• 締切済み

歴史の本を読む際

「教科書にはこう書いてあるが実は○○の方が真実だ」みたいな意見って、結局どっちが正しいのでしょうか。 まあ、そんなことを気にしていたら「織田信長だって実在したかわからない。なぜなら現代人は実物を誰も見た事がないから」と言って歴史の本を読む意味がなくなってしまいますが。

みんなの回答

回答No.9

一級資料であるとも「過去の誰かの書いた文献」であり、 物証ではなく状況証拠でしかありません。 過去にどういう事実が有ったのかを正確に知る手段は有りません。 しかしながら、人間というものの行動原理に照らし合わせ、 妥当であるというものが「史実」として扱われています。 その「行動原理」も確定的なものではありませんが、 歴史学者や評論家・作家などは、確認できる資料を かき集め、自己なりの結論(もしくは推定)を開陳しているわけです。 全部を鵜呑みにするのではなく、 また、全部を疑うのではなく、 包括的・中庸的に歴史の面白さに触れましょう。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1499/3651)
回答No.8

教科書の記述がすべて適切かどうかはともかく、「教科書に書かれていること100」と「○○の方が真実だという本に書かれていること100」をランダムに選んで、その分野の専門の研究者100人に「適切かどうか」評価してもらうとすれば、教科書の圧勝でしょう。 日本の高校までの教科書は、文部科学省の検定という最低限の専門家によるチェックを受けているのに対し、「○○の方が真実だ」では著者の記述を第三者がチェックするような機会はほとんどの場合ありません。そもそも歴史的事象について「真実」という表現を使うこと自体、慎重さが求められるでしょう。またそうした書籍は「通説とかけ離れた興味ある異説の方が売れる」という傾向もあるでしょう。 もちろん執筆から検定、出版、採用までにはタイムラグもあり教科書には「最新の研究成果が反映されている」とは限りませんが、多くの教科書は「手堅い実証的な記述」となっています。(そうでないものが話題となりますが) ところで教科書については「無味乾燥で面白くない」という批判をしばしば聞きますが、「そのような批判をする人は本当に教科書を読んで覚えているのか?」と思うこともあります。例えば回答者が50年昔に使った高校の日本史教科書には「江戸・京都・大坂などには全国の物資が集まり、金さえあれば何でも手にいれることができた。しかし手にはいらないのは金であった。」と書かれていました。教科書を少しでも面白くしようという執筆者の心情が伺われる「教科書のユーモア」ですが、この教科書で学んでこの部分でニヤリとした生徒のうち何人が高齢者になった現在でも覚えているでしょうか。

  • nururian
  • ベストアンサー率27% (21/76)
回答No.7

基本的に教科書は、学会の多数派である定説に基づいて出版社に依頼された歴史学者が執筆し、文科省が内容をチェックします。 そのため、旧説もそのままという事もよく見られます。 自分も大学で日本史を専攻したので、学生時代には教科書との差異というのに驚かされました。 教科書の執筆者って、よほどの事がなければほとんど変わらないんです。学会の大御所大先生が名を連ねていますが、改定時に彼らが全部書き直すということはありません。出版社と打合せして、「この辺差替えたほうがいいかな」という部分だけ修正するのが普通です。 そのため、そういう俎上に上がらなかったことはそのままなんです。 世間で大いに話題になるような大発見とかあるとすぐに改定されます。例えば、和同開珎より古い富本銭が発見された時などすぐに改定されました。頼朝や尊氏の肖像画も、学会で非常に話題になったので比較的早く反映されました。 逆に、戦前から旧説だったのに国定教科書のままだったのが、武士の起源や鎌倉幕府の始まりですね。まあ、これらは新説も不完全で新新説や新新新説など、説が更新され続けて定説がはっきりしないということもありますが、鎌倉幕府の始まりは近年教科書でも色々と書き出すようになりましたね。 あまり先走った説を教科書に書いても、文科省からクレーム来ますしね。文科省の検査担当者は歴史学者じゃありませんから、色々齟齬も出てくるんですよ。

  • 5555www
  • ベストアンサー率49% (143/291)
回答No.6

「教科書にはこう書いてあるが実は○○の方が真実だ」みたいな意見って、結局どっちが正しいのでしょうか。……「歴史」ですから、すべてが解明されているわけじゃないし、他の回答者のご回答にもあるように、「白黒はっきりする証拠が出てくれば、明らかになったほうが正しいとなりますね。 ただそういうものは全体としては稀で、時代と共に定説が変わるということはたまにありますね。」ということにつきると思います。 私は、歴史には詳しくありませんが、関心を持っているので、ご質問も読ませていただきました。このご質問には、私見ですが、重要な意味が二つ含まれているような気がしました。それで、少し考えてみました。 結論は、「歴史を学ぶポイント」の一つは、「事実(実際に起こったこと)は何か???」ということ、そしてもう一つは、「私は、何を信じるか???、どちらを信じるか???」ということじゃないかと思いました。 1 「事実とは何か???」 ugcbbjさんは、「事実」と「真実」をどのように考えますか??? なんでもいいのですが、例えば「本能寺の変という一つの事実があった」と認めるとします。そうすると、「なぜ、本能寺の変は起こったのか???」ということも含めて、いろいろな「なぜ」が関心の的になるのです。そして、数えきれないほど、覚えきれないほどの「これが真実だ」というのがたくさん出てきます。「本能寺の変」ばかりじゃありません。「邪馬台国はどこにあったのか???」などなど、これが「歴史というものか」と、私のような素人には、気が遠くなります。 私は、「起こった事実」は一つだけど、その事実から、「これが真実だ」という沢山の真実が学者によって、歴史愛好家によって、そして私のような素人によっても生まれてくると思っています。 2 「何を信じるか???、どちらを信じるか???」 そうすると、歴史に限らず、どんな分野でも同じだと思うのですが、かならず、「何を信じるか???、どちらを信じるか???」という課題に向き合うことになると思います。私も、時々「歴史カテ」に質問し、教えていただきますが、やはり、そのカテに精通した回答者のご意見には、敬服させられるものがありますが、一言でいうと、やはりいろいろです。そうすると、「わたしは、何を信じるか???、どちらを信じるか???」ということになってくるのだと感じます。 まあ、そんなことを気にしていたら「織田信長だって実在したかわからない。なぜなら現代人は実物を誰も見た事がないから」と言って歴史の本を読む意味がなくなってしまいますが。……「気にしていたら」というよりも、「気になる」ということが「歴史」に限らず大切なことだと思います。そして気になったら、そのスタートが、「本(資料)を読む」、納得がいかなければ、「さらに別の本(別の資料)を読む」ということが理解を深めていくのだと、私は思いました。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5119)
回答No.5

