• ベストアンサー

真田家

関ケ原の戦いの時に父、弟は西軍、兄は東軍と作戦みえみえで別れてるのに何故、家康は許したのでしょうか?しかも東軍に付いた兄には何万石と褒美を与えてますね、他から見ても不満が出なかったのか・・・

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.5

作戦ではありませんよ。 徳川系の嫁を入れて長男派を引き寄せた東軍と、五奉行系の嫁を入れて次男(及び当主)を引き入れた西軍派、真田家は股先にあったのです。 その後話しはできてた、作戦だったとするのは、戦の後真田信之が昌幸幸村の旧領を統治し旧臣を使うのに都合がいいからです。 兄弟親子が相反する勢力に取り込まれるのは武士ならよくあることです。信之は父親に逆らいれっきとして家康に仕えたのです。無傷で砥石城を接収した武功もあげています。真田に逆恨みするものもいたかもしれませんが後ろめたい話ではありません。

その他の回答 (4)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.4

>関ケ原の戦いの時に父、弟は西軍、兄は東軍と作戦みえみえで別れてるのに何故、家康は許したのでしょうか? 許すもなのも、当時の常識では一般的でした。 真田家に限らず、生駒家(親は西。息子は東)・蜂須賀家(父は中立。息子は東)・細川家なども実質的に東西に分かれています。 「どちらが勝っても、家は残る」のですからね。 小早川秀秋の様に、戦闘前から高台院(秀吉正室)・家康の命令通り西軍と戦った武将も多々います。 >東軍に付いた兄には何万石と褒美を与えてますね、他から見ても不満が出なかったのか・・・ 真田家の場合は、正室が本多忠勝の娘・小松姫です。 家康の重鎮娘を嫁に出すのですから、それなりの人物だったのでしようね。 当時の真田家は、反徳川で有名な存在でした。 兄が東軍に味方する事で、他の豊臣恩顧の大名が影響を受けます。 ※この時代、長男が家督を相続するという思想は薄いのですがね。 結果として、多くの豊臣家臣が東軍に参加しましたよね。 これだけでも、大きな手柄です。 不満が出る訳がありません。 ただ・・・。 山之内一豊の場合は、他の武将から不満が出た様です。

回答No.3

兄弟が味方とは限りません。金正恩も正男を殺してますし、織田信長もこないだ「麒麟」で弟を殺してました。モックンも伊藤英明に殺されてました。 兄弟は、元々が、ひとつの家督を争う敵の関係にあります。なので、実際の敵味方以外に兄弟もゆるさんとやってると、敵の敵も敵となって、みんな敵になってしまいます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34517)
回答No.2

大阪の陣の頃は、まだ戦国時代であります。戦国時代というのは「生き残ったやつが勝ち」という時代です。滅亡した家や武将は数知れず。騙してもどんな手段を使っても生き残ってきた家と武将が存続することができた時代です。 そういう時代というのはどんな手段であっても「勝てば官軍負ければ賊軍」なのですよ。勝ったほうについて活躍した者は出世し、負けたほうについた者は死ぬ。それだけのことです。 真田家に関していえば、そもそもが信繁(幸村)が浪人の身でしたからね。「豊臣家が浪人を雇った」というだけのことです。また徳川家康にとっては徳川軍に散々辛酸を舐めさせた厄介な武将が浪人としてウロチョロしているのは内在的に危険でもあり、どうせなら大坂の陣で一網打尽にそういう連中を「処分」してしまうことは悪いことではなかったのです。 またあまり知られてはいませんが、関ヶ原で領地を大削減され後に討幕することになる長州藩の毛利家は内藤元盛(世間では佐野道可という名前で知られています)という割と重臣クラスの武将が豊臣方の武将として参戦しているんですね。これはあくまで内藤個人の判断で出奔したということになっていますが、毛利家が密かに送り出した説も昔からいわれていて、私はそっちのほうを支持しています。なぜかというと、毛利家は元盛の子が家督を継ぐことを当初認めていたからです。ところが数ヵ月後に何があったのか、突然切腹を命じるんですけどね。なにかウラ事情があったことを強く匂わせますよね。 まあそんな感じで、どこの戦国大名も生き残るのに必死ですから、ウラ事情は色々あるってことですよ。証拠資料が失われているだけで、他にも色々あったかもしれません。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

真田信之の正室は家康の重臣本多忠勝の娘の小松姫。しかも孫に会いに来た真田昌幸を会わせることなく追い返している。ここまでやったからこそ高い信用を得ていたのだろう。

関連するQ&A