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江戸の人々は漬物だけで米5合は食べていたとか本当で

江戸の人々は漬物だけで米5合は食べていたとか本当ですかね? 我々から考えると罰ゲームに近いと思われます!

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.10

https://masae3.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_3369.jpg 江戸の人気料理番付です。僕には読めない部分が多いですが。 江戸の人って本当に番付作るのが好きですねw 漬物も当然食べてますが、金さえあればメザシにしじみにナスにキンピラにマグロにと江戸の人はグルメでいろいろ食べてますよw ただすでに出てるように江戸では米が一番安い、貧乏な人は漬物と白米しか食べられなかったというだけです。 金さえあれば豊かな食文化を楽しんでますし、初ガツオが2両なんて話もあるとおり、食べたいものに有り金全部突っ込んで宵越しの金を持たないのが江戸の暮らしです。

  • Macpapa10
  • ベストアンサー率9% (127/1288)
回答No.9

一日だと思いますが・・・

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34521)
回答No.8

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%84%9A%E6%B0%97%E5%8F%B2 Wikipediaにわざわざ「日本の脚気史」なんて単独のページがあるように、明治以降から戦前にかけての日本では脚気は「国民病」と呼ばれるくらいに身近な病気でした。 当時のもうひとつの国民病である結核も、直接の原因は結核菌にかかることですが、当時の人々の栄養不足も大きな影響があったようです。 ではなぜ明治、大正の人々は栄養不足になったのか。一言でいうと「白米ばっかり食べていたから」です。 江戸時代には脚気は「江戸患い」と呼ばれていたように、江戸を中心とした都市部で発生していました。それは江戸では白米が一般的だったからです。明治になって精米技術が全国に普及して人々が白米を食べるようになると、脚気も急速に全土に広まったのです。 決して「日露戦争だけの特殊事情」ではありません。日露戦争前からありましたし、日露戦争後もあったのです。あんまり他人を馬鹿馬鹿いわないほうがいいですよね。半可通っていわれちゃいますからね。 元々玄米は「完全食」といわれるくらい、それだけ食っていれば死なない食べ物だったのです。足りないのはタンパク質とカルシウムくらいです。 どうも日本人は、平安時代以降にコメの偏食に走っていたようです。出土する人骨で調査をすると、古墳時代の日本人の平均身長は男性で160センチを超えていたのに、そこから江戸時代にかけて徐々に低くなってゆきます。江戸時代中期に一度平均身長は上がるのですが、明治時代になるとまた身長が低くなりました。理由は米への偏食だと推測されます。古墳時代や平安時代辺りまでは日本人も肉を食べていましたが、いつしか日本人は肉を食べることをやめ、米に偏食してゆきます。 日本語においては「ごはん」が、米飯という意味と食事そのものの意味を持ちます。そのくらい米飯というのは日本人にとって食事そのものなのですよ。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.7

昔から「一合雑炊二合粥三合飯に四合団子…」と申しました。「人が一度に食べることができるコメの量」を表わしたものです。1日2食としても、飯ならば3合の2倍で6合になります。まあこれは「腹いっぱい食べられる上限」でしょうから、毎食そこまではいかないかもしれませんが…。 また下記のWikipediaによれば、旧日本陸軍の兵隊が携帯していた食料(携帯口糧)で、1日分の精米が855グラムとされていたそうですが、米1合は約150グラムなので6合近くになります。 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」にも、「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあるように、昔の人は(米が手に入れられれば)今よりも少しのおかずで米をたくさん食べました。「漬物だけ」かどうかはともかく、現在のように多種多様のおかずを大量に食べていたわけではなく、庶民は「一汁一菜」に近い食事でした。 国民一人当たりの米の消費量は1962年度をピーク(118kg)としてこの50年あまりで半減以下(2017年度で54kg)にまで落ち込んでいます。「糖質制限」などがもてはやされている現在の日本では、米飯をたくさん食べることが「不健康の象徴」とさえ思われがちですが、昔はまったく逆であったことは忘れてはならないでしょう。

参考URL:
https://ja.wikipedia.org/wiki/携帯糧秣
回答No.6

江戸の人達が白米を沢山食べていましたが一日5合は多すぎます。 一日5合と言われるのは下級武士の俸禄で武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して,1ヵ月に1斗5升,1年間に1石8斗,支給したことが基になっています。 この場合の5合も正確に言いますと玄米で計算されていましたので白米であれば目減りします。 ということで、実際に一日5合食べていたわけではありませんでした。 特に大工や鳶職のように外で仕事をする人達は日中は満腹になるような食べ方をしませんでした。 仕事の合間に一口か二口で済ませていました。 そこで発達したのが屋台です。 握り鮨や天麩羅は現在は高級食材ですが当時はファーストフードでした。 蛇足 江戸の街には全国の大名の屋敷がありました。 国元から徴収した年貢米が送られてきていました。 この米を売り払って現金に換えて生活していました。 結果として江戸の街には米が豊富にあり一番安い食材でした。 地方とは逆の現象です。 町人は屋台などで色々な食材を食べていましたが参勤交代などで出てきていた金のない下級藩士は飯だけ食べていて脚気になりました。 国元へ帰る道中で他の食材を食べると治りましたので江戸煩いと呼ばれていました。

  • etis
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.4

江戸の人々は漬物だけで米5合は食べていた 在日がどうにかして日本文化を貶したいってネタだな

  • bardfish
  • ベストアンサー率28% (5029/17766)
回答No.3

米5合はわかりませんが江戸時代(後期か中期かはわかりませんが)では白米が贅沢とされていましたが庶民でも食べられるようになったために「江戸患い(脚気)」という病気が流行しました。これは死に至る病気です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E6%B0%97 白米が庶民でも食べられるようになったとはいえ贅沢品。 おかずを減らしてでも白米を食べることは幸せだったのかもしれません。 江戸庶民の生活を記したものの中には「女房を質に入れても初鰹」「まな板に小判一枚初鰹」というような川柳が読まれるほど初鰹は熱狂したものです。初鰹を食べると寿命が75日伸びるとも言われていたみたいですね。因みに小判1枚というのは今の価値で言えば10~15万円ほど。 食文化が多様な形をとって発展したのも江戸時代です。 貧乏してでも食は贅沢に、というのが江戸っ子だったのかもしれませんね。 今の贅沢とは感覚が違うのでしょう。普段より多少贅沢なものがたくさんが豪華ではなく一点豪華主義とでも言えば良いのかな?w

  • xvw
  • ベストアンサー率30% (6/20)
回答No.2

当時の食料事情からすると不思議ではないでしょう。大体1日4~5合食べていたらしく、おかずは質素でした。 しかし、玄米ではなく、突いた米(白米)を食べるようになると脚気が大きな問題となりました。当時は重要なビタミンB1が玄米に含まれていることは知られていなかったからです。

noname#252332
noname#252332
回答No.1

 田舎では何でも食べたので健康でしたが、江戸は農地は遠く経済は豊かで米が豊富だったので米ばかり食い脚気で死んでしまう人がたくさんいました。明治の陸軍でも田舎から出てきた兵卒を喜ばせようと白米を腹いっぱい食べさせたので脚気で死ぬ人が多かった。鈴木梅太郎がオリザニンを発見するまで偏食の害を知らなかったのです。

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