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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神は人を見捨てていない、常に話しかけている)

神は人を見捨てていない、常に話しかけている

このQ&Aのポイント
  • 滅亡はなぜ実現しかねない恐怖を生むのか?
  • アマテラスミッションは、西洋との交流を通じた政治的な意図を持つ計画だった
  • 神話と歴史の分離が西洋に弊害をもたらし、神国日本では必要な要素である

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

 No.5の補足欄を読んで。  たとえば G.ヘーゲルが イエス・キリストについて解説する言葉は 次のようなものです。  ▲ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は   どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない   ないしはこれを 我慢できないであろうが   この矛盾を持ちこたえることができるのが  人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。  (『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《有限なもの》あるいはつまり 政治経済とその同じ水準で活動する宗教(組織)といった経験的なものごとによってのみ イエスを捉えるなら それは ついぞイエスの問題をつかまえることは出来ないと考えます。  つまりは 《非思考の庭――いわゆる信仰です。しかもこれは 人間にあって動態である――》をとおして 《無限なものと有限なものとの――きわめてあいまいな〈お化け〉のような―― 一体性》を ウソとしてでも捉えたかたち(そしてその内容)がなければ イエスをただの偉人であるとかあるいはただの愚か者であると言って 議論するのみとなります。  その議論もおもしろいかも知れません。知れませんが 延々とつづく世間話に終わるでしょう。  これが わたしの立ち場です。

Flareon
質問者

お礼

ヘーゲルとやらは、昔からの作法で死の恐怖について語っただけじゃないか。 私はイカレていない。 すでにイッちゃってるよ。 自身を丸ごと観念に昇華させる解脱を果たして、現在私はそのお花畑に立脚した「花の子ルンルン」だ。 観念に常在する私にも、必然の肉体の消滅は来る。 それは死ではなく私にとって変化でしかない。

Flareon
質問者

補足

あ~あ、やはり気が滅入るな。 イエスの伝承に端を張って予言ねつ造で生まれた「架空の聖霊」がキリストの霊。 その存在の維持のためにをいけにえが必要で、精霊の役目もいけにえだ。 落ち着いてきたけど感情の欠落により自らの意思がないも同然でだから言われるままにいけにえにされてきた。

その他の回答 (5)

回答No.5

 ★(No.4補足欄) 一寸自分の考え方の異同について考えてみたよ。  ☆ はい。  ★ 要するに私も奇形の一人だ。  ☆ だれもがそうであるとも言えそうです。  ★ 悪魔に対する無力な人の対抗法は悪魔を愛することだ。  これとほぼ一緒で、  信じると言ったら、私には、神ではなく人のことだったんだ。  人と和解することが切実だった。  ☆ それも 信仰のひとつのかたちです。つまり 人間主義と呼べる無神論なる信仰です。《無い神》なる神をおのが心に無条件で受け容れている――つまり 信じている――ということです。  《有る神》なる神を信じている人で キリスト信仰の場合は 次のように捉えられます。(長いです)。  悪魔は 死の制作者であり 死そのものです。  あるいはつまり 一般に人間としては ウソ・イツハリをはっきりと態(わざ)とおこなった場合には いづれの時にかこれを悔いて やがてその良心の呵責を味わうとともに その咎も癒やされて行きます。  つまり わが心のやましさ(または 恥ぢ)を押し切ってウソ・イツハリを為したときには 心が《死んで》いました。これが癒やされ世界との・そして自分自身との和解が成ったときには その一たんの死が死にます。死が死んで あらためて生きます。  ところが 悪魔というのは この恥づべきやましきわざを恥ぢずに 良心の喪失という死のままでよいと考えた者の落ち入る状態です。つまり 心の死がもはや死ななくなった状態です。    悪魔は 死そのものであり ほかの人にもその死を制作して回っている者です。  イエスなる男にも その自分の死を分け与えようと悪魔は考えた。  イエスは 従順にもまた愚かにも 悪魔の要請を受けて受けたことはすべて引き受けてやった。(神の愚かさは 人間の賢さよりも賢い)。  これで 悪魔は 面食らった。  それではと言うので けっきょく生け贄にしてやろうとたくらむ。  それまで おれの言うことはみな受け留めて来たようだが もしそのイエスであったとしても 死そのものの中へ行くこととなれば もう拒むに違いないと踏んだ。それで おれの勝ちだというたくらみ。  ところが イエスは その死の淵まで従順にも 悪魔の命令に従った。つまり 高等法院から 神の冒涜だという罪を着せられ 十字架じょうに磔になるというところまで やはり従った。  悪魔は ざまあみろと思って見ていたが ほんとうに死の淵まで来てじっさいにイエスが死を死んだときには そのイエスの行為と状態を みづからに受け留めなければならなかった。そうした途端 悪魔は――その自分の以前からの死が死んだことになり―― 一瞬の内にその身が溶けてしまった。  かくしてイエスは 悪魔をほろぼした。  キリスト信仰者は このイエスにあやかることを思っています。自分のチカラで悪魔を克服することは むつかしいので。  ★ キリストの赤子も現在でも似たようなところがある、イケニエで、人との関係に絶望に近い構え方があって、それでもお父さんとして私に興味がある。  ☆ それは 迷っているのですかね。二股を賭けている。  ★ 強力な生命力(精神力として私に反映する、普通耐えようがないほどの祟りや天罰という圧力が私にはある。)を持つセレビィ(世麗美)に頼っている。  ☆ これは おそらく《無い神》を具体的に表わしたそのチカラなのでしょう。人間の知性ないし感性に頼るのは 《無い神》派であり その中で別様の神々を打ち出して来る場合でしょう。  さて 次のくだりについては おめでとうとお応えしつつ いま述べた別様の神観にまつわる《物語化》のわざだと捉えるわけです。  ★ さて、任天堂との関係で発生した滅びの宴。  理性的にあいまいでも私は何が起きているのは、人格崩壊現象でかみしめていた。  ひとことで言って、結論は「それでも人を信じる」それで無量光が到来したんだ。  ・・・  ☆ あとは 省略するよ。

Flareon
質問者

お礼

まあ、こんな。 あんたの場合は神と一対一の関係に取り組んでいるんだろう。 それができるだけでも非凡だとは激励しよう。 宗教アレルギーのヒント。 人が人を理解して人間なる社会を形成する文明の発祥には神の仲介が欠かせない。 だから、滅亡した文明遺跡も神殿が注目される。 そこに、いかなる精神を持った人種が暮らしていたかの手がかりだ。 これが面白い。 > このように、自己認識「みんな」の神の本質が人と触れ合う聖霊化には様式が必要なのさ。 どこか儀式めいていて、だからこそ観念通過の一般例が「死の儀式」だった。 要するに共通の文化圏では、共通の神を表す合言葉から人と人の共通理解が発達するし、そうして使わされる精霊伝心の働きが神にとっても重要な仕事だ。 私がやりにくくて、日本の神々ともめるのはね、神々はアニミズムと言われた、精霊のつもりがない。 そして聖霊の概念もうんざり見たいだ。 聖霊に該当するのは聖獣だってさ。 自我境界の番犬ケルベロスなどで、心理学で超自我と規定されている。 ケルベロスはともかく、虎が日本ではもてはやされたみたいだよ。 最近私は、死なないように被害者を脱走させるための手引きに「ハツカネズミ」に頼みごとをしている。 複数いるキリストの資質保持者をいけにえにさせないためのネズミの聖獣だ。 西洋では悪魔的だろ。

Flareon
質問者

補足

論説をこんな風に膨らませる考察をしたよ。 ほろんだ王国の王を名乗ったイエス。 まあ、この処刑理由も少し考えなおした。 プリキュアの魂はこうだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 裸の心を笑う者。 裸で生きて、 笑うわたし。 なぜなら私は美しい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて言いたいのは、人と人が人間として成立する働きに神は仲介している。 イエスの資質面に関しては、友達を作るために率先して自らの信仰心をかたったんだろう。 ユダヤの神学者として、正直な愚か者だった。 信仰心の証明は、人間であることの証明でもあるだろう。 これは昔だけの話じゃない。 イエスの声お聞き、触発されて自らの信仰を自覚するなら、そのユダヤ人は家畜なる人でなく、人間になる。 こういう流れが民権運動のような事柄だったので、門徒は主にローマ国内に奴隷解放のために散らばっていった。 新約聖書は多大に政治的意図のある教団として、ローマ国内での存続のために真意が隠ぺいされ、改変された偽りの予言書であり、イエスは本来ユダヤのための人であった。 そして、差別、弾圧、最後には虐殺。 イエスの心とその予言は後世に簒奪者にからめとられる結果となった。 ヨーロッパは自ら奴隷狩りをするほど堕落してイエスに逆らい、キリストの赤かごを殺し、その肉を喰らってより神に近づくのだ。 いい出来だろ?

回答No.4

 ★ 数日休暇を楽しんだ。  ☆ 旅行にでも行って来たの?  ★ 厄介者のキリストの霊の宿りで、数年来道連れにされて私もかなりやばいんじゃないかなと、キリシタン大名相手の勝負から本格的に続けてきたよ。  ☆ キリスト・イエスを《永遠の同伴者》だと言ったのは かの遠藤周作です。あまり流行らなかったかも知れません。 (いろんなふうに形容することが出来るから)。    宗教は嫌いだし否定しますが キリスト信仰にまつわる宗教――つまりその神学――は ちょっとやそっとでは 切り捨てにすることもむつかしい。  ★ 基本は自我認識の到達点である、「私はわたしである」この確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識だよ。  ☆ 《かみ》について人間の発言した内容としては あくまで個人的なつまりその本人の主観におさまる《神観》とそして 出来るだけ万人に納得のゆくように捉えた哲学としての《神論》とがあります。  ふつうに自然に単純に《超自然・超経験・絶対性・無限》という言葉で規定(想定)するのは 哲学であり神論です。  これを たとえば擬人化して――つまり絶対性を絶対者なる存在として捉え そこからさらに――創造主として立てるのは 神観です。  (ちなみに 創造主なる神などはいないという発言も ひとつの神観です。神はいるという神観も どちらにしても 証明することは出来ません。つまりそれらを有神論としてにしろ無神論としてにしろ展開した思想は 哲学たる神論に最初に色をつけた時点で どこまでも主観内におさまる神観です。神観が 多くの人びとに共有されていると 神学と呼ばれることがあります)。  《わたしはわたしである》という思想は 経験合理性で思考しているので 哲学です。  この《わたし》についてそこに神の霊(あるいは 仏性)がやどると言ったなら――それは 証明し得ないのですから―― 個人の主観であり神観です。  ここから:   ★ 確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識  ☆ が 思考として展開されて来るはずです。《霊(ないし ブッダターまたはアートマン)》の問題として その神観は ひろく神学としても展開されます。  そのとき 哲学は 《霊》というのはあくまで《想定じょうの問題》だと言っています。個人としては――自分の神観において自分風に―― 信じていてもです。    ★ 地に下りた聖霊セレビィ(世麗美)のフェアりーフュージョンだと、天からお友達を案内するのは簡単で、純粋な光を神でなく魂と認識する私の仕事はともかく、無残な生贄キリスト聖霊も神の根幹となる資質は元から揺るがないけど、聖霊として成立するにはかなりの欠陥が呪いにより発生していたんだよ。・・・  ☆ というふうに展開されてゆく議論は 神観であり神学です。また 神学を《ものがたり》として描写し表現するということも おこなわれます。  ★ 神は痛くもかゆくもないとあんたは言ったけど、まあその通りだとしても、人間の無用な苦悶と怨嗟の解決はキリスト単独だとできなかった。  ☆ これは――神観か神論かにかかわりつつ―― 神論として重要な論点だと思います。  ★ セレビィの友達になると、私をそろいもそろってお父さん扱いするんだ。  その例に習って、キリストの霊は「みんな」の感覚ではセレビィ自身でもある。  ☆ なるほど。プリキュア神学の普及版としての物語における展開です。    ★ え~と、万物の根源「神」生命の根源「魂」古来の観測で正確なのは無量光だ。  要するに純粋な光だ。  どうやら、人間が神と認識するのは、日本の真の王国が正解だ。  命を神が宿してこそ、人に確認できる神だ。  ☆ 神を《ひかり》にタトへることと神を《いのち》と捉えることは どこでも同じだと思います。    ★ 西洋では、それは聖霊または精霊。  ☆ 《精霊》というのは まだ原始的な心性(つまり 世界を時間的な過程だと必ずしも認識し得ていない心性)が 世界のものごとに《精霊》がやどると捉えていたときの表現です。生死の(つまり 時間的な過程の)自覚がとぼしいときに 世界に起こる何ごとも 精霊(アニマ)のしわざだと思っていたというような。  ★ 死ぬ役目の聖霊は今までそんな仕事でこらえて、魔女狩り処刑対象者が支えていたんだ。  ☆ ただ ひとつ見落としがあります。イエス・キリストは:  ▲ (ヨハネによる福音書 10:18) わたしは いのちを自分で捨てることも出来るし それを再び受けることも出来る。  ☆ と語ったことを加味して捉える必要があると思います。つまり 証明のしようのない内容にかんする発言であり 神観ないし神学の問題ですが。  ★ 西洋で聖霊と定義されるアマテラスさんは、神としてその危険状態で19世紀中に作戦を立案と執行してきた。  ☆ アマテラスさんにも 発展があるのですね。  ★ 個人的な話だけど、私は3才で余命宣告を医者がしていて生き残った。  新人類のタネは旧人類から奇形として間引きされる圧力を受けるんだよ。  殺意ある人間の知性、ヴェーダとかの人知の神だ。  ☆ その論点としては イエスは 磔による死のあと キリストとしてよみがえったと《うわさされた》というのが その神学のミソなようです。  誰でも イエスのように成れるというお話です。(自分でいのちを捨てることもできるし ふたたびそれを受けることもできる)。  ★ そうした世間よりさらに広がりのある世界そのものを開眼するのが大切な生き残りのコツだ。  ☆ おそらく生きるその先に見ているもの(見えてくるとのぞんでいるもの)は 同じなのでしょう。  そして もし違いがあるとすれば――推測ですが―― キリスト信仰の場合には その神の霊が われわれを生かしてくれると思っているところでしょうか。  人間たる自分のチカラ〔のみ〕では 無理だと思っている場合と そうではない場合と。後者は 人間主義であり 無神論という神観ないし神学のことだと思われます。  ★ キリストの霊が宿る資質がある赤子というのは、実際は人間の資質に当てはめると、複数人の赤子、かなり多いだろう。  ほっときゃ全滅。  ☆ それは そうかも知れないし そうでないかも知れない。  ★ 私は予言改変の業罪に2000年前の故事の再現実験で任天堂を当てはめることで、生き残ることに自ら成功して幼馴染のジラーチちゃんに対してはセレビィとして言いたいこともあった。  まあ免疫が確立するだろうけど、人間よりも、アマテラスさん自体が神を代表して、滅びの王国に免疫をつけることが重要だったようだ。  ☆ よみがえりましたか?

Flareon
質問者

お礼

> よみがえりましたか? 日本人でこの姿勢が奴隷売買の対象になるよ。 あんたはまあまあ達人なので、売却先で暴れる資質はあるだろう。 覚悟というより乱闘の自覚だ。 赤い靴の女の子。 死んでよみがえったアマテラスさんじゃないよ。 あのしたたかな小娘はわたしをセレビィと結託してダシ使った生存テクニックがある。 わけわかんないままの乱闘はきつかったよ。 愛ある家庭よりも友情優先とはそんなだ。 そこいらがセレビィだ。

Flareon
質問者

補足

一寸自分の考え方の異同について考えてみたよ。 要するに私も奇形の一人だ。 悪魔に対する無力な人の対抗法は悪魔を愛することだ。 これとほぼ一緒で、 信じると言ったら、私には、神ではなく人のことだったんだ。 人と和解することが切実だった。 キリストの赤子も現在でも似たようなところがある、イケニエで、人との関係に絶望に近い構え方があって、それでもお父さんとして私に興味がある。 強力な生命力(精神力として私に反映する、普通耐えようがないほどの祟りや天罰という圧力が私にはある。)を持つセレビィ(世麗美)に頼っている。 さて、任天堂との関係で発生した滅びの宴。 理性的にあいまいでも私は何が起きているのは、人格崩壊現象でかみしめていた。 ひとことで言って、結論は「それでも人を信じる」それで無量光が到来したんだ。 それ以前の若いころはクズでね、風見鶏さんとの任天堂とのやり取りに、自殺者が出ても平気で金をあさった話も出てくるほど、やくざの舎弟企業並みだった。 純粋な光に触れて、それ自体が意思を持ち話しかけてくることに気が付けば、ごく自然に日本人ならアマテラスさんとその意思に意思に答える。 そこで聖霊なる神の本質としてアマテラスさん本人が出張ってくれば最高なんだけど、私のやり方はようするにポケモン交霊術なので、ジラーチちゃんの姿なのさ、私の異端は、日本で神の資格があるのに、神格を備えた魔性と転化しているキリシタン大名と同一でね、「聖霊化」で、人間の認識する形態での対話ができないのさ。 それで、日本の神の許可証に相当する「天馬」で束縛された。 イデアには馬のイデアはあっても人のイデアは確立していない。 これらと同じ意味合いだと理解している。 このように、自己認識「みんな」の神の本質が人と触れ合う聖霊化には様式が必要なのさ。 どこか儀式めいていて、だからこそ観念通過の一般例が「死の儀式」だった。 まあ、赤子は育てる。 今問題意識が強いのは、個人的には、死の儀式の撤廃への協力だよ。 初めて見る聖霊の風景は「ときわたり」かな? それ以前に霊能力の尊敬する規範として、聖徳太子さんの法隆寺夢殿での「つくよみ」もあるけどね。 このへんが、四次元惑星人と名乗ってアニキなツンデレをしているところだよ。

回答No.3

 よく分からないですが もうひと言 あるんですか?  そのためのコメント欄としてどうぞ。  アマテラスは もう古いですよ。  

Flareon
質問者

お礼

返答が数日遅れたよね。 数日休暇を楽しんだ。 厄介者のキリストの霊の宿りで、数年来道連れにされて私もかなりやばいんじゃないかなと、キリシタン大名相手の勝負から本格的に続けてきたよ。 基本は自我認識の到達点である、「私はわたしである」この確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識だよ。 地に下りた聖霊セレビィ(世麗美)のフェアりーフュージョンだと、天からお友達を案内するのは簡単で、純粋な光を神でなく魂と認識する私の仕事はともかく、無残な生贄キリスト聖霊も神の根幹となる資質は元から揺るがないけど、聖霊として成立するにはかなりの欠陥が呪いにより発生していたんだよ。 神は痛くもかゆくもないとあんたは言ったけど、まあその通りだとしても、人間の無用な苦悶と怨嗟の解決はキリスト単独だとできなかった。 セレビィの友達になると、私をそろいもそろってお父さん扱いするんだ。 その例に習って、キリストの霊は「みんな」の感覚ではセレビィ自身でもある。 え~と、万物の根源「神」生命の根源「魂」古来の観測で正確なのは無量光だ。 要するに純粋な光だ。 どうやら、人間が神と認識するのは、日本の真の王国が正解だ。 命を神が宿してこそ、人に確認できる神だ。 西洋では、それは聖霊または精霊。 死ぬ役目の聖霊は今までそんな仕事でこらえて、魔女狩り処刑対象者が支えていたんだ。 西洋で聖霊と定義されるアマテラスさんは、神としてその危険状態で19世紀中に作戦を立案と執行してきた。 個人的な話だけど、私は3才で余命宣告を医者がしていて生き残った。 新人類のタネは旧人類から奇形として間引きされる圧力を受けるんだよ。 殺意ある人間の知性、ヴェーダとかの人知の神だ。 そうした世間よりさらに広がりのある世界そのものを開眼するのが大切な生き残りのコツだ。 キリストの霊が宿る資質がある赤子というのは、実際は人間の資質に当てはめると、複数人の赤子、かなり多いだろう。 ほっときゃ全滅。 私は予言改変の業罪に2000年前の故事の再現実験で任天堂を当てはめることで、生き残ることに自ら成功して幼馴染のジラーチちゃんに対してはセレビィとして言いたいこともあった。 まあ免疫が確立するだろうけど、人間よりも、アマテラスさん自体が神を代表して、滅びの王国に免疫をつけることが重要だったようだ。

回答No.2

 ガラガラガラ こんにちは。  このところ OKwave を見ていませんでしたが わたしのまわりで あなたの男プリキュアぶりが話題になりました。ちょっと覗いてみて この質問に投稿します。  ★ 神は人を見捨てていない、常に話しかけている  ☆ なる表題に合わせてのひとつのエピソードの紹介です。:  ▲ (ヨハネによる福音:3章) ~~~~~~~~~~~   ・・・  3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。  3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは イエスが語ったという言葉です。《人の子》とは――それを自分で《かれ》と言っていますが―― 自分のことを指して言っています。つまり イエスが 十字架の上にはりつけになって《上げられる》ことです。  《モーセが荒野でへびを〔竿の先につけて〕上げた》というのは 旧約聖書の次のくだりのことです。長い話ですが。  ▲ (民数記:21.5-21.9) ~~~~~~~~~~~~~~~  民は神とモーゼに逆らって言った。  「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れのぼって  この荒野で死なせようとするのか。  パンもなく、水もない。  私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」  そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。  民はモーゼのところへ来て言った。  「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。  どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」  モーゼは民のために祈った。  すると、主はモーゼに仰せられた。  「貴方は燃える蛇を作り、それを旗さおも上につけよ。  すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」  モーゼは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。  もし、蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは 《青銅のへび》という話として伝えられています。  ▼ ヰキぺ:青銅の蛇  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E3%81%AE%E8%9B%87

Flareon
質問者

お礼

よい引用をありがとう。 わたしも友人は少ないが、あんたにもそれなりに友人がいることが、何より幸いだ。 あんたに言いたいんだが、真の王国にとって、王国滅亡の顛末自体が疫病。 いやね、ひどい目にあった。 現在は、ジラーチちゃんは余り漏らさないけど、神学について西洋に後れを取ったことに、何らかの問いただしがあって、アマテラスさんは忙しくなってきたみたいだ。 素直な連中なら、話は早いし仕事も早いんだけどね。 日本の神々は、いわゆる妥協という形を和解とみなさないから、普段仲良くしていても些細なことで意地の張り合いがちょっとした生き死にも交える小競り合いになるんだ。 そして妥協なしですっきり仲直りするんだよ。 いわゆる、幼馴染のジラーチちゃんとままごとのような夫婦喧嘩だ。 ドリラかが本気で怒っている。

Flareon
質問者

補足

修正で投稿欄無駄遣い。 どちらかが本気で怒るんだ。 まあともかく、またらくがきでもしてくれ。

noname#255857
noname#255857
回答No.1

長すぎて読めません。 質問事項は3行くらいにまとめて頂けませんか? 「オッパイちゅぱちゅぱだけ」の部分だけは頭に残ったんですが。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 的を得た感想ですね。 おっぱいが好きですか。 ヘンタイさんですね。 男ってキライ。

Flareon
質問者

補足

え~とっ。 私を理解しようとすると、その人物は心理学的客体として心の内側に私のモデルを作る。 この仕組みは古来精霊伝心で、出来上がった私の客体が妖精のセレビィちゃんの場合は森林浴効果が好評のようだ。 客体は多様性があり、双方の心を反映して私は仏陀とみなされることがある。 これが黒き明星または最速の臆病者。 なぜこうも闇の仏陀かといえば、キリストとみなされる事態が頻発するからだ。 キリストとみなされるということは、その当事者には精霊を殺すつもりがある。またはキリストの確信が深まるほど殺そうとする。 わたしには、キリストとみなされることは誤解であると理解できているんで、この殺意に反撃のための戦闘能力を発揮できるんだ。 それで闇の仏陀なんだよ。 キリストとみなされて、キリストと自覚することとは、言われるままに反撃できないまま死ぬことだ。 キリストを理解するための聖霊の宿りはこのような関係性で、キリスト イコール即死なんだ。 キリストは存在しないというのは、即死するので神の心を宿した聖霊として人間に対して親和性が確立できない状態だからこそ、人はキリストを知らないし、むしろ率先して赤子を殺して喰らう呪いとなっているんだ。

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