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宗教における布教の意味
宗教では、多かれ少なかれ、布教ということを行います。 この教えが良いから他の者にも伝えて伝播させる、と。 何故でしょう? 自分が良いと思うものは人にも勧めたくなるのは人情ではありますが、 それが度を超すには何か分けがあるのではないでしょうか。 「このリンゴうまいよ、あなたもどうぞ」 「このリンゴうまいから、食べるべきである」 この二つの間には、隔たりがあります。 特にキリスト教では、後者の傾向が強い気がします。 「真の神はイエスだけで、他は間違い。イエスを信じるべき」と。 なぜでしょう? 非業の死を遂げた教組を「真実だ」「本物だ」と名誉挽回したい信者たちの 心情が、行き過ぎた「べき」へと導くのではないでしょうか? それに比べたら、教組が痛い死に方・無念な死に方をしていない仏教やイスラム教 では、それほどガムシャラではない。 つまり教組の死に方の違いが布教熱に微妙な影を落としているのでは?
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- wek00
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宗教がスケールメリットがある性質のものだから。また、他教・他宗派を否定する性質なのも、限られたものを競合する相手と奪い合う構図であることから、そうある必要があるから。設計者や上層部に居る人はその辺よくお分かりなので、下っ端が善行と信じて心置きなく邁進できるよう手を尽くしてらっしゃるのでしょう。宗教に限った話でもありません。 現状、宗教勢力ではイスラームが最も危険だと思います。日本は乱れているので我々のものになるべきだ、と当前の顔で言ってきますからね。まあ、それでいい人にとっては他の答えなんて要りませんし、他勢力が何を失おうと意味のないことです。迷惑がられても布教の効率を上げるべき状況なのか、今は軋轢を起こさず浸潤することを優先すべき段階なのか。日本に求めるものが信者なのか信者を擁する基盤(領土)なのか、その違いの現れではないでしょうか。
- hatarakuzinkaku
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宗教的な精神があると社会のありように同一化出来ないから社会のありようとは異なった態度(生き方)を持つと思います。
お礼
私の質問の主旨とどうつながるのかよく分かりませんでした。 ごめんなさい。
- hatarakuzinkaku
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布教というか宗教的な精神があったら人に問いかけて生きていくと思います。それが結果的に誰かを癒したりもするのであったらそれも布教じゃないでしょうか?
お礼
私の質問の主旨とどうつながるのかよく分かりませんでした。 ごめんなさい。
- 久保 泰臣(@omi3_)
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社会的な動物の遺伝子は 1 相手のテレトリーを奪う考えを持つ集団が生残ります。 2 人は言語が発達しすぎて"教え好き"な性格になりましたが 論破されると地位が落ちるので学習欲が高くなりました。 学習能力の低い者は、権威を利用して地位を固めようとします。 (権威は、強い集団の中で力を貯めてトップに近づく手段です) 3 軋轢の中で自己保全となる認知的不協和理論に拠ると 布教活動が厳しくされた方が、強く洗脳されてしまいます。 (昭和時代の運動部が厳しかった理由です) 4 人は自分の為より家族の為の方が力がでます。 近親者の死が力を増大さる"弔い合戦"が起こります。 いずれも本能で、遺伝子が次世代に伝わりますが 現代では淘汰の速い文化で伝わり、有効性は圧倒的です。 と言う事で、古い遺伝子に左右された考えを早く否定しなければ 文明を享受できず勿体ない事になります。ただし 利益を狙う者が、ブーム( Xmas, バレンタイン, ケーキ, 猫, など)を 利用してして騙して来るので、"体に良い物"で選ぶ必要があります。 追伸 仏教は、悟りが目的の修行から始まったので 宗派対立が有っても相手をせん滅させる事はありません。
お礼
回答をありがとうございました。 最後の方がよく分かりませんでした。 仏教では、「宗旨の争い釈迦の恥」と言いますが、 それは同じ教祖から出ているからです。 宗教自体が違う場合とはまた別でしょう。
- fujic-1990
