたしはこの表現を耳にしたり、眼にしたりするたび、港の灯台を思い浮かべていたのでした。そして、ここでいわれている燈台が港の灯台ではないと知った現在でもなお、この表現に対すると、まず夜の静まりかえった港の灯台をイメージし、そのあとで、おもむろに、ああそうではなかったと自嘲気味にそのイメージを再変換しているような感じなのです。あるいはサルスベリをみるときまって間抜けな日本猿が頭を過ぎったりもするのです(あ、これは慣用表現ではありませんね)。 そこで質問なのですが、みなさんにはそのような経験はないですか。たとえば「走馬灯のように思い出が駆け巡った」という文章で、走馬灯がいちいち脳裏にちらつくこと、あるいは「蛇足ですが」という言葉にあの爬虫類をイメージして鳥肌がたつこと(この鳥肌という単語にあの鶏の肌を思い浮かべてさらに鳥肌がたったりして……)、そんなことはありませんか。慣用表現とイメージとの関係で、個人的な興味深いエピソードがあれば教えてください。お願いします。
- 古文の文章のわからないところ2つ
古文の文章で、「歌をかくべしとて、師光入道の女、宮内卿の殿に歌は召されて ・・」という箇所があるのですが、師光入道の女=宮内卿の殿なんでしょうか。 宮内卿って男性がつく役職だから明らかに違うと思うのですが。ちなみに訳は 「歌をかけよといって、師光入道の娘で、宮内卿さんに歌をお詠ませになって」 です。 「とふべきひとは、さるべきことなれば、とりわかれしませず」の 「とりわかれしもせず」のところがなぜ「格別うれしいとは思わない」 という訳になるのかわかりません。「わかれ」=「別れ」ではないのですか。 全体の訳は「安否を尋ねてくるはずの人は、当山のことであるので、 格別うれしいとは思わない」です。 よろしくお願いします!!
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- space-travel
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