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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:本徳院と深心院では元々の身分はどちらが上だったか?)
本徳院と深心院の身分はどちらが上だったか
このQ&Aのポイント
- 徳川宗武(田安徳川家初代当主)の生母の “本徳院(俗名は古牟(こん))” と、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の生母の “深心院(俗名は梅(うめ)、久)” とでは、元々の身分は、どちらの方がより高かったのかを教えてください。
- 本徳院と深心院は、いずれも8代将軍・徳川吉宗の側室でしたが、どちらの方が身分が上であったのか気になります。
- 8代将軍・徳川吉宗の側室である本徳院と深心院の間で、元々の身分の上下について知りたいです。
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qukhyさん、こんばんは。 本徳院は即側室になっているのに対して深心院は浄円院付きの女中からスタートしているところから、本徳院のほうが身分が上だったというふうに考えて思います。まだ深心院が幼少だったということを条件にしてもです。また、深心院はもともと紀州藩とは縁もゆかりもない人だったことも考えてみてもそのことは大いに考えられます。 詳細は下記のURLを参照ください。 深心院 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2
お礼
御回答ありがとうございました。 【本徳院】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E9%99%A2 本徳院(ほんとくいん、元禄9年(1696年) - 享保8年2月21日(1723年3月27日))は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の側室。俗名は古牟(こん)。 <生涯> 紀州藩の大番組頭である竹本正長の娘として生まれる。 正徳3年(1713年)に、当時紀州藩主であった吉宗の側室・お須磨の方が死去すると、古牟が須磨の又従姉妹であることから、家臣の間では吉宗の側室候補として挙げられた。しかし『徳川実紀』によると、古牟を訪ねた家臣が「枕席に侍らすべきさまにあらず」と心配するほどの醜女であったとされる。 【深心院】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2 深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))は、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。俗名は梅(うめ)、久。父は谷口正次。院号が深心院。 <生涯> 元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。