>「教科書にはこう書いてあるが実は○○の方が真実だ」みたいな意見って、結局どっちが正しいのでしょうか。 どうっちもどっち。 日本には、某反日国家のような「為政者が決めた正しい歴史」が存在しません。 ですから、この質問がある訳です。 昔は、世界最大の前方後円墳=仁徳天皇陵でしたよね。 今は、世界最大の前方後円墳=大仙古墳(伝仁徳天皇陵)となっています。 安徳天皇は、壇ノ浦で入水して死んだ。 香川・徳島の伝承では、剣山一帯に平家残党と御所を設けて生き延びた。 ※御所跡・安徳天皇火葬場跡・安徳天皇の骨壺などが、残っています。 長篠の戦では、信長軍は鉄砲攻撃で武田軍を撃退した。 実際は、戦い現場跡では「数発の銃弾しか発掘できていない」 武田勝頼は、長篠の戦後敗れ死亡した。 高知では、影武者が死んだのであって勝頼は玄葉と名乗り天寿を全うした。 豊臣秀頼・真田幸村生存説も、大阪・香川・鹿児島に残っています。 まぁ、色々と教科書と合わない話はいっぱいありますね。^^; が、科学的な調査は一切していないので真偽は不明。 >現代人は実物を誰も見た事がないから」と言って歴史の本を読む意味がなくなってしまいますが。 そこで、古文書が根拠になるのです。 どちら側にもつかないで、中立的な物が残した記録は価値がありますからね。 邪馬台国論争でも、文科省が「旧唐記・新唐記」を採用すれば九州説が正しい事になります。 これだと、大和朝廷の正当性が疑われるので魏志東夷伝を優先しているのかも? ※魏が亡ぶ前の内戦時に書かれた書物が正しいのか? まぁ、教科書は「勝者の歴史」と割り切って色々な説を得るのも一考です。 「教科書を信じろ!」とは、文科省・日本政府も強要しませんからね。 日本には、某国に無い「思想信条・教育の自由」が存在します。

回答No.4

教科書が間違っていることも多いと推測は出来ますが どこがどう間違っているかや 真実が何であるか断定している人は おそらくもっと間違えていると思います まずは論理学や 真偽を実験で確認できる自然科学を学んでから 歴史を勉強するといいのではないでしょうか

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4900/10358)
回答No.3

どっちがと言うことになると、ケースバイケースですね。 教科書に新発見が反映されるのは時間がかかるので、教科書の方が間違っている可能性もあります。 センセーショナルな「これが真実」というのは、何の根拠も無い場合も多いし、「この文献に書いてある」と言っても事件の数十年~百数十年後に書かれた軍記物(まあ、今でいう小説ですね)の事だったりするので、信ぴょう性が無いです。 現代でも、作家による現実と異なる歴史書が書かれていますし、まあそういうもんです。 「この人が、こういう事を主張しているが、その根拠は何で、そのロジックは正しいのか?」を読者が自分で判断することになるので、そういう事が出来ない人は教科書だけ読んでいるのが間違わないためには正解です。

noname#251019
noname#251019
回答No.2

本というのは著者の偏見の塊である。 これを頭の片隅において本は読まないといけません。 そして、その一冊だけでなく、それに反対するような意見を持つ本も読んで、自分の中で整理していく。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34532)
回答No.1

白黒はっきりする証拠が出てくれば、明らかになったほうが正しいとなりますね。 ただそういうものは全体としては稀で、時代と共に定説が変わるということはたまにありますね。例えば、桶狭間の合戦は昔は迂回奇襲説が定説でしたが、今は正面強襲説が定説で、迂回奇襲説はほとんど省みられていません。 日本古代史においては、平成以降に新発見が相次いだことと、旧石器捏造事件によって実証主義が主流になったので教科書が大きく書き換わることになりましたね。 かつての古代史学界というのは権威主義だったので、発掘の事実が日本書紀と矛盾していても「発掘している事実のほうがおかしくて、日本書紀に書いてないならそれは事実ではない」とされていましたからね。 それが実証主義になってタブーが取り払われたので、文字による資料が残っていないせいもあって敷居が低い百花繚乱の世界となりましたね。

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