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平安時代の夜間行事
「藤原彰子」という本を読みました。本題じゃ無いところが気になりました。 平安時代というと、灯りとか不自由なので、夜は早めに寝ているのではないかと思っていたのですが、儀式・行事がちょくちょく21時22時といった夜に開催されていて、その後の宴会が24時を過ぎることもあったようです。また、引っ越しも20時出発とかしてる場合もあります。 なぜ、明るい日中でなく、夜にも行事などをやったのでしょうか?もちろん、日中の行事もあったわけですが、ほとんどが日中という感じでは無さそう。 宴会自体は暗くても出来るでしょうけど、料理飲み物を用意する人が暗い中で大変そうです。 平安時代と言っても長いので、少なくとも道長の時代の話です。
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- ichikawa2017
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「藤原彰子」という本は読んでいませんが当時の宮中の行事というのは神事に関わるものだったと考えられます。 現代でも政治をまつりごとというのは祭政一致の時代が長かったことに由来します。 邪馬台国の女王卑弥呼についても「鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす」と魏志倭人伝に記載されています。 卑弥呼という文字もヒ巫女だったのではないかと考えられています。 一方で昼は人の時間で夜は神の時間だと考えられていたのではないかと言われています。 日本書紀に箸塚古墳について「この墓は日は人がつくり夜は神がつくる」と記載されています。 夜は逢魔が時とか百鬼夜行という言葉があるように人知を越えた不可思議なものが出没する時間とされていたと思われます。 古代には神というのは自然災害をもたらす荒ぶる神でした。 何かを願って叶えてもらうものとなったのは後の時代です。 これからすると神は夜に現れると考えていたとしても不思議はありません。 現在の神社のお祭りも秩父夜祭りをはじめ夜間に行われます。 伊勢神宮の式年遷宮のさいにも神様が新しいお宮へ移る神事は夜中に行われます。 出雲大社でも10月に日本中の神様が集まるさいにお迎えする神事は夜に行われます。 神田明神のお祭りでも御神輿に神様を移す神事は夜に行われます。 東北三大祭りといわれる秋田の竿灯も青森のねぶたも夜の祭礼です。 お盆の行事は現在は仏教のものとなっていますが日本古来のものだったと考えられています。 迎え火も送り火も夕方に焚かれます。 京都の大文字焼きも送り火をおおがかりにしたものです。 戻って来ていた祖霊を送り返すものとして灯籠に火をともして川ながす精霊流しも夜に行われます。 お読みになった本で宮中の女性が夜分にいろいろな行事を行っていたとされているのも以上のようなことが原因かと思います。 灯明などが暗くても差し支えがなかったのでしょう。 料理や飲み物を用意する人が暗い中で大変なことなどは神事に比べれば無視されていたのかと思われます。
- fujic-1990
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1番回答者です。補足質問を拝見しました。 想像の域を出ないので、改めて書くべきかどうか迷いましたが、 深夜に行う儀式は、夜間にうごめく魑魅魍魎を含めた神々全体に対して祈るというような、一口で言えば「神秘性」「荘厳さ」「おごそかさ」など、その種の言葉で言い表されている雰囲気、空気を醸し出したいからではないでしょうか。 人間、あまりにハッキリした、わかりきった事に対しては畏敬の念をもたないものです。白日の下にさらされたことにはありがたみはなく、「よくわからないから有り難みが増す」というようことがよくあるものです。 下世話な話ですが、藤原氏の登場以来権力を奪われた皇祖皇宗は、生き残り、権威を保持するために、代々それを狙ったのだと思います。
- 4017B
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すいません…質問文に「藤原彰子」に関する本を読み~とありますね。つまり平安貴族であっても女性の立場からという見地が欠けていました。回答を補足します。 >夜に出発する理由 女性の場合、十中八九これは「旅装束を人に見られない様にするため」です。当時の社会通念上、何故か女性が旅装束の姿を他人に見られるのは大いなる恥とする文化だった様で。それで遠出する際には近隣住人が寝静まった夜間に出立するのが当時の習わしでした。 筆者は男性の紀貫之ですが、作中では女性として記述されている『土佐日記』にも同様に人目を忍ぶために夜間に出発する描写があります。これは当時の "常識" なので何故に夜中に旅立つのかについては特に言及される事はありませんでした。 一応、男性も余り見られるのは良くないという考え方ですが、女性ほど厳しくはありませんでしたので。割と普通に明るい昼日中に旅立つ事も多かったみたいです。まあ現代で言うところの「徳利の注ぎ口の方でお酒を注ぐのはマナー違反です」みたいな誰も得しない謎マナーだと思ってください(笑)。
