- 締切済み
花はなぜ綺麗なのか
概して、人間の感覚器官は、自らの生命を維持するために必要なものを「よい」と判断するようになっています。だから、食べ物を見て美味しそうと感じたり、マッサージを受けて気持ちいいと感じたりすることは、「人間が自分の生命を維持するために必要だから」という理由で納得できます。 さて、ふと目に入った花をみて「なんて綺麗なのだろう」と思ったことは誰しも経験することですが、その理由がわかりません。 何にでも意味や理由を求める態度は野暮だとは思いますが、敢えて聞いてみます。みなさんはどう思いますか、教えて下さい。
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花は、ずっと長い歳月を、四季の間に渡りきり、その頂点の一瞬において、咲く。 故に、花の姿は唯一無二。 そして花は、新たな種にその瞬間を宿し、枯れて行く。 花の咲く瞬間は、その花がその花であることの、唯一の瞬間なのではないでしょうか。 故に、人間に花は、美しく映る。 何故なら人間も、唯一無二である事を目指して、生きているから。
- mimar-sinan
- ベストアンサー率28% (19/67)
はじめまして、偶然この質問にたどりつきました。哲学も進化論もワカリマセンですが、おもしろそうなので参加させてください。 花は何故綺麗なのか。それは人間ではなく植物の進化の結果かも~? という仮説を考えました。 ◆Q&Aを読んでいて、【花が美しい植物】=【実がおいしい植物】のケースは少ない(主観 100%)と思いました。もしかして【花が美しい植物は実がおいしくない】ことがポイントなのでは? ◆実(とくに果実?)がおいしい事のメリットは、鳥や動物が食べてくれることでしょう。動物の身体に乗って移動し、遺伝子ミックスのバリエーションを増やすことができます(発芽もしやすくなるし)。 ではおいしくない植物は?オナモミ、タンポポなど独自の戦略を獲得した種類のほかは、自力で動くことができないため、親近交配になりやすくなる。ピンチ。 ◆そこで出てきた武器こそ「美しい花」だったのです?! 人は美しい花を見た時、しばしばその花を摘むという行動を取ります。が、最初は摘んで飾って贈ってオシマイだった人間も、しだいに、自宅の庭先に植えよう、花で儲けようと、種をまき、株を掘り、さらには品種改良までしてくれました。 結果、美しい花はより(人間にとって)美しくなり、 美しくもおいしくもない種類は淘汰された。 ―――――――――――――――――― 以上です。 自分で言うのもなんですが、弱いですね。 「人間は元々、花を綺麗だと感じていた」 っていう前提が必要だし。。。 例外も(かなり)多いですね(笑)! ツッコんで下されば喜びます。
お礼
御回答ありがとうございます。 一つ目の主張はデータがないので何とも言えませんが、それ以下については、「現在に綺麗な花が多く生き残っている理由」としてmimar-sinanさんに同意します。 ただ、自分の疑問点はそことは少しずれています。 「おいしい」とか「気持ちいい」などの好意的な感覚や感情というのは、生命の維持に役立つもの(体の栄養になる、血行がよくなる、など)との関係が見出し易いものが多いのですが、好意的な感情の一つである「美しい」はそれが見出しづらいものが多々あります。もちろん、人の感覚や感情のすべてに意味や理由があるとは限りませんが、多くの人に好まれる花ならばあるかもしないと思いました。mimar-sinanさんの回答は花が(より)美しくなった理由にはなりますが、花が多く人の目に「美しいもの」として映る理由にはならないと思います。 また、「人間は元々、花を綺麗だと感じていた」というのはただの推測ですので、なくして構わないです。美的感覚は経験によって成熟の度合いが違うようですし、多くの人が花を綺麗だと思うことだけでも自分にはとても不思議で興味深いものです。
まだ開いてたのでおじゃまします~。花は生殖器な訳ですが(いきなり恥)目的の達成も実に合理的に出来ていて羨ましいから?憧れるから?そんな姿になることを人間のままで憧れたりはしないけど、潔いですなって!? 人生で花を咲かせようとするのには失敗を繰り返し苦労して憂いで無駄ばっかりして、それでいてその代償分が必ずや報われるとも確立が高くなるとも言えない。実に不合理な存在が人間だと思います。やっとこさ咲いても勘違いだったりする(爆疲)。 花の美しさは自分で咲かせていることで無駄がない、無駄な意地もない。生産性が良過ぎて人間は悔しいから、その恩恵に同調したいのかな? 綺麗は罪…。ひっそりと咲いていたくても、人間に見つかると人間は原罰を背負うのです。罪があるから綺麗です。罪を知らずにいたいとすれば試されることは避けなければいけない。けれど、それでは魅力がないのと同じになる。 花がクスクス笑ったらもっと罪な気がします(笑)。 いやしかし、一緒に爆笑できたら面白いですよね(笑)。 魅せて笑いも取れる花!? オセロ(漫才師コンビ)の御二方を近くで見たことがあります。本当に綺麗でした。華がありました。 そうか人間も自分で華を持ってる人いるんでしたね。 まとまらなくてすみません。では失礼します。
