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鷹狩りの殿様のおやつ
三成のサンケン茶がNHKに出てきてふと疑問に思いました。 殿様が鷹狩りや野駆けをする場合、近習が殿様のおやつを持ち運ぶのでしょうか? 信長なら味噌球に糒とか秀吉なら割り粥用の米とか。 寺なら茶葉くらいあるでしょうが、殿様がふと立ち寄った先で飲む茶は近習が持ち歩いてるのでしょうか?
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NO5です。追記、追記で申し訳ありません。 寺院や農家に大名・将軍などが立ち寄ったり、宿泊した場合、多くは金品・服・品物などを下賜するのが普通の事でした。NO5で上げた『御実記』の記事の中にも、享保19年2月2日に「東海寺にて-略-現住に物賜ふ。事例のごとし。」、19年2月19日に「護持院の-略-住持主真に*時服銀下さる。」とあります。ここで「事例のごとし。」とあるように、返礼の下賜品は先例・慣例があり、それに沿って下賜したようです。また、「事例のごとし。」なので、他の寺院、農家にも例による下賜品があったと想像されます。 大名の例ですと、金品・服などの定番の下賜品だけでなく、大名が身につけている品、大名が自ら描いた絵画、自製の短歌などを大名自身が染筆した短冊などを下賜することもあります。大名が宿泊、立ち寄った部屋を公開しているところでは、そのような下賜品も公開しているところもあります。下賜の金品は見たことがないので、使ったのでしょうが、服についてはあり、絵画、短冊などは残ることも多いようで、公開例も多いようです。 菓子についてですが、立ち寄り先には事前に通知があり、数日前から係の役人が出張ることもあるので、事前に打ち合わせはするでしょうが、当日提供するかどうかは別として、最小限茶菓の接待ができる用意だけはしていたでしょう。また、茶弁当持参なので、茶用の菓子は持参したことと思います。 さて、『徳川御実記』の中の□ですが、今海外にいるため、国会図書館のデーターベース(デジタルコレクション)を利用させてもらっています。ただ、画数が多い漢字は活字が潰れて、判読ができない場合があります。それが□の部分です。蛇足ですが、大きな図書館には『徳川御実記』がありますので、必要ならば各図書館の検索画面で「国史大系 徳川御実記」(より正確には「国史大系 徳川御実記」の中の『有徳院殿御実記』)で蔵書検索をかけ、あるようならば実際に閲覧できます。参考図書の扱いで、館外持ち出し禁止図書であることが多いのですが、棚に並べられている図書であることがほとんどなので、閲覧は簡単にできるはずです。レファレンスサービスに手伝ってもらう方法もあります。 *時服=ここでは、時候にあった衣服のこと。
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- fumkum
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金品と短冊などですが、金品・服(生地の場合が多いようです)が定番で、殿様が気に入ったり、興が乗った場合などに下賜するようです。ただ、大名側も財政状況が悪くなると、金品・服などの費用の掛かる物でなく、短冊や絵などだけでごまかすことが多くなるようです。 酒についてですが、『村越筆記』という史料に、次のようにあります。 「鶴の御成」という寒の入りの後に行われる、最大、最高の鶴を狩るための鷹狩が行われますが、その時に、「膳所に於て菰樽二丁の鏡をぬき、鶴の血を絞り入れ、従者に給はる例なり。」とあります。この時に狩った鶴は天皇に献上されるほどの行事で、儀式的な要素も多いものです。ですから何か先例・慣例があったようです。 鶴の御成はほぼ旧暦の11月に実施されますが、NO5での御酒は2月で、獲物も種類が分かりませんので、関連性は不明ですが、酒に関する記述があったので参考まで。
お礼
fmfm、こんなところにも時代と共に大名側の窮乏が現れるわけですね。 鷹で鶴狩りってのもなかなか無茶な企画ですね。弱らせた鶴を用意するとかなにかやったんでしょうね。ご回答ありがとうございました。
