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名前が思い出せない…藤原道長の…

こんな時に名前が思い出せないなんて… 藤原道長が「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたる事も無しと思えば」と詠ったった時に 道長から返歌を求められた人物って誰でしたっけ? 確か藤原一族で盲目だった事だけは確実です 名前が思い出せません どうか平安ツウの皆様 あずきを助けて下さい☆

質問者が選んだベストアンサー

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  • takeko85
  • ベストアンサー率65% (148/225)
回答No.2

寛仁2年(1018年)3月、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。実資はその日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記した。威子の立后の日(10月16日(11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記に書き残されて後世に伝えられることになった。 ハイライトされているキーワード: この世 を ば 望月 の http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:8GtQ4Pij3C8J:ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7+%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%82%92%E3%81%B0%E3%80%80%E6%88%91%E3%81%8C%E4%B8%96%E3%81%A8%E3%81%9E%E6%80%9D%E3%81%86%E6%9C%9B%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%80%80%E6%AC%A0%E3%81%91%E3%81%9F%E3%82%8B%E4%BA%8B%E3%82%82%E7%84%A1%E3%81%97%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%88%E3%81%B0&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 小右記 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8F%B3%E8%A8%98 >確か藤原一族で盲目だった事だけは確実です 眼病を患って失明寸前だったのは三条天皇のことではないですかね。 長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位し、後一条天皇が即位した。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。 三条天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

azuki-7
質問者

お礼

実資が盲目だった記述は無いのですね… 確か生まれつきの盲目だった記憶が… まぁ でも昔の記憶なので間違っていたかもしれません ありがとうございました

その他の回答 (1)

  • moonin
  • ベストアンサー率20% (77/382)
回答No.1

藤原実資です。彼の小右記に書かれています。

azuki-7
質問者

お礼

蹴鞠の達人 実資ですね でもちょっと違うような… 彼が盲目だった記述は無いし… 確かに道長の和歌は小右記に出てきますが

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