お礼
すいません、お礼が遅れてしまいました。御回答ありがとうございます。
補足
自分が花を綺麗だと思う時、花が生殖器であることが美しさと関係しているとは思いませんが、美しさと合理性には何らかの関係があるように思います。ある実験で、様々な人の「顔の形や位置」の平均をコンピューターを用いて出力すると、整った顔が出来上がるそうです。この場合はバランスが整っていることが美しさと関係していますが、同様のことが花の美しさにもあると思います。荒廃した土地よりも、調和のとれた自然に多くの花が咲くことから、人は花の姿に無理のない綺麗な流れのようなものを感じているのかもしれないですね。 私には人に原罪があるかどうかはわかりませんが、人が人であるために罪に対する感度は必要だと思います。「美しさ」と「罪」に共通なことは、両者とも「侵さざるべきもの」であること。私は花をむしることに罪を感じますが、花はその形を失っても、枯れてしまっても、その美しさを人の心に留めてくれます。手で触れたつもりでも、侵したつもりでも、美しさには触れられない。それゆえ、「美しさ」は心の中にありつつも、触れられない「侵すことができない」ものなのだと思います。もし、「美しさ」と同様に「罪」に対しても「侵すことができない」と感じることができたなら、ある意味で美しい、ある意味でグロテスクな人間になってしまいそうです。花にはまだ自然の香りがしますが、「罪」にはまだ人の手垢が残っていそうです。それはそれで味わいがありますが。 私は花の笑い声はなるべく聞きたくないです。 花の美しさは、人とかけ離れていることにも由来すると思うので、人がどうしようもない喜劇を演じていようとも、人から隠れたところでオホホとやってもらいたい。幸い、今のところ慎ましい花ばかりで嬉しいかぎりです。 華のある人には、なぜ「華」があるのか。私はNo.29のお礼で炎と花の相似について書きましたが、華のある人は何かエネルギーのようなものを放射しているような、向こうから呼びかけるような何かがあるように感じます。存在するだけで価値があるようで羨ましいですね。華のある身になれないならば、いっそ自分に火を灯そうか。危ない、危ない。美しいものは見られて初めて美しい。良き鑑賞者となり、華に華を添えて満足することにします。
又おじゃまします。回答を一通り読みました。重複した回答内容があって蛇足でしたね。でも諦めない(←何を、笑) >花にあって、人にないものがある。逆に、花から人を見れば、人だけが持つ美しさというのはあるだろうか ↑は、あるかもです。「星の王子様」の中でバラは「人間は根っこがないから不自由で可愛そう」なことを言ったと思います。根っこがある花は「ここが最上の場所」と予見して留まって居れるのでしょうね。人間は想像力があっても未来を予見できませんからウロウロします(おかしな事書いてるようですが・取り敢えず聞いて下さい;)。 つまり花には人間が儚い、寂しい、哀れな存在に映るのです!? だから「綺麗」ですねと慰めて居てくれてます。 花を摘んだり、飾るのは人間の欺瞞そのものなのですが、花は絶対人を恨んだり妬んだりしません。悟って居られますから!? >人が花に魅せられていることが花に喜びを与えていればいいなと思います。 ↑花には視覚も聴覚も理想もないと思いますが、波動は感じるそうです。きっと感じてくれてると信じます。エゴイスティック(欺瞞)であっても、「魅せらちゃった、綺麗だよ」と精一杯の演技をしなければなりませんね。それしか責任能力の果たし方がありません。 演技力までバカにされるのも人間として悔しいですし。 bofdさんがお話の弾む方(誠実な人柄ですし回答を読んでも勉強になります)なので、つい余計に回答してみました。失礼しました。
お礼
