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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:誰が文化の担い手なのか?)

誰が文化の担い手なのか?

このQ&Aのポイント
  • 外国人が文化の担い手になり、日本人の抵抗感や差別感情があるか問われている。
  • アイヌの文化において、製作者の民族や人種はさほど重要ではないとの意見がある。
  • 文化の担い手や民族に関する問題は、現代日本社会で大きな関心事である。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

日本の国技とされている大相撲。その象徴たる横綱は全て外国人ですね。 彼らはその仕来りと、伝統に従って横綱になりました。 特別待遇をされた訳ではなく、我々日本人も受け入れています。「頭」では理解しています。 彼らが日本文化の担い手の一員で有る事は間違いないでしょう。 しかし「心」では違和感がぬぐえないのも本音でしょう。 その一部は「日本人は何をやっているのだ」でしょう。・・・ある種の偏見か。 日本人の若者が大相撲の文化とされる、仕来りや稽古の辛さや、裸で戦うなどを嫌って、 相撲取りに成るのを敬遠している、格好悪い。親も勧めないし。 この文化を継承するためには今や外国人は外せない。。「頭」では理解しています。 しかし、極端に、相撲取り全員がアフリカ系黒人で、しかも日本語を解さず、 フランス語やスワヘリ語等の外国語しか話さないとしたら。 彼らは大相撲の仕来りや、伝統に従って相撲取りに成ったとしたら・・・。 その時でも大相撲は日本の国技、日本文化と言えるのか? 「頭」では理解していても、「心」では納得できないのではないか。 結論のない書き込みで申し訳有りませんが、簡単には割り切れない、少なくとも私には。

noname#222500
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「頭」では理解できていても、「心」では納得のいかないこと、という表現は、多くの日本人の「葛藤」、「ジレンマ」を如実にあらわしているものと思います。 「感性」や「情緒」といった点においては、「納得」がいかないのかもしれませんが、「頭」では「納得」しているわけですから、「心」の次元においても、それを「納得」しなければならないと思います。そこで、「理解」できるかどうかが、これからの日本人の将来を左右するのではないでしょうか。

noname#222500
質問者

補足

*今回の質問につきましては、さまざまな回答、コメントをいただきました。くださった回答、コメントのなかには、アカデミックなものもあり、とても有意義なやりとりができました。今回は、「大衆心理」という点にかんして、kitakanjinさんのコメントをベストアンサーにしたいと思います。

その他の回答 (5)

  • kaxuma119
  • ベストアンサー率29% (108/363)
回答No.6

質問者ご自身は、反知性主義者をこの世から根絶できるとお考えですか? そんなことはできないというのが妥当な回答でしょうし、私もそう思います。 民主主義と全体主義、共産主義、民族主義、宗教原理主義等の反知性反民主主義とを分けるのは、思想や信教の自由であり、言論の自由です。このため民主主義の支持者は、反民主主義的スタンスを採る人々の自由も守らなくてはなりません。ヴォルテールのいうところの「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利はあくまで守る」原則があるわけで、この結果、民主主義体制下には必ずや反知性反民主主義的グループがいくつも存在することになります。私は彼らの存在は、民主主義の負わなければならない荷物だと考えています。 さて石原慎太郎や田母神俊雄を見ればわかるように、彼らは活発に意見と立場の表明を行いますが、普通はある程度以上の勢力を獲得するには至りません。多くの人々が彼らの危うさと愚かしさを察知できるからです。ただ注意すべきは、反知性反民主主義的コアを持ちながらうわべは民主主義を尊重しているかのような言葉を操り同時に煽動的なキャッチコピーを使い、実動として思想や信教の自由、言論の自由を狭めていくような狡猾なリーダーの登場でしょう。典型的なのはいうまでもなくヒトラーでした。 ここに自由主義民主主義知識人の責任が問われるでしょう。知識人はその知性と言論と行動力でもって、ヒトラーのエピゴーネンたちが力を蓄える前に見つけ出し化けの皮を剥いで議論で打ち負かす必要があります。自由主義民主主義政治家にも責任があります。社会が閉塞感や疎外感に満ち経済的困窮者が増えるほど人々は「自由からの逃走」をはじめます。社会の開放性を保ち人々に精神的経済的安定性を保証することが、反知性反民主主義の蔓延阻止には特効薬です。

noname#222500
質問者

お礼

>ここに自由主義民主主義知識人の責任が問われるでしょう。知識人はその知性と言論と行動力でもって、ヒトラーのエピゴーネンたちが力を蓄える前に見つけ出し化けの皮を剥いで議論で打ち負かす必要があります。自由主義民主主義政治家にも責任があります。社会が閉塞感や疎外感に満ち経済的困窮者が増えるほど人々は「自由からの逃走」をはじめます。社会の開放性を保ち人々に精神的経済的安定性を保証することが、反知性反民主主義の蔓延阻止には特効薬です。 興味深い指摘だと思います。 コメントありがとうございました!