- 4017B
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端的に言ってしまうと中国文化の真似ですね。平安貴族が行った宮中行事などのほぼ全てが由来は歴代の中国皇帝が行っていた中国文化をそのまま輸入して物真似して行ったモノですので。 先頃、秋篠宮殿下が「代替わりの大嘗祭は身の丈に合った小規模少予算で行うべき」と言って物議を醸しましたが。ネトウヨらがこぞって伝統的日本文化であり皇室行事の要と誇るこの大嘗祭は100%中国皇帝が行った皇位継承儀式のパクりです。明治時代まで実際に歴代の天皇が大嘗祭の時だけに着る衣装も、真紅に染め上げ両方の袖に中国皇帝の象徴である龍をあしらったデザインになっています(黄色は中華皇帝のみに許された色だったので赤くアレンジしてある)。 - 参考リンク https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kone.jpg#/media/File:Kone.jpg でわ何故に日本のお手本だった中国宮廷で夜中に色々な行事を行ったのか?ですか…正直、これには諸説ありますし、自分も専門家では無いのでズバリこれだとは言えません。が、まあ中世時代、夜中に庶民は暗闇に怯えて暮らす時代に、昼間の様に明々と明かりを灯して盛大な行事を行う事自体に支配者としての絶大な権力を示す目的があったのかもしれませんね。 P.S. 日本の平安時代の貴族皇族は何をするにも陰陽道などの占いで日時や決行の有無を決めていましたので。夜中の行事もそうやって出た占いの結果で早朝に行ったり、或いは真夜中に行ったりしていたのではと推測します。 また北に用事があるのに占いで北は凶と出た場合、一旦は南に出掛けてそこで半日ほど過ごし、そこで運勢が変わった事にして再び最終目的地である北を目指す~みたいな事が平安時代には日常的に行われていました。引っ越しなどで夜中に出発するのはこの「良い運勢が回って来る時間帯(新居の門をくぐる時間)」をちょうど日の出ている昼間に合わせるため、逆算して夜中に出発して "運勢待ち" のための庵で小休憩するためだと思います。 現代人感覚からすると完全に不合理で間違った事を真面目に信じて、日本中の全員が無駄な事に一生懸命だったのが平安時代なのです。
お礼
> 昼間の様に明々と明かりを灯して盛大な行事を行う事自体に なるほど。日本的でない気がしますが(巨大古墳時代以降は浪費することで権力を誇示する例はあまりなさそう)、中国だとありそうですね。 >占いで日時や決行の有無を決めていましたので。 それはあるでしょうね。やっぱりそれか。本に出てきたのは明らかに日中より夜間行事が多かったのですが、たまたまですかね。 なお、方違えによる移動はその旨の記述がありました。
補足
占いで時刻を決めていたとすると、まんべんなく分布しそうですが、本では早朝の例が一例も無かったので、占いだけでは無さそうに思います。 方違えの記述はあったけど、占いによる時間待ちの記述はゼロでした。
- fujic-1990
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皇室関係の「神事」は夜間だと思います。 いまでも天皇陛下は、例えば「四方拝」・「大嘗祭」などを夜間に行っておられます。夜間というか、未明というか早朝と言ってもいいかもしれませんが、とにかく暗闇の中で行っていらっしゃいます。 20年ごとの伊勢神宮の遷座も深夜に、行われていますね。 > 料理飲み物を用意する人が暗い中で大変そうです。 それでも宴会はやったようです。 まさに道長の時代の源氏物語に「雨夜の品定め」という話が出てきます。今いう時刻では何時なのか、書いてあったかなかったか記憶がハッキリしませんが、「雨夜」という位なのですから「夜」なのでしょう。 貴族どもは、配膳係などの下々の都合は考えてくれないようです。
お礼
ありがとうございます。 早朝なら分からないでも無いのですが、なぜ20時頃から??という疑問は解けません。
お礼
なるほど。左京の中で住居を移すだけのことなので、旅装ということは無かったと思いますが、女性の場合、輿に乗っていても姿を見られたくないと言うことですね。 彰子の行動だけを書いているわけでは無いので、男性である天皇、東宮、道長らの移動も書いてありましたが、誰の移動が夜が多かったかとかまでは覚えてません。図書館で借りた本で今手元に無いので確認できず。 皆さんけっこう数ヶ月単位で居所を移しているというのも、火事きっかけが多いですが、へえと思った点です。