>「星の王子様」の中でバラは「人間は根っこがないから不自由で可愛そう」なことを言ったと思います。根っこがある花は「ここが最上の場所」と予見して留まって居れるのでしょうね。 確かに、花から見れば人間は「根なし草」ですね。自らの欲に右往左往して、ウロウロと動き回り、ベッドの上で儚い安住を得る。まったく哀れに映っていることでしょう。花が慰めに「綺麗」と言う前に、私は自らコメディアンと名乗り、人生を儚いギャグに例えます。美しきギャグで花を笑わせてやりましょう(笑)。 >花には視覚も聴覚も理想もないと思いますが、波動は感じるそうです。きっと感じてくれてると信じます。エゴイスティック(欺瞞)であっても、「魅せらちゃった、綺麗だよ」と精一杯の演技をしなければなりませんね。それしか責任能力の果たし方がありません。 花が大地に根を下ろすのが自然であるように、人が綺麗な花を摘んでしまうのも自然であるような気がします。これまた、エゴイスティックな自然ですが、どちらも同じものの一つの現れであることを願います。
補足
再度の御回答ありがとうございます。
初めまして。おじゃまします。どうぞよろしくお願いします。 傍観者の探し得る最高のもの、自己保存本能を越えさせる情動に「美しい」と感じるのだと思います。 無心で健全な花の姿は誇らしさを感じる。立派だと感じずには居れない。 そして愛着を持つけれど、花のその美しさは一時的で儚さを感じると暢気に眺めるだけで居れなくなる。悲しくなってくる。悲しいのにその他の何物も犠牲にしないで散る姿に調和と最上を尽くした喜びを我等に与える。 ・・人はあらゆる場面で、儚い悲しい寂しいものを慈しむ。花の姿のように微笑みを送る。感謝を送る。人間の感性に醍醐味があることを花は象徴として教えてくれていますね。 回答とお礼(しかし沢山書かれてます!)にまだ目を通してませんのですし、哲学は興味があるだけで学問として納めてない素人ですので(言い訳しとかないと;)おかしな回答だったらすみません。
お礼
こちらこそ、よろしくお願いします。 >傍観者の探し得る最高のもの、自己保存本能を越えさせる情動に「美しい」と感じるのだと思います。 生命を維持することだけでなく、それ以上の何かに美を感じるということですね。花自身はただ生きているだけなのに、それ以上のことを人は見出してしまう。花にあって、人にないものがある。逆に、花から人を見れば、人だけが持つ美しさというのはあるだろうかと考えさせられました。 >人間の感性に醍醐味があることを花は象徴として教えてくれていますね。 本当にそうですね。「花が美しくあること」は人が求めたことだと思いますが、人が花に魅せられていることが花に喜びを与えていればいいなと思います。ちょっとエゴイスティックではありますが。 参考になりました。御回答ありがとうございます。
- aian
- ベストアンサー率0% (0/0)
美術をやっています。 <美しい>を感じる機会は多いのですが、なぜだか 考えてみると難しいですね。 bofdさんは花は生命を維持する為に必要ないとお考えのようですが、 私は<美しい>は人間の生命を維持する為にかかせない感覚だと 思っています。 <美しい>は喜怒哀楽などと同類の 創造のプロセスのひとつで、 人間特有の <<何もない所から何かを創り出す>> 能力の 重要なキーカードなのではないでしょうか。 <<創り出す>> といっても、科学技術等のような物質的な快楽を 生み出すものもあれば、芸術等のような精神的快楽を生み出すものも あるわけですが <美しい> は主に後者を創造するために役にたつのではないでしょうか。 ミジンコのような脳ミソのちっちゃな動物は物質的快楽だけで満足 なわけですが、人間はなぜか欲求として精神的な快楽も求めてしまいます。 なぜか、簡単に言えば((頭をたくさん使う動物だから))です。 この部分を詳しく知りたい場合は <<人間はなぜ感情を持つんですか>>とかいう感じの 質問をして頭の良い人に説明してもらう必要があります。 ーーーーーーーーーーーーーーーー なんか回答になってなかったらスイマセン あと、下の方に同じような回答があったらスイマセン なんか気分で書いてしまいました・・・ こういう考えかたもあるんだなあと思っていただければ
お礼
>bofdさんは花は生命を維持する為に必要ないとお考えのようですが、 花を見ることで気分が明るくなり、ストレスが減るということもあるので、花が美しいことが生命と全く関係ないとは思わないのですが、花が美しいことが人にいい影響を与える理由は掴みづらいと思いました。 >人間特有の <<何もない所から何かを創り出す>> 能力の 重要なキーカードなのではないでしょうか。 花を描いたものや、花にインスパイアされた作品も数多くありますね。美しいものを求める感情がもっと多くの人に強く発現したら、食欲と同じように「美欲」なんて言葉ができるかもしれないですね。薀蓄(うんちく)博士が薀蓄は脳のおやつと言っているのを聞きましたが、さしずめ「美しいもの」は脳のデザートといったところでしょうか。苦そうなのもありますが(笑)。 参考になりました。御回答ありがとうございます。
