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平泉の歴史とその可能性について
- 平泉の黄金と財力を持つ奥州藤原家が、若く健在な秀衛の存在によって、頼朝との戦いで苦戦する可能性を考えてみました。
- もし秀衛が生きていた場合、彼らは頼朝に対抗するための戦略をどのように立てたか、歴史に詳しい回答者の方々に教えていただきたいです。
- また、奥州藤原家の兵力や財力についても、太平記などの記述に基づいて考察してみたいと思います。
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質問者が選んだベストアンサー
正面からやりあえばまず勝ち目はない。 奥州藤原氏の動員兵力10万とも17万とも言われるらしいが、当時の東北地方の人口から言ってこれは過大に過ぎると思われる。 実際、奥州の開発が進むのは戦国末期からであり、それまではほとんどが未開の原野。 例えば仙台平野などは北上川の氾濫原であり、ひたすら荒れた湿地が続いていたらしい。 米などの作物の生産量はたかが知れており、10万もの大兵を支えるほどの備蓄ができたかは極めて疑問。 金の産出などから確かに豊かであったらしいが、それとこれとは別物と考える。 それが証拠に、源氏が体制を整えて攻めてくると、藤原政権はあっさり崩壊した。 さて、ではどうやって戦えばいいかだが、これはもうこれしかない。 焦土作戦。 未開の奥地に引き釣り込んで、冬将軍のご登場を待ちます。 あとは地の利を活かしてゲリラ戦法。 東ヨーロッパのどこぞの国が得意だったな ・。・; PS: 多分に推測で書いています。
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- toshineko
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この場合、地の利を生かして進軍してくる頼朝軍を、 各個撃破していくのが最も理にかなっていると思われます。 谷間で待ち伏せ、間道を伝い敵の後方へ回り込む、盆地へ誘い込むなど・・・ 関東の武士は、平野での戦いには慣れていますが、 山間地での戦にはやや不慣れだと思います。 また、独自に宋などと海外貿易を行っていたので、船戦は上手だったと思われます。 頼朝軍の後方へ船で軍勢を上陸させ、挟み撃ちにするという手も考えられます。
お礼
返事がおそくなりすいませんでした。 このたびの回答ありがとうございます。 提案していただいた戦略は私も有効だと思います。 どこかの本にも記述されていましたが、義経が秀衡に進言した戦略、 平泉軍を三手にわけて、主流を白川関から、国衡軍を越後から北国街道に 進軍させる。 この戦法に加えて、回答者様のおっしゃる水軍を有効に利用する、 常陸の佐竹軍と合流して頼朝軍を襲わせるのもいい良い戦法かなと思います。 また新しい質問をした時は宜しくお願いします。
- 1582
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無理 長い間戦から遠ざかり 数はいるが腑抜けばかり
お礼
返事がおそくなり、すいませんでした。 このたびの回答ありがとうございます。 回答をみて想像したことは、二国間に全く接点はありませんが もしイスラエル軍と日本自衛隊が戦争したら・・・・、 戦う前から勝敗は見えているということですね。
お礼
返事が遅くなりすいませんでした。 このたびの回答ありがとうございます。 藤原秀衡の統治当時の有様が目に浮かぶようです。 焦土作戦・・・そうですね。一つの有効な手段だと思います 無能力者の泰衡は忠衡まで殺害し、自分の延命のために平泉に火を放っただけ、 まったくトップがしっかりしないと国が滅びる典型的な事例だと思います。 個人的になぜか「奥六郡」という単語の響きが好きなんです。 ですから平泉のことが他の人より気になるのです。 回答者様がおっしゃるように、冬将軍を待つのが良い方法かもしれません。