- fumkum
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NO5で回答した者です。追記を。 茶ですが、「茶弁当持1人 茶道具一式と弁当 水荷物1人」とあり、茶道具と水があるので、当然茶も持参であるはずです。なお、茶は抹茶です。外出先なので、野点(のだて)形式で点(た)てます。
- fumkum
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『徳川(有徳院殿-吉宗)御実記』の中で、享保18年10月から19年3月までを開き、鷹狩関連の記事を列記すると、次のようになります。(*日付は原文では漢数字。また、判読できない箇所は□で表示。) 18年10月16日=松平(*伊達)陸奥守吉村より黄鷹五連を献る。 18年10月23日=戸沢上総介正庸黄鷹一。松前志摩守邦広六を献ず。 18年11月6日=中川のほとりに御狩あり。菱喰を射とらせ給ふ。南蔵院にて昼のおもの(お食事)まひらす。 18年11月12日=尾(尾張)邸より鶴を献ぜらる。 18年11月21日=葛西の地に御狩あり。鶴からせらる。鴻鴨を射とめ給ひ。中台院にやすらはせらる。 18年11月22日=大内(天皇)に鶴を進せらる。 19年1月19日=-略-大納言(*家重)殿千住のほとり御狩あり。伊奈半左衛門(*俗に関東郡代)が小菅の別墅(*別荘)にいこはせ給ふ。 19年1月21日=瀬崎のほとりに御放鷹あり。御弓にて雁□など射とらせたまふ。農民五郎右衛門が家にて昼のやすらひあり。 19年2月2日=品川のほとりにて御狩あり。御みづから鶴□など狩得られ。東海寺にて昼餉(*昼食)きこしめさる。現住(*現在の住職)に物賜ふ。事例のごとし。 19年2月19日=巣鴨のほとりにて猪を狩らせ給ふ。大塚の護持院にいこはせ給ふ。住持主真に時服銀下さる。 19年2月22日=巣鴨の御狩に鳥射たる番士賞賜例のごとし。 19年3月4日=中野に追鳥狩あり。御狩場にて番士の大的を御覧ぜらる。 19年3月6日=大納言殿中野にて追鳥狩あり。 『徳川御実記』の記述は、簡潔で、短文のことが多いという特色があります。将軍や世子が鷹狩に出ても、昼の休憩所を記載したり、しなかったりするなどの違いが出ますが、たった半年の中で将軍が6回、世子家重が2回の計8回鷹狩などの狩に出ています。この内、昼の休憩・食事所として寺院が4回、農民の家が1回、俗に関東郡代と呼ばれた伊奈半左衛門の別荘が1回、記載なしが2回となります。この内伊奈半左衛門は、関東郡代(実際は関東代官)の職掌の中に狩場の管理があることにより、将軍・世子などの狩に供奉しています。その職掌もあって、狩場の近くの小菅に別墅を持っていました。 農民の家についてですが、さすがに突然立ち寄ることは珍しいものの、庄屋クラスの家には立ち寄ります。大名によっては領内巡視の途中で農民宅に泊まることもあります。地方に行くと、今でも大名が泊まったり、立ち寄ったりした部屋を公開している家もあります。このような場合、全部ではないのですが、食事、湯茶の接待も行われます。当然毒見をしたこととは思いますが。大名や将軍が宿泊・立寄り・飲食の接待等は農民にとって大変名誉なことで、末代までの誉と認識されています。ですから、可哀そうとか、ご法度、儒教精神などの事はありません。何事も度を過ぎれば、問題にもなりますが。 突然立ち寄ることもあったのは、かの「密夫-みっぷ-大名」「強淫-ごういん-大名」の井上正甫のように、同僚大名の下屋敷での小鳥狩で迷い、農家に水を求めに入り、そこの若妻に暴行に及んだという話(実否は当然不明)もあるので、状況によりあったことだとは思います。 また、享保3年2月19日の、『徳川御実記』の中に、「木下川の辺に御放鷹あり。-略-浄光寺にて御供の布衣以上より従士にいたるまで御酒下さる。」とあり、将軍から酒がふるまわれたようです。 なお、『江戸と座敷鷹』というページがあって、江戸時代の事柄について丁寧に記述しています。参考になります。 