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3番回答者です。補足意見を拝見しました。 たしかに、イスラム教徒はそんなことを言ってないと言われたら、私自身が見てきたわけではないので、「いや、言っていた」とは言えないわけですが、「全滅か、改宗か、納税か」と言って迫ったのは、「イスラム教は他宗教に対して寛容な宗教なのだ」というイスラム教弁護論者が書いていた話なのと、イスラム文化圏の急激な発展ぶりをみるにつけ、真実だったんじゃないか、と思っています。 いま、そういうことにならないのは、イスラム教徒の戦士がキリスト教徒の都市を包囲して「全滅か、改宗か、納税か」と言えば、キリスト教徒が核ミサイルを持ってさらにその外側を囲み「御前たちこそ改宗しろ」言い出す情勢だから…戦闘力が当時とは逆転しているせいじゃないか、と。 マンガの脚本家志望のせいか、なんにしろ、歴史を見ながらなんだかんだと空想するのは楽しいですね。また、いろいろなご意見を拝見するのも、参考になってうれしいです。
お礼
滅亡か帰依かの二択を迫ったのはキリスト教徒の方だと反論していたのは、 確かユダヤ教のシンパの評論家だったと思います。 ユダヤ教にとってもキリスト教は敵ですから、イスラム教は敵の敵で味方なのかも。 真相は神のみぞ知る、といったら、どっちの神だと噛みつかれそうですね。 それが倫理的熱狂主義。いや、紙ですと言えば、漫画家になれる人かもですね(笑)
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
> 仏教やイスラム教では、それほどガムシャラではない。 イスラム軍は、都市の城壁を囲むと、都市の住民に対して「全滅か、改宗か、納税か」と選択を迫ったそうです。もちろん、改宗とはイスラム教への改宗です。 死ぬか改宗かゼニか、です。死にたくはナイだろうし、生涯高い納税を続けるのもイヤなので、事実上「改宗以外はナイだろ」と思うのですが、がむしゃらに改宗を迫ったことになりませんか? 仏教については、布教についての逸話を知りませんが、古代インドのクシャーナ朝のように仏教を国教(カニシカ王は仏教の大保護者)とした国もあったわけで、その過程ではすごい布教合戦があったのではないかと思いますよ。 その記憶が、帝釈天と阿修羅王の大戦話の基になったのではなかろうか、と考えております。 私は、教祖の死に方は関係ナイ、そういう時代だったのだ、と思うのですが私の歴史観を押し通す気はありません。
お礼
<右手にコーラン、左手に剣>は今では使われない言葉で、それはイスラム軍がそのように言った事実はないから、との事。むしろキリスト教徒がキリスト教を広めるためにそのような言動をとったのを、敵であるイスラムに当てはめたデマが広がったから、と何かで読みました。 まあ、どっちがどっちだか、敵同士の悪口は分かりませんが。 帰依する教組の理不尽な死に様を見た弟子にしてみれば、正当化の強い衝動を持つのは人情だろうと思います。何の罪もないのに痛い死に方をしたのは全人類の罪を一身に背負われたからだと<合理化>しないと収まらない。そしてそれを人にも信じて欲しくなる。彼こそ真の神であった、と。ーそれで、今もおばちゃんたちが二人組で各戸訪問に、今日も訪れる・・・。(一種のお弔い行為の継続なのでは?)
- apple1963
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イエズスであろうと釈尊であろうと、その立教者の死に方は関係ないと思います。どの様な末路であろうと、それは立教者の教えとは関係が無いからです。釈尊が肺炎で入滅しようが、赤痢で入滅しようが、佛の教えに変わりはありません。説かれた教えと開祖の生き方。これに感銘を受けた人が、次の世代に受け渡し、そして代々伝わってきたわけです。 私はお寺の信者ですが、宗教は「信じる必要がある」とは思っていません。信じる宗教がないまま生きている人は一杯います。 しかし、その教えが少しでも広まる事によって、世の中が今より良くなるかもしれない。とは思っています。今苦しんでいる人も、佛の智慧の一分でも授かれば、少しは苦しみも少なくなるかもしれない。そうした思いはあります。
お礼
ご回答をありがとうございました。
- Don-Ryu
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布教は功徳であり、功徳を積むことによって自分が他人より大きく救われるからです。 つまりは信者個人の、自分の利益のための行為ですので。 リンゴ云々の2つに別に隔たりは、ないと思います。 教祖の最期も、あまり関係ないと思います。 今の満たされた時代に宗教にハマる人って、ほとんど自分本位なだけですよ。
お礼
ご回答をありがとうございました。
お礼
宗教は複数を信じるということは無いので、もともとゼロサム思考であることは間違いないです。 ただ、イスラム教やキリスト教のように強烈なのと仏教のように緩やかなのとの違いの原因が、 私の問題意識です。