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前九年、後三年の役

平安時代の前九年の役、後三年の役ですが、これはある出来事の九年前、三年後という意味から名付けられたのでしょうか?

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  • oska2
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回答No.2

>これはある出来事の九年前、三年後という意味から名付けられたのでしょうか? 日本学術会議的な思考で考えると、何かを基準として「前後」がある様に考えますよね。 私も、昔は「何が基準なんだ?」と思った事があります。 が、これには基準はありません。 当初の歴史では、「後三年の役」は無かった様ですよ。 当時存在したのは「12年戦争」でした。 ところが、色々な資料が発見されて「後の3年は、別物じゃねぇ?」との解釈が優勢をしめたのです。 そこで、12年マイナス3年を「前九年の役」残りを「後三年の役」とした次第。パンパン(講談師・神田伯山の様に叫ぶ) 日本は、教育の自由があります。 鎌倉幕府誕生は、1192年でなく1185年になりました。 足利尊氏の肖像画となっていたのは、実は高師直との説が有力視されていますよね。 ※姪の教科書には、「足利尊氏像」ではなくて「騎馬武者像」との説明があります。 まぁ、これからも色んな歴史が変わりますよ。^^;

ponyo7
質問者

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回答ありがとうございます。 やっと疑問が解けました。

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

> これはある出来事の九年前、三年後という意味  ではなかった、と記憶しています。  当時の朝廷というか、その大将であった源氏が東北を支配するにいたる過程に、前後2つの大きな戦いがあって、前のほうはおおむね9年間(実は違うが)戦いが続き、後のほうはおおむね3年戦いが続いたから、前のほうの戦いを「前九年の役」、後のほうの戦いを「後三年の役」と呼んだのだったと記憶しています。  「前九年の役」は朝廷に税金を納めなかった奥州の王者「安倍氏討伐戦」、「後三年の役」は、前九年の役のとき朝廷(源氏)を援助してくれた「清原氏(内紛)制圧戦」でした。  源氏の協力を得て清原氏の内紛で勝った側の清原氏から、平泉・中尊寺で有名な「奥州藤原氏」が出てました(NHK大河「炎たつ」)。奥州藤原氏が庇護したのが、「源義経」です。  義経を(中途半端に)かばったせいで、奥州藤原氏三代目は頼朝(鎌倉幕府)によって滅ぼされてしまいます。  潰れる家はだいたい三代目で潰れます。

ponyo7
質問者

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