江戸と座敷鷹 http://sito.ehoh.net/takabaseido2.html ただ、「鷹狩随行員」の中の、「享保3年正月26日の鷹狩」は、『徳川御実記』では翌日の27日の事として、「小松川の辺に御かりあり。中台院にやすらはせ給ふ。」とあります。『徳川御実記』と他の史料で、日付のづれはままあることなので、どちらが正しいかは分かりませんが、一行100ほどの将軍の鷹狩はあったことだと確かだと思います。 将軍の飲食に関わる者は、小姓・小納戸・奥坊主ですが、主は小姓で、飲食の給仕をします。茶弁当持、水荷物、丸弁当持なる役割があるので、飲食物は持参だったようですが、寺院で休憩しているので、ここで飲食をしたものと思いますが、寺側が提供したかどうかは判然としません。上記の実記の記載にも「昼のおものまひらす。」「昼餉きこしめさる」とあるので、飲食物を出したとも考えられます。 なお、挟箱持がありますが、この中身は一般に着替えなどを入れます。「享保元年以降は将軍以下すべて股引半纏草鞋履き」とあるので、将軍も「股引半纏草鞋履き」なのでしょうが、その格好で帰城道中をするとも思えません。鷹狩の服装については、織田信長も農民のような服装で、獲物に警戒心を抱かせないようにしたとする史料もあるので、同じような考えなのかもしれません。 以上、参考まで。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、fujic-1990の回答・・・と言うよりも、鷹狩りを知る上で「徳川実記」は正しい。(私も読んだことがあります)。 さて、本題。 >>近習が殿様のおやつを持ち運ぶのでしょうか? ★回答から先に述べますと、・・・はい、すべて持参しました。 *ただし、ここでは「将軍」に限ってお話をさせていただきます。 *順を追ってみましょう。 ★「鷹狩」の決行日は事前に決めていた。 *鷹は(人間でもそうですが)夏の暑さと冬の寒さには弱かった。 *となると、「春」と「秋」ということになりますね。 *将軍が政務の途中で、「ああぁ、書類、書類で嫌になった。鷹狩にでも行くか」などは、例え将軍であっても許されない。 *将軍が鷹狩を所望すると、近習(側用人とか小姓 etc )が、まずは「天文方」を呼び、いわゆる「天気予報」をさせ、できるだけ「晴天日」を決めて将軍に上申する。 *決行日が決まると、各役職へ通達が出される。(一例) *膳奉行・・・食物の調達。将軍が市井の食べ物を食することは「絶対にない」。 *もし、近くの農家などで「毒」や「腐った物」を提供されては一大事。 *また、「御狩場」は江戸府外にあり、全てが農家と言っても良い。→農民は年貢などの税を納めている。→そのような貧しい暮らしの農民などから、さらに食物などを提供させては可哀そうだ。→つまり、将軍といえども気軽に立ち寄って「飯を食わせろ」は絶対的に「ご法度」。→儒教の精神に基づく。 *また、将軍の鷹狩ともなれば千人近い従者がいるので、この者たちにまで、すぐさま食事を饗応することは不可能。 *ここであなたの疑問が少し解けましたでしょうか。 *後でもう少し詳しく述べます。 *町奉行・・・(吉宗の場合)。火除地となっている場所では、空き地を利用して「見世物小屋」「芝居小屋」などが無断で利用されていた。幕府も庶民の文化向上を考え、普段は見て見ぬ振りをしていたが、鷹狩の日が告げられると、見世物小屋などは一斉に排除させられた。それこそ「藁」一本さえ残らないように、綺麗に清掃をさせられた。だから見世物小屋などは木組みに莚(むしろ)を掛けたような「粗末」な小屋だったのです。つまりは、折り畳み自由。 ★鷹狩は「軍事行動」の一環。 *天下泰平になると、武士の間でも武術よりも三味線や唄などの娯楽を求めるようになってしまった。 *お城勤めの者たちも体力が「なまって」しまった。 *そこで、体力の鍛錬のために「鷹狩」と称して「軍事訓練」のマネ事をした。 *軍事訓練では、仮想の「敵」を「うさぎ」や「鳥」などに見立てた。 *当然、有事(戦)を想定しているので、戦場と同じ状態で「出陣」をした。つまり、陣笠、陣羽織、etc。 *従って、食糧(米、野菜、etc)はもちろんのこと、陣幕、鍋、釜、果ては、殿様用便器まで持参しました。 *将軍の食事は、朝食は普段と同じくお城で食した。 *将軍は朝6:00に起床をするが、食事、医師の診察、御台所とのご機嫌伺い、仏間での礼拝、などの恒例事をしてからの出立であるので、およそ(早くて)11:00頃であった。 *また、御狩場へ到着するまでには、どこの御狩場にするかにもよりますが、およそ一刻(2時間)位はかかった。 *到着と同時に小者たちは、すぐさま、薪拾いを始めて食事の支度を始めた。 *そして、あなたのおっしゃる、およそ八ツ刻(午後2:00)頃に、将軍から小者にいたるまで「軽食」を食べた。 *これを「おやつ」とは言わず「小昼」(こびる)と呼んだ。 ★「膳奉行」「賄頭」「膳所台所頭」の采配。 *決して特別な物を取り揃えた訳ではない。 *ただし、生魚などの「生物」は厳禁。主に「野菜類」「豆腐」などが中心。 *しかし、その量は半端な量ではなかった。 *普段は将軍にだけに食事を作っていれば良かったが、足軽、小者、あたりまでの千人近くの人数分を取り揃えなければならなかったので、御膳所と呼ばれる勝手場は、まさにうず高く野菜類が溢れかえった。 ★お鷹狩の様子。 *fujic-1990 さんの回答にもあるように、鷹が獲物を獲ってくるだけではない。 *軍事訓練も兼ねているので、色々な「組」が、主に、「槍」で獲物を仕留める訓練も披露する。 *その間、将軍は高台で酒をチビリ、チビリ、・・・はなかった、と思います。 *勢子役と呼ばれる小者たちが、その土地の男連中をも駆り出して、前日に「うさぎ」「狐」「鳩」「すずめ」などを御狩場に追い込み、周辺に杭を打ち綱を張る。そして、数十人で取り囲んで、徹夜で見張りをする。 *しかし、所詮は「気休め」でしかない。 *さて、いよいよ将軍が放鷹となるわけですが、獲物が獲れなくては恥をかいてしまう。そこで、草むらの随所に勢子役が、前日に「うさぎ」「鳩」「雉」などを捕まえて手に持って隠れている。 *将軍が放鷹をすると、近侍が声を発する。何と叫んだかは不明。 *それを合図に、勢子役が「うさぎ」を放つ。見事、鷹がうさぎを捕まえる。 *二回目、今度は合図と同時に「雉」を放つ。見事、獲物が捕らえられる。 *とまあ、「うさぎ」「鳩」「雉」などの順番はどちらでも良いのですが、将軍の鷹が獲物を仕留めると同時に「ウオォ」という歓声が起きる。 *将軍はご満悦で上機嫌となる。 >>寺なら茶葉くらいあるでしょうが、殿様がふと立ち寄った先で飲む茶は近習が持ち歩いてるのでしょうか? はい、茶葉も持ち歩きました。 ★3代将軍家光が京都「宇治」の茶葉を気に入り、わざわざ「宇治」から将軍家専用に茶葉を運ばせました。これを「お茶壺道中」と呼びました。この「お茶壺道中」は15代将軍慶喜まで、つまり、幕府が幕を閉じるまで続きました。 *「お茶壺道中」は非常なまでの「権威」があり、この「お茶壺道中」と大名行列が出くわした場合は、どんなに威張っている大名でも駕籠から降りて道を空け、道端に寄って頭を下げなければなりませんでした。家臣は平伏でした。 *従って、将軍(や、御台所など)はこの宇治の茶しか口にはしませんでした。 *ただ、この宇治の茶葉は、将軍、御台所、大御所、母君、子ども、側室、などは超一級の茶葉。 *二級からは、将軍家のゆかりの寺社(増上寺、寛永寺、日光東照宮、etc)などに配られました。 *お寺では、どのような理由があるかは、私の勉強不足で解りませんが。庫裏(くり・僧侶たちの私的な場所)には、囲炉裏や火鉢などで常に土瓶に「お湯」があった、と聞きます。 *従って、急に立ち寄っても茶葉は持参の「宇治の茶葉」を僧侶に手渡して茶を淹れさせることはできたと思います。 ただ、基本的には、将軍はよほどの体調不良とかがない限り、民家(寺なども含め)などへ立ち寄ることはしませんでした。 *「暴れん坊将軍」などのように気安く庶民と接することはありませんでした。 *それが、かえって「権威付け」の証しでもあったのかもしれませんね。 *krya1998さんの「お花茶屋」は、確かに「事実」のようです。 *「目黒のさんま」は、落語のためだけの「創作」です。
お礼
歴史作家さん、いつも拝見しています。 「お茶壺道中」、うーん肥大化した江戸幕府らしいですねえ。 戦国時代と比べていろいろ堅苦しそうです。 全員で一斉に「小昼」を食べてる姿はある意味のどかでしょうねえ。 平時の軍事組織がどうなるかを垣間見るようで面白いお話です。 ごかいとうありがとうございました。
- ichikawa2017
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>殿様が鷹狩りや野駆けをする場合、近習が殿様のおやつを持ち運ぶのでしょうか? おそらく間食用の食料など持ち歩いてはいなかったでしょう。 何時の時代かで違いますが鷹狩というのは人里離れた山間僻地で行われてはいませんでした。 鷹が獲物を採り易いように見通しの良い平地で行われていました。 近隣に必ず人家や社寺がありますので休息時にはそこを使いました。 土地の人間にとってはその土地の支配者が来訪することになりますので食事やお茶などを献上します。 このようなことが無いというのは支配権が及んでいないということになりその方が問題視されました。 >殿様がふと立ち寄った先で飲む茶は近習が持ち歩いてるのでしょうか? お茶がなければ白湯を出していたでしょう。 燃料そのものが貴重品でしたので暖かいお湯というのはそれだけで充分饗応の役割を果たしました。 これは燃料が廉価に入手できるようになる明治時代まで続いていた習慣です。 三成の三献茶の話も有名ですが、小松菜にも下記のような逸話があります。 なんで小松菜って言うの?:江戸川区公式ホームページ www.city.edogawa.tokyo.jp/smph/san_jigyosya/nogyo_suisan/han... 抜粋 それにはこんな言い伝えがあります。 享保4年(1719年)、将軍徳川吉宗が、鷹狩の際、香取神社(中央4丁目5番23号 旧西小松川村)に立ち寄られました。 そのときの神主、亀井和泉が、これといって差しあげらるものも無かったので、餅の澄まし汁に青菜を少々いろどりにあしらって差し出すと吉宗公はたいそう喜ばれて、「この汁の菜をなんと申すか」と訪ねられました。 返事にこまった神主に「それではここは小松川だから小松菜と呼べ」と命名したということです。 現代でも有名な「目黒の秋刀魚」も似たようなお話です。 蛇足 江戸時代に鷹狩を好んでやっていたのは家康、家光、吉宗でした。 犬公方と呼ばれた綱吉はむしろ禁止していました。 江戸時代中期以降の将軍は江戸城とは目と鼻の先にあった護持院原(現在の靖国神社の境内)でチョコチョコとやって済ませていました。 原っぱの端から家臣が離した鳥を反対側にいた将軍の手元から鷹をはなしてオシマイでした。 平和な江戸時代には将軍が江戸城を離れるには行列を組むだけで膨大な費用がかかりました。 中期以降の将軍が鷹狩などやらない軟弱な将軍だったのでは無くこの無駄な出費を抑えるためでした。 神君家康公の前例に従う一方で経費を節減するための生活の知恵のようなことでした。
お礼
ご回答ありがとうございます、なるほど戦国時代なら地元の有力者から献上品がありそうですね。ご回答ありがとうございました。
- fujic-1990
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手元の資料のどれにも、鷹狩りの際の持参物について書いたものがありませんでしたので、分かっていることなどをもとに推測するしかないのですが、 (1)鷹狩りに付いていく家臣は、10人や20人ではないのです。食べ物でもなんでも、成り行き任せにはできない人数です。 (2)将軍みずから弓を引いて獲物を獲るわけではないのです(そういう場合もあったのかもしれませんが)。 「徳川実紀」によると、概略、家臣の一部は前日から狩場を警戒し、勢子役が大勢で獲物を狩場に追い込むと、最初の合図で、大番組が槍をかいこんで突撃し、獲物を槍で仕留める。次の合図で大番組は引き、御書院番が突撃する。つぎは御小姓番・・・ という具合に、号令一下、次々に、押し寄せては引くということをしたそうです。 特に小十人役は特命を受けて「御前で獲物を射とめた」とあります。 では、その「練