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敵を愛する
この間、聖書の時間に「敵を愛する」ということをならったんですけど、それについてどう思いますか? 聖書に乗っていることをたとえに出すなら、片方の頬を殴られたら、もう片方の頬を出す、という感じです。
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- dell_OK
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私にはたぶんできないし、しようとも思わない。 どちらかと言うと、「目には目を、歯に歯を」かな。 これも聖書かハムラビ法典に出てくる言葉だと思う。 少なくとも、もう片方まで殴られたくはない。 せめて、そこでストップでしょう。 ただ、敵をも含めて、すべての人を愛する、 と言う事ならわからないでもない。
- minol200
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敵をも愛するの愛するは原語のギリシャ語に訳すとアガペーです。 この場合は敵対的な態度を示す人にも親切にする、友好的な態度を示すことが含まれます。 これができれば地球は平和になるはずですが、聖書を学んでいるキリスト教徒って基本的に出来てないですよね(笑) キリスト教徒の歴史って戦争と虐殺の歴史みたいなもんだし。 ちなみに家族や恋人を愛するや友情とは違う性格の愛です。 私見も入りましたが参考になれば幸いです。
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こんにちは。 私は信者ではありませんが、歴史上の人物としてのキリストにはちょっと興味がありまして、彼に関する本も何冊か読みました。 その結果、私の想像するキリスト像は、綺麗ごとを並べ立てる聖者というより、もっと人間臭くて、ユーモアのセンスもあり、女性にもモテた、更に言うならちょっと怒りっぽい性格の、非武装の革命家だったのではないかと思われます。 当時、学校にも通っていなかった民衆が、うわべだけ立派なことを言う人の話など聞く耳を持つとは思えないからです。 つまりこの「敵を愛する」という言葉も、言葉の印象から受ける穏やかなニュアンスではなく、喧嘩口上だった可能性が高いと思います。 当時のナザレやベツレヘムは、ローマ帝国の支配を受けていたわけですから、当然、ローマ人と地元の人の軋轢や差別はあったでしょう。 地元の人達の溜まった鬱憤を晴らすために彼は、「敵を愛するくらいの度量がなくてどうする」という意味で言い放ったのだと、私は思います。 強大なローマ軍相手に武力で挑むなど、とても出来ないからそんな風に言うしかなかったわけです。 「もう片方の頬・・・」の話も同じです。 「ローマ人に殴られた」と嘆く人に対して。 「しゃら臭え!ならばもう片方も殴らせてやれ!」 と、言って励ましたのだと思います。 彼の人生は、ローマ人やパリサイ人との喧嘩の連続だったと私は思います。
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ご回答ありがとうございます。 まったく新しい意見でびっくりしました。 参考になりました。
- kino
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敵とは外敵のことではなく、自分の心に巣くうもう一つの自分のことを示すのではないかと思います。もう一つの自分とは、本来神の下で活気に満ち溢れている自分に対し、「おまえはグズでのろまで、生きていてもしようがない、どうしようもない奴だ」と囁く悪魔のような心かもしれません。ちなみに僕はキリスト教徒ではないですw
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日本風に云うなら「罪を憎んで人を憎まず」と同じレベルの話だと思います。 然しキリスト教信者や関係者はコレの実行が何故か出来無い。
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