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一番弓、一番鉄砲?

戦国時代で武士の恩賞に一番槍、2番槍とファーストアタックが対象になりましたね。しかし、武士は弓馬の道と言われるように弓が武士の本分でもありました。平安の矢戦では征矢で誰が誰を射たとわかり、それ以外の矢は流れ矢カウントになったのでしたね。 しかし、集団戦闘が基本になり弓も面制圧になり、火縄銃の保有が世界一までになったとき、恩賞はどうやって決めたのでしょう。 足軽が銃で武将を撃ち殺しても、射手がわかりません。

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  • isa-98
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回答No.1

一番槍の例から。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%95%AA%E6%A7%8D 現代の人間からすれば、 出世をエサに敵陣へ突っ込ませてるだけ。 となりますが、 先陣を努める武将は武勇も実力も兼ね備えた本物の武将でしょう。 主君の信望が厚い証拠でもあります。 信長公記(一級文献)でさえ、今川義元討死の事では、 (一番槍の)服部子平太は、義元に掛かり合い、 膝の口を切られ、伏す。 毛利新介、義元を伐り臥(ふ)せ、頸を取る。 とあり、頸を取ったぐらいの働きであったようです。 また、歴史に名を残します。 義元は足利一門でも将軍になれる名家の家柄でしたので、 義元が今後天下を取る(または取れば乱世が収まる)人だと考える大名も多く、 今後を左右する重大な事件でもありました。 飛び道具での恩賞は難しいのではないでしょうか? 但し、現在でも射撃成績の優秀な物は抜擢されます。 少なくとも、 手柄を立てて出世する。 のは、 豊臣秀吉(信長)が天下を統一する頃には 死語に近かったような感じを受けます。

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回答No.3

 恩賞確認作業は、概ね「討死・分捕」を基本としているようです。  前線での負傷は、感状だけで恩賞はなしです。 「討死」は敵を殺害すること・「分捕」は戦闘員捕虜を得ることです。 ちなみに一番槍は恩賞ではなく感状です。 恩賞という考えは、御恩と奉公からすれば、荘園領地の取引で考えるべきで、感状貰っても荘園は増えませんから、恩賞というのはどうかと思います。  ファーストアタックは名誉であって恩賞の評価としてはあまり高くないようです。     様々な文献で、遠距離攻撃に対する報償は確認できません。  その最大の理由は、恩賞請求時に、武功を確認する人がいないからです。確認も困難ですし、部隊として一人だけ恩賞を与えることは、集団戦闘の視点としては不公平です。  (囮役部隊にも恩賞が必要であるという発想もあります) 集団戦闘が多き近代戦でも昇進は武功をあげた一人ではなく、後方担当者にもあることからも理解できると思います。  元寇で有名な竹崎季長の活躍を記した「蒙古襲来絵詞」の記述で鎌倉武士の恩賞システムが分かります。  詳しくは吉川弘文館の日本の中世「モンゴル襲来と幕府」を参考にしてください。  ただ、推測に過ぎませんが、 遠距離部隊も、部隊単位での感状が与えられたとは思います。  感状は感謝状で、名誉ですが、弓矢・鉄砲は百姓稼業ですから、その感状を士族に売っていたように思います。  百姓は名誉よりも現物ですから。逆に名ある武将は名誉も尊重されます。  感状の数が異様に多い戦国武将で金に物を言わせて、感状を買い取ったという話もありますので、可能性は皆無ではないと思います。  戦国時代で危険を犯して首級を取ったのは、恩賞の目的というよりも、武功相互保証人が死んだ時の保障であり、時には首級を売買する目的だったと思っています。  首級の取引なんか日記に書けないのは当然でしょう。    金で武功を買った、というのは笑えない話ですが・・・・・ ちなみに、不運な武将の愚痴で、戦功保証人が12回連続して戦死・寝返りした事例があるようです。(小田氏の家臣ですが)

shizumo
質問者

お礼

恩賞ではなく感状 これは知りませんでした。 また、感状を買い取ったという話も知りませんでした。 部隊単位で感状がもらえたであろう。ということですね。 ありがとうございます

  • isa-98
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回答No.2

あくまで例ですが、 服部小平太のその後。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%80%E5%BF%A0 毛利新介のその後。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%89%AF%E5%8B%9D

shizumo
質問者

お礼

ありがとうございます。

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