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イエス弟子の足を洗う
聖書にイエスが弟子の足を洗う話が出ていたと存じます。 この話の意味(導き)を教えてください。
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あらかじめおことわりしておきますが、私はキリスト教信者ではありませんので、教会の牧師さんの解釈とは違っているかもしれませんが、私なりの解釈を書かせていただきます。 その場面では、イエスはキリスト教の最高位にある人であったわけです。「神の子」とも呼ばれていますので、普通の人とは格段の差があったわけです。イエスには先のことがある程度わかっていましたので、今自分がするべきことをして、心おきなくはりつけになって死んでいこうと思っていたのでしょう。 最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗ったのは、最高位に就いた者はふんぞり返って、大衆を見下して偉そうにしていてはいけないということを弟子たちに、自分の行動で示したのだと思います。また、それはイエスが弟子たちをこよなく慈しんでいたからこそできた行動だとも言えると思います。 石霜和尚と長沙景岑禅師の問答に「百尺竿頭如何が歩を進めん」というものがあります。百尺竿頭というのは、長く高い竿の先であり、悟りの境地という意味も含まれています。そういう所に至ったら、あなたはどうするのか?というのが、この問答なのです。 石霜和尚のこの問いに対し、長沙禅師は「百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じました。つまり、悟りの境地という最高の状態に至ったなら、そんなところでとどまっていてはいけない。そこからさらに歩を進め、竿の下に落ちたとしても、大衆の中に身を置き、東西南北を駆け巡り、多くの人を導くべく動き回るのだということを言っているのです。 宗教は違えど、キリストは、まさにこれを地で行ったとは思いませんか?自分の亡き後を弟子たちに託したのです。弟子たちのあるべき考え方や行動は、キリストを手本とするでしょうから、キリストは自分が弟子たちの足を洗うという最も謙虚な姿勢を示すことで、弟子たちの進むべき信仰のあり方を示されたのだと思います。
お礼
素晴らしい。 予想以上のお教えです。 更に熟読します。 ありがとうございました。