  • kaxuma119
  • ベストアンサー率29% (108/363)
回答No.5

まず「文化」とは何であるかを問わなくてはならないでしょう。 普通に考えると儀式や建築の様式、言語、美意識、音楽、食事などが混然となったものです。通してみると価値の体系です。人間は個人個人が価値観を備えていますが、精神分析学者の岸田秀はそれを私的幻想と呼び、私的幻想が共有化されたものを共同幻想と呼びました。「文化」とは、まさに共同幻想です。 この見地から明らかなのは、文化の担い手は共同幻想にかかわっているすべての人々です。どこぞの了見が狭い議員も、外国人の板前だって気にしない人も担い手です。 了見が狭い議員や外国人板前に違和感を覚えるような人は私的幻想の許容域が狭い人々です。多くの場合、そのような人々は特定の様式だけが価値があり、それ以外は価値が劣るあるいは無価値だとか有害だとかの教育(この場合、思考力やスキルではなく価値体系の植え付け)を受け入れた人たちです。 こう書くとわかりにくいですが、平たく言えば、大学は東大じゃなくっちゃとか、車はベンツじゃなくっちゃというような特定の価値観に拘泥してしまっているわけです。大学や車なら笑い話ですが、それが諸事にわたるとそうそう笑えなくなります。彼らは自由に価値観を築くことをやめて既存の価値体系に人格を委ねてしまってるわけです。自由に価値観を築くには個人個人が孤独や責任を受け止めなくてはならないんですが、その厳しさに耐えられなず権威に迎合したのです。 人間は多かれ少なかれ権威に従う部分があるものですが、特定の権威を絶対的なものとして盲従する人か、権威を相対的に捕え、様々な価値体系の中で自分の価値体系化を育てる人かの違いは大きいです。 さて共同幻想は実態があるわけではなくその参加者個々の幻想とともに変わっていくものです。民族も共同幻想です(日本人、中国人、朝鮮人を区別できる生物学的違いなどない)。共同幻想はある程度の自己同一性を維持できなければ霧散してしまいますが、自己同一性を追究し始めると行きつく先は民族浄化だマイナリティのだというナチズムです。 以上のような考察からして、私は文化の担い手はやりたいものが好きにやればいいと思っています。資格も○もありません。偏屈な権威主義者が現れ必ずや異議を唱えますが放っておけばいい。やりたいようにやった結果や流儀が多くの人に受け入れられ継続的なものになるなら、それが正当な文化の継承者の証です。

noname#222500
質問者

補足

とてもていねいなコメントだと思います。ありがとうございます。 さて、 >了見が狭い議員や外国人板前に違和感を覚えるような人は私的幻想の許容域が狭い人々です。 >特定の権威を絶対的なものとして盲従する人 こういった人々が「市会議員」になることに、問題意識をもつ人々は多いとおもいますが、現在の日本社会において(ほかの社会においても問題化しているところはありますが―たとえば、アメリカ社会におけるる、進化論にたいする<懐疑>的見解、など)、反知性主義が存在し、社会問題化していることについては、どのように受けとめているのでしょうか。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.4

No.1 gouzigです。 お礼コメントの「日本料理にナンプラーやコチュジャン、石焼ビビンバスタイル、さらには、コーラやビールを食材として活用しましたが、そういったものは、あなたにとっては理解しがたいものなのでしょうか?」 食べてみて美味しければいいと思いますよ。 また「外国につながりをもつ日本人であっても、日本で教育を受け、あるいは、日本語を母語としたり、日本文化に慣れ親しんでいる人々も、日本人であるという見方につながるのではないかと思います。出自や血よりも、日本のことをどう思っているのか、日本のことをどう考えているのかといった観点こそ、誰が日本人なのかという議論においては、とても重要な要素になるのではないでしょうか」 それでいいと思いますよ。何も問題ありません。 そういう考えが国際的にはスタンダードだと思います。

noname#222500
質問者

補足

コメントありがとうございます。 あなたのおっしゃったことは「正論」であると思いますが、いろいろと「事情」がありまして、あなたからのコメントを拝見したことで、何かしらのことを学んだり、感銘を受けたり、納得したりということは、しばらくのあいだ、そういったことは「ありえない」と思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.2

