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平安時代と江戸時代

奈良時代以降を見ると、平安時代と江戸時代が長く続いた時代のように思いますが、「長く続いた理由」として、この二つの時代が他の時代とは異なる共通点はあるでしょうか??? それと、両時代とも長くは続いたが、平安時代と江戸時代は、長く続かせる手段・方法、時代背景などとして「ここがまったく異なる」というものはあると思うのですが、それを教えて下さい。 それと、平安時代と江戸時代が終わるとき、「時代の終焉」としての共通点、あるいは時代の終焉を示唆するような共通の出来事みたいなものはありますか???

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回答No.6

>「長く続いた理由」として、この二つの時代が他の時代とは異なる共通点はあるでしょうか??? 時の為政者(平安時代=朝廷・江戸時代=江戸幕府)が組織的な自己改革を行うだけの柔軟性と財力を持っていたことが体制を長く維持できた要因と思います。 いずれも組織が硬直化するとともに衰退していきました。 >「ここがまったく異なる」というものはあると思うのですが、それを教えて下さい。 平安時代の朝廷というのは世界史的にも希有な軍隊を持たない政権でした。 末期に現れた源氏も平氏もいわば戦争請負人でした。 これに対して江戸幕府は武家が政治を司る軍事政権でした。 民政はすべて被支配者である百姓、町人の自治組織に委託していました。 >平安時代と江戸時代が終わるとき、「時代の終焉」としての共通点、あるいは時代の終焉を示唆するような共通の出来事みたいなものはありますか??? 朝廷の建物に入ることも出来ずに縁先で土下座する身分(侍=さぶらふ者)だった平清盛が雲上人となって一族が源氏に討たれて平安時代の幕を下ろしました。 260年間幕政に参画できなかった外様大名の更にその下級家臣であった武士が中核となって江戸幕府を終わらせました。 いずれにせよ日本では諸外国とは違い同一身分内での権力の争奪戦でした。 明治革命と言われずに明治維新と呼ばれるのはこのためです。 注)明治憲法(大日本帝国憲法)には皇族、貴族(侯伯爵)士族、平民と江戸時代同様に身分制度がありました。四民平等などというのはスローガンだけで実態はありませんでした。 どちらの時代も末期には為政者の財力が枯渇していました。 平安時代は荘園の発達で天皇家に入る租税はごく僅かでした。 江戸幕府を支えていた大名は町人からの借金のかたまりでした。 幕府の御金蔵も空になっていました。

noname#238475
質問者

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私の質問に沿って、簡潔にご回答いただきありがとうございました。ボンクラ頭にすんなりと入ってきました。 平安時代の朝廷というのは世界史的にも希有な軍隊を持たない政権でした。……「元寇」が鎌倉時代で良かった。もう少し早かったら(T_T)(T_T)(T_T)……「れば」、「たら」は歴史には必要ないかなぁ。「歴史の事実」から何も学ばないのであれば、「れば」、「たら」も必要ではないかという気が最近してきました。(*^_^*)(*^_^*) 四民平等などというのはスローガンだけで実態はありませんでした。……「天は人の上に~~」、福沢諭吉はもともと大嫌いだが、ますます嫌いになりました。早く1万円札から消えてしまえ。 どちらの時代も末期には為政者の財力が枯渇していました。……「金の切れ目」は「縁の切れ目」だけじゃないんですね。(*^_^*)

その他の回答 (6)

  • IXTYS
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回答No.7

こんにちは。  良い質問ですね。 長く続いた理由 どちらも鎖国状態にあった。  平安時代当初、形式上は遣唐使の制度は残っていましたが、形骸化していました。 9世紀末、菅原道真はこれを廃止し、日本は鎖国状態に入ります。  鎖国とは門戸を閉ざすことで、弊害が取り沙汰されます。  しかし、弊害ばかりでもありません。  その分、国内の固有文化が爛熟する契機にもなります。 ● 平安時代の女流文学が花開いた。   ● 江戸時代は大相撲、浮世絵、歌舞伎と固有文化が豊かに花開いている。 しかし、この固有文化も外圧によって衰退を余儀なくされたのです。 ● 12世紀の中庸に入り、源氏、平氏と武士が台頭して権力者の地位を奪い去って行きます ● 19世紀欧米列強による帝国主義の荒波が世界を飲み込んでしまいます。 それでも日本の若手の武士たちは世界の進歩に柔軟に対応。  時代の波に巧く乗ります。  広くアジアを見渡しても列強と巧く付き合えたのは日本とタイ国だけ。   他の国々は列強の策略に乗り国内を分裂させてしまいます。 日本の武士たちは19世紀の世界の流れを実に良く勉強していたと思います。  特に極東の清国や李氏朝鮮が国内の権力闘争にばかり捉われ、国を滅亡させたのと対照的です。 これは21世紀の現在にも言えること。  中国と朝鮮半島は自分たちの身の振り方ひとつまともに出来ない。  いつも自分が中心にある。  自分を捨てることが出来ない。 結局、利用されて身を滅ぼすことになるのです。  『時代の激流を上手に渡り切るコツは身を捨てて激流に身を任せることなのです。』  中国と朝鮮半島は習近平氏の提唱する『一帯一路』に翻弄され、藻屑と消え胡散霧消する運命にあるのではないでしょうか。      