どうして花は綺麗なのだろう と 想ってみると、泣きそうになるのは何でですか? だけれど、「あ、泣きそう」と思った瞬間、涙は止まってしまう。 沁みるんです。 手に包んでみたい。 花は素晴らしい。 華道が存在するのは、花が綺麗と思う理由と、とても近いと思います。花を慈しむ心を追求することで、道を歩むのだと思います。 人の感覚能力は優れています。 脳が大きいのは、感覚することが余りにも優れているためだと私は思います。 花の美しさが、悲しすぎる程に、自らをいざなうを、花の美しさに、導いてもらっているのだと思います。 しかし、あっ、と、気付いてしまうのです。 私は何処に行こうとしたのかと。 だから私は悲しいのだと思います。 花が綺麗なのは、我々が、我々でなくなるところに、在り方を望む生き物であるからです。 我を忘れて 花の美しさに身を投ずれば 当て所もない感動に自らが変わり果て、帰るところを失ってしまう。 水底の 石と生まれて 見上げれば 空に浮かぶ 花の美し 尊いからではないでしょうか。 花の美しさが、近寄りがたい魂の在り処に共鳴するから。 模倣、メタモルフォゼス、変身、そのような具象、抽象行為にとどまらない、遠い境地を、間近に見たような気がするのです。花の美しさを想うと。
お礼
お礼が送れてしまい、すいません。御回答ありがとうございます。 >花が綺麗なのは、我々が、我々でなくなるところに、在り方を望む生き物であるからです。 我を忘れて 花の美しさに身を投ずれば 当て所もない感動に自らが変わり果て、帰るところを失ってしまう。 共感します。美しいものを見ていると心をもって行かれそうになります。許容範囲を超えた何かを感じ、つい目をそらしてしまう。手に入れたいのに、触れてはいけない感じがします。 >尊いからではないでしょうか。 花の美しさが、近寄りがたい魂の在り処に共鳴するから。 尊さ、近寄りがたい魂の在り処、私はこれより奥に踏み入る言葉を持ちません。しかし、それに触れたい。居ながらがらにして空を飛ぶ。まるで禅問答のようなことを欲しているのだと思います。「よく目に触れる」という意味では近いのに、決して届かない。月のありように似たものを感じます。
- truth77
- ベストアンサー率37% (85/225)
>花を綺麗だと思う理由は、生命の存続とは他の理由ではないかということですね。その可能性もあると思います。 はい、その「他の理由」によって、花を「よい」としてあるから、「綺麗だ」と評価するのではないかと思うのです。 >本質的なものほど、理由を知るのは難しくなるような気がします。 そうですね、哲学や科学で本質的なものを説明しようとすると難しくなりますね。
お礼
ご意見ありがとうございます。 私も宗教的な観点から考えることもできると思いますが、今回はあえてそれ以外の観点から考えてみました。貴重なご意見参考にさせてもらいます。
- truth77
- ベストアンサー率37% (85/225)
私としましては、この種の問題は、聖書にイエス=キリストが語ったと書かれている「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉が浮かんで来るのです。 私はこの言葉は、「人が生きるのは、肉体的な生存の存続のためだけではなく、違う目的も持って生きているのである」という意味で言ったのだと解釈しています。 私のこの解釈が、ある程度的を得ているとするならば、前回私が#59で取り上げました様に、「肉体的な生存の存続」に関することに人間の生存の理由全てを当てはめようとしても、どこかで無理が生じて来ることを申し上げたかったのです。 質問者さんは#50の回答のお礼にて >やはり、この疑問を考えるには「美醜」という価値観の構造を知る必要があるようです。 >「美しい」というのは、誰もが感じることのできる感情なのに、その本質的な理由を言葉にするのは難しい。 と書かれておりますが、私は「美醜」という価値観は、宗教的分野に該当して来るものではないかと思うのです。 哲学や科学にて宗教的分野を解説して行くのは、とても難解なことの様に思えるのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「人が生きるのは、肉体的な生存の存続のためだけではなく、違う目的も持って生きているのである」 花を綺麗だと思う理由は、生命の存続とは他の理由ではないかということですね。その可能性もあると思います。 >哲学や科学にて宗教的分野を解説して行くのは、とても難解なことの様に思えるのです。 同感です。本質的なものほど、理由を知るのは難しくなるような気がします。