スイスのローザンヌ国際バレエコンクールといえば、若手バレエダンサーの登竜門として国際的評価も高いコンクールです。近年、このローザンヌ国際バレエコンクールで入賞したり1位をとる日本人バレエダンサーが相次いでいます。 このコンクール出身で最も有名な日本人バレエダンサーは、熊川哲也さんでしょう。彼は世界でもトップクラスの評価を受けるダンサーというだけではなく、古いバレエやその曲の収集や再発見についても積極的に取り組んでいることでも有名なんだそうです。 バレエといえば、ヨーロッパの文化であることに異論はないでしょう。熊川さんは、そんなバレエ文化の「担い手」といえるかというと、いえるでしょう。日本人がバレエ文化の担い手となってはいけないという決まりはありません。 もちろん、ヨーロッパでも熊川さんを始め日本人が次々と頭角を現す現状を嘆く声がないわけではありませんし、揶揄する声だってあります。パイオニアとして海外に出ていったダンサー達は数々の差別や嫌がらせも受けました。 しかしそういった中で、自らの努力と実力で周囲を認めさせてきたわけです。 日本人が認められているのは、バレエだけではありません。クラシック音楽界においても、日本人が数多く頭角を現しているそうです。小澤征爾さんの世界的評価について異論を差し挟む気は質問者さんにもないでしょう。五嶋みどりさんに関しては、クラシックファンにその名を知らぬ人はいないといわれるほどです。 日本人がクラシック音楽文化の担い手になってはいけないのでしょうか?そんなことはないはずです。 そもそも文化は、違う文化と出会うことによって化学反応が生まれます。ヨーロッパ人がイスラムの文化と触れることによって自分たちの祖先が持つ文化の再評価運動となってそれがルネサンスとなりました。絵画では、西洋画の写実主義が行き着いた先にアフリカ文化などの影響を受けてキュビスムが生まれました。クラシックから続く白人の音楽と、黒人音楽のリズム&ブルースが融合してロックンロールが生まれました。文化は異文化と出会うことで進化するのです。 >誰が文化の「担い手」なのか 担い手となる自覚と責任感を持った人すべてが担い手となる資格があるのです。変わることを受け入れられない文化は衰退します。伝統を引き継ぎながら、新しいものを創造する。それこそが芸術の本質だと思います。

noname#222500
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 残念なことに、この、某市会議員は、あなたが言わんとしていることが、まったく理解できないのです。そこに、わたしは強い問題意識をもつようになりました。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.1

とてもいい質問ですね。 深い思考を求めていると推察します。 おじさんです。 外国人の板前、私はその内容次第だと思います。 外国人であっても、日本の板前からその真髄を学び、承認されたのであれば喜んで食べます。 私はインドカレーが好きです。 特に南インドのチキンカレーです。 首都圏に日本人の奥さんをもつインド人のカレー店があります。 ここのカレーは美味しくありません。 その理由は、奥さんの影響なのか、日本人の舌にあった日本のカレーになっているからです。 これではインド人が作っているにも関わらず、インドカレーではなくなっています。 アイヌ工芸品もそうでしょう。 アイヌの血をひくアイヌ人でも伝統の真髄を失っていれば工芸品ではありません。 一方、日本人であっても、伝統の真髄を受け継げば立派なアイヌ工芸品でしょうね。 つまり、血ではなく伝統の真髄を受け継いでいるか否かでしょう。

noname#222500
質問者

お礼

>外国人の板前、私はその内容次第だと思います。外国人であっても、日本の板前からその真髄を学び、承認されたのであれば喜んで食べます。 その通りだと思います。外国人であっても、日本の文化に深い理解を示し、その真髄を学んでくださった人々の料理であれば、日本人のみならず、多くの人々に支持されることと思います。わたしが気になった点は、あなたが「承認された」という言葉をつかったことです。以前、日本政府が日本料理の「スタンダード」を定めようと、海外にその知らせを発信したところ、海外の識者などから厳しい批判を浴びました。あなたのお考えになる「承認された」とは、どういった日本料理のことを指すのでしょうか? たとえば、あなたにとって、森本正治氏のつくる日本料理は、日本料理として認められない、ということでしょうか? 彼が日本のテレビに出演したとき、寿司に関連する料理をつくり、その料理(たとえば、酢飯でリゾットをつくる、など)を岸朝子氏が「このようなかたちの日本料理があってもよい」というコメントをしました。彼の料理については、アメリカのマスコミなどによって、「新・日本料理(Neo Japanese Cuisine)」といった位置づけがされることが、たびたびありますが、あなたにとっての、日本料理の「かたち」とは、どういったもので、どういった「かたち」のものが、「承認された」ものになるのでしょうか? たとえば、森本氏をまた例に挙げますが、日本料理にナンプラーやコチュジャン、石焼ビビンバスタイル、さらには、コーラやビールを食材として「活用」しましたが、そういったものは、あなたにとっては理解しがたいものなのでしょうか? >つまり、血ではなく伝統の真髄を受け継いでいるか否かでしょう。 こういったことは、たとえば、外国につながりをもつ日本人であっても、日本で教育を受け、あるいは、日本語を母語としたり、日本文化に慣れ親しんでいる人々も、日本人であるという「見方」につながるのではないかと思います。「出自」や「血」よりも、日本のことをどう思っているのか、日本のことをどう考えているのか、といった観点こそ、誰が日本人なのかという議論においては、とても重要な要素になるのではないでしょうか。

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