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汝の敵を愛せよ
聖書に[汝の敵を愛せよ]という教えがあったと存じます。 やはり必要な教えなんでしょうか? どのようにしてそんなことが可能なのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
これ、仏教の類似の教えである「恨みは恨みによって果たされず、ただ忍を行ずることによって果たされる」と比較すると分かりやすいです。 恨みに恨みで復讐すると、また相手から恨みで復讐される。 その無限ループを断つには、耐え忍べ。 という教えです。 やられ損じゃねーか!と思うかもしれませんが、仏教には因果応報があるので、勝手に相手が復讐されます。 ユダヤ.キリスト教にも、神が復讐されるという考えがあります。 放っておいて、神が精算されるのを待った方がよいという教えです。
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- oska2
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>聖書に[汝の敵を愛せよ]という教えがあったと存じます。 その通りですね。 同時に、「右の頬を打たれたら、左を頬をだせ」との教えもあります。 >やはり必要な教えなんでしょうか? 必要か否かは、当事者の考え方次第でしようね。 イスラム教では「目には目を、歯には歯を」という攻撃的な教えもあります。 つまり、キリスト教では「相手は可哀そうな人なんだ。慈悲を持って許そう」という「上から目線」があります。 イスラム教では「同じ痛みを、(加害者被害者)相互に受ける」教えですね。 要は、自分が納得できれば良いという考えです。 >どのようにしてそんなことが可能なのでしょうか? キリスト教世界では、「可哀そうな人を助ける」事で世界征服を行いました。 日本でも、信長・秀吉時代に「宗教を利用して制服(植民地化)する」活動が行われていましたよね。 結局、秀吉・家康・初期明治新政府によってキリスト教は禁教になりました。 現在のアメリカ政府も、キリスト教の精神で軍事力を行使しています。 イスラム教も、「キリスト教支配下にある人民を開放する」とのお題目でテロ活動を正当化しています。 可哀そうな人だから、救ってあげよう! 異教徒に支配されているから、開放しよう! これが、世界各国での宗教戦争です。 独裁国家では、これらの宗教の教えを危険視して「宗教は認めない政策」を行っています。 例えば、中国では「宗教団体も、共産党の下部組織」となっています。^^;
お礼
薀蓄のある、素晴らしいご回答をありがとうございます。
補足
統治権力が宗教を認めない、宗教を統治権力の中に支配してしまう。 そういう国家って辛いでしょうね。外から見て。 明治憲法下の日本みたいですよね。
- EH1026TOYO
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--「汝の敵を愛せよ」は必要な教えか?-- 小生、キリスト教徒とは全く無縁だが・・ 質問者の自己紹介プロフィールを確認させていただいた・・! 年代から察するに、"大東亜戦争"体験者であると推察した上で・・、 --必要な教えで、そんなことが可能か!?-- ご存知かどうかはさておき・・ これに近いのではと思われる歴史的事実で、大東亜戦争当時、実際に「スラバヤ沖海戦」での或る日本軍駆逐艦艦長が取った行動が該当するのではないかと思う・・! 武士道精神と国際法(ハーグ条約!?)に則った日本人としてあるべき誇れる行動だったと思っている・・!
お礼
まだ少年ですから、大東亜戦争に参加したというより、むしろ空襲で逃げまどったという事ですね。浅草と蒲田で。そして悲惨な戦後の生活も。 ありがとうございました。
- Macpapa10
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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q113241381 他のサイトの過去質でありました。 >ユダヤ教の律令ではユダヤ教を信じる者が同胞であり信じないものをすべて「敵」としていた。 イエスは律令に無批判に従うことは問題あると説いた。律令が「敵を憎め」と命じるからこそイエスは「敵を愛せ」と言った。 この矛盾するセリフを用いてイエスは敵とは誰が決めたかを考えさせた。 「汝の敵を愛せよ」を背景を含めて意訳するならばこうなります。 「汝が敵と思っている者が本当に敵なのかよく考えろ 愛するべき者まで敵と見なしてないかよく考えろ」 イエスは掟に盲従する危険を説いたわけです。 宗教に関しては、言葉の表面だけ見てはいけないんですね。 今見てる古事記の動画で、古事記は1万年前からの実話の神語( かむがたり )だったので、空想の西洋のために神話と言う言葉を作った。 所が神語( かむがたり )と言う言葉が消えて、古事記も空想の神話になってしまった。 とか。
お礼
ありがとうございました。 素晴らしいご回答です。
お礼
為した人自身が、自らのkárma(業)を果たすのですね。 素晴らしいご回答をありがとうございます。