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 どちらも鎖国状態にあった。……他の方のご回答にもありました。 その分、国内の固有文化が爛熟する契機にもなります。……理解できます。が、時代を長く続かせる理由になるでしょうか???それと、日本という国は、いつの時代も、外国から文化を受け入れつつも、それを変化させ、いつの間にか日本固有の文化にしてしまうという器用な側面があるような気がします。……単に漠然とした想いで根拠はありません。 『時代の激流を上手に渡り切るコツは身を捨てて激流に身を任せることなのです。』……ご高説、残り少ない私の人生の参考にさせていただきます。

回答No.5

平安時代も 江戸時代も,ほぼほぼ 鎖国時代,鎖国政策を取っていましたし,国風文化や江戸文化など,国内の華やかな文化などが栄えましたね‥‥‥平安時代も,数々の地方などでの反乱や,天変地異,飢饉や凶作,疫病などは,あったでしょうが,平安貴族達は,和歌や物語,衣装など,かなり華やかな生活を送っていたと思いますし,江戸時代にも,島原の乱や,赤穂浪士,伊達騒動などは,ありましたが,特に,中頃などは,徳川家斉氏などは,子供を50人以上作るなど,かなり,徳川氏は,充実した生活を送っていたようにも思えます..平安時代と江戸時代の政策のやり方の一番の違いは,やはり,参勤交代制度ですかね‥‥‥‥江戸時代の地方の大名達は,これを一番やっかいな行事などだと思っていたのではないでしょうか‥‥‥‥お金も,かなり掛かったようですし,遠方の人は,大変ですよね‥‥‥‥又,平安時代は,貴族の荘園が,たくさんありましたし,天皇の権威なども,けっこうありましたが,江戸時代は,貴族達は,生活を抑えられ,天皇の生活も,制限されていました..結果,長州の毛利氏や薩摩の島津氏など,平安・鎌倉時代などから続く,名門・名家の武家や,京の貴族達などが,徳川氏の弱体化に伴い,徳川氏に反旗を翻したようです..平安時代末などは,天皇家や貴族達などの,激しい家督争いがあり,天皇家の所領や権威などは,武家に取って替わられ,大きな源平合戦があり,平家は,都落ちし,転戦,この時は,源氏が勝利しましたが,江戸時代末や幕末期の争いでは,最終的に,源氏のトップでもあり,最大の権力者の一人でもあった徳川慶喜氏が,都落ち(江戸に逃げ帰る,東下)し,戊辰戦争では,朝廷側の勝利でした..平家は,都落ちの際に,安徳天皇(子供)などを道連れにしましたが,徳川慶喜氏は,会津や桑名藩主や側近達を道連れにしましたね‥平安時代末も,江戸時代末も,戦いや政治の中枢は,京であり,保元の乱や平治の乱などと同じように,禁門の変や,鳥羽・伏見の戦いが起こり,血なまぐさい事件,京の街での人斬りや,寺田屋,池田屋事件などは,鹿ヶ谷の密談・発覚事件での,平清盛氏の西光法師(藤原師光)の拷問や処刑などと重なるかもしれません..又,平清盛氏や以仁王&源頼政氏のクーデターは有名ですが,幕末にも,文久の政変や,天誅組の変,王政復古の大号令など,いろいろクーデター的なことも,起こっているようです..

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 平安時代と江戸時代の政策のやり方の一番の違いは,やはり,参勤交代制度ですかね……確かに、徳川幕府を支えた大きな制度だったという気がしますが、平安時代に、政権を維持するために参勤交代のような制度が必要だったのか、ということや平安時代は参勤交代を可能とするほどに交通網が発達していたのかというようなことも、私には全く分かりません。 江戸時代の地方の大名達は,これを一番やっかいな行事などだと思っていたのではないでしょうか‥‥‥‥そのための制度でしょ。しかし、参勤交代は辛いとは言いながらも、大名の奥方や諸藩の江戸詰の武士たちは、江戸の文化を結構楽しんだという側面はなかったのでしょうか??? 乱、変、戦い、事件……その一つ一つが、時代を変えていくエネルギーとしてマグマのように「血」となって吹き出しているのかも知れませんね。

  • jkpawapuro
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回答No.4

日本は歴史区分を行政の中心地で分けてますが、それで○○時代の長さとするとあまり適切ではありません。 実質的権力をとった王朝なり一族がどこであるかが本来でしょう。 天皇家の時代が古墳時代から明治時代までずっと続いたと見るのが妥当でしょうし、それを分けるにしても朝廷親政の古墳時代~平安時代、源家および北条家の鎌倉時代、足利家の室町時代、徳川家の江戸時代、立憲君主制の明治~昭和初期でしょう。 朝廷支配による時代が続いた古墳時代~平安時代の安定は、律令制度・中央集権国家建設の成功が一番でしょう。もちろん荘園により途中から形骸化しまくってますが。 江戸時代の安定の理由はありきたりですが、家康が作った大名統制制度があまりに完璧だったからと思います。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 日本は歴史区分を行政の中心地で分けてますが、それで○○時代の長さとするとあまり適切ではありません。……他の方のご回答にもそのような趣旨の指摘がありました。年表をながめて、鵜呑みにする程度の知識レベルですので、ご回答は年表や時代の見方として大変参考になりました。

  • eroero4649
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回答No.3

共通しているのは、パクス・トクガワーナとパクス・フジワラーノなのではないかなーと思います。「徳川の平和」と「藤原の平和」ですね。 それぞれ、徳川家による支配と藤原家による支配が「最大多数の最大幸福」になっていたと思います。わざわざ争いをしてまでクビをすげ替えなきゃいけないと思うほどの不満がなかったのでしょうね。今の安倍政権に近いんじゃないかしら。首相の能力にみんな満足しているわけではないけれど、わざわざ引きずりおろす理由もないという感じです。 時代の終焉の共通点は「政権制度が時代に合わなくなってきた」ということですよ。別にそれは平安時代や江戸時代に限った話ではなく、世界中の帝国や王国が滅亡するときの共通点ですけどね。 平安時代末期は武士というのが台頭してきて、公家は自分たちでは何もできなくなりました。最初は公家の権威で武士を支配できたけれど、結局武士が刀を抜いたら公家はそれを止められないということが明らかになったら誰も公家のいうことを聞かなくなったのです。そりゃ当たり前ですわね。 江戸時代末期も、200年前に作られた徳川幕府という中世的な制度では、近代国家の時代を乗り切ることができなくなったのです。それは李氏朝鮮も清帝国も同じです。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 今の安倍政権に~~引きずりおろす理由もないという感じです。……(*^_^*)(*^_^*)(*^_^*)おおいに納得しました。 考えてみると、明治以降の170年間も、国内で血を見るような大革命が起こったわけでもないし、国内的には安定した時代が続いてきたとも言えるのかも??? 「政権制度が時代に合わなくなってきた」……と言うことは、政権を長く続かせるためには、政権自ら、政権を支える制度を継続的に見直す努力が必要と言うことですね。「政治」を見る大きな視点を得たような気がします。大きな収穫です。参考になりました。

  • takuranke
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回答No.2

>「長く続いた理由」 ありません、 単に後世の人が、 政治の中心地(都)のみで時代区分したから (建武の新政と明治以降は元号での区分) 平安時代400年といっても、 おおきく3つに分けられます (江戸時代も文化などで3つくらいに分けることが出来る)。 1.遷都と天皇の親政 2.摂関家と国風文化 3.院政と武士の台頭(源平) 小学校で教わる場合には、 漠然と400年近く続いた時代で、 中学で教わる時は、 上記に上げた3つの転換点を教わります。 1の代表的な天皇は当然、 平城京から遷都を決めた桓武天皇ですが、 この天皇親政は遷都から約100年くらいしか続きませんでした。 この間の出来事としては遣唐使で、 唐風文化が花開いた時代です。 2は 菅原道真の進言で遣唐使が廃止(894年)され、 保元の乱(1156年)を源平合戦の起点とすると、 約250年間となります。 承平・天慶の乱が起きたのもこの間で、 藤原道長(966年~1028年)もこの時代の人。 遣唐使が廃止され、唐風文化の輸入がなくなり、 国風文化が熟成されるのもこの時代。 前九年の役(1051年)・後三年の役(1083年)などで、 武士が台頭しはじめます。 3は保元の乱から、 鎌倉が政治の中心地になる 1185年(または1192年)までとなります。 で、この間の政治の中心地は平安京です。 この後、先に書いたように鎌倉が政治の中心地になったので、 鎌倉時代といっているだけ。 >時代の終焉を示唆するような共通の出来事みたいなものはありますか??? 転換となった原因は、 双方とも 当時の支配層への不満。 平安末期は平氏、 江戸末期は徳川氏

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 日本史やその時代区分については、私自身小学生レベルの知識しかありませんので、参考になりました。 当時の支配層への不満。……確かにそうでしょうが、「支配層への不満」というだけでは少し大雑把すぎるような気がします。武士以外の民衆が徳川幕府に不満を持っていたとも思えないし、武士もまた様々だったのでは???

  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2764)
回答No.1

平安時代は、貴族社会かたや、江戸時代は、武家社会で共通点は、何れも何らかの”形で、”天皇家を名代にしていただけでしょう。 差異があるとすれば、天皇家に対する”日本固有の伝統を、如何に”法律的に配慮をされただけでしょう。・・・ 時代の終焉は、平安時代では徐々に”鎌倉➡室町➡戦国時代➡安土桃山時代➡江戸時代へ。・・・共通点は、自然災害+庶民の台頭+農業の行き詰まり+英雄の 生まれてきた時代背景等、無数にある事でしょう。・・・

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。

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