- hyuhyuhyu
- ベストアンサー率0% (0/15)
読ませていただきました。 >自らの生命を維持するために必要なものを「よい」と判断するようになっています と断定されていますが、これは誰の意見でしょう。今までこういう事は聞いた事がありません。一つでも例を見せて下さい。「牛」をよいと判断しないのは何故ですか?例外と逃げずにきちんと説明して下さい。 >人間の感覚器官は、、判断するようになっています。 これは誰の何という論文からの引用ですか?感覚器官は判断しません。少なくとも現代の生理学を学んだものならこの文章が誤りである事は自明です。判断は脳しか下せません。この段の文献をお示し下さい。 >概して、、、 あなたの意見のおかしい所は、自分の意見があてはまらない場合、「例外がある」、「おおむねと言っている」と逃げている所です。 以上より私は、前提自体が間違った論理からはあなたの納得できる答は見出しえないと考えます。
補足
>自らの生命を維持するために必要なものを「よい」と判断するようになっています というのは私の意見です。人の趣味趣向というのは様々ですが、とりわけ多くの人が共通して「よい」と感じるものの多くは生命を維持するために必要なものである考えました。例えば、多くの人は石よりも調理された肉の方が美味しいと思うだろうし、粉塵が多く混じった空気よりも澄んだ空気の方が気持ちいいと感じると思います。この「よい/わるい」と、生命維持に「役立つ/役立たない」の対応関係が一致する場合が多いのでこのように考えました。あくまでも、事象の対応関係による推測です。過去には食べられないものを美味しいと思う人もいたかもしれませんが、そういう人は淘汰されたのだと思います。体が「生命維持のために必要」かどうかの判断をしているか私にはわかりません。ですからこの前提は、体があるものを「生命維持のために必要」と判断して、それを「よい」と感じるという構造を示しているのではありません。体が行う判断は「よい/わるい」だけだと仮定して考えています。 私の考えに納得されない方も居られると思います。その方は、その方なりの考えを書いて頂ければ結構です。 >「牛」をよいと判断しないのは何故ですか? 私はこのような発言はしていません。人が「よい」と思うもの全てが生命維持に役立つとは限らないと言っただけです。 上手く調理された牛肉ならば、美味しいと思う人の方が多いでしょう(過去に牛に噛まれて牛を嫌いであるとか、宗教で禁止されているなどの経験的な条件を除いて)。調理される前の牛ならば、美味しそうと思う人の方が少ないと思います。その理由は上記の対応関係による推測に基づきます。体が牛肉は「生命維持のために必要」と判断したから「美味しい」と思った、という理由ではありません。 >これは誰の何という論文からの引用ですか?感覚器官は判断しません。 同様のご指摘はNo.28の方にも頂きました。質問文での「感覚器官」という用語の使い方は間違っています。感覚器官は刺激を感知するだけで、判断するのは別の器官だと思います。拙い文章を書いてしまい申し訳ないです。ただ、多くの人が支障なく回答されているようなので、このことが質問の本意を損なうことは少ないと思っています。拙い文章を書いてしまい申し訳ないです。
お礼
すいません。所用によりお礼が送れてしまいました。 >花の咲く瞬間は、その花がその花であることの、唯一の瞬間なのではないでしょうか。 花は自らが咲いているうちは花であるのに、人は自らが生きているからといって人であるとは限らない。私もそう思います。人は絶えず何かが不足している。満たされたと思ったら、新たな欲がひょっこり顔をだす。終わりのない追っかけっこをしているようです。むしろ、追っかけっこをしたいのではないかと、欲を欲しているのではないかと思うこともあります。 やはり、花が持つ時間性は美しさと関係があるように思います。期を熟す、その姿が美しい。一方、人が自らの期を熟すのは難しい。その不足感が一つの暗部となって、まるで輝く花火の後ろに広がる底なしの夜空のように、花の美しさを際立たせているのだろうと思いました。
補足
御回答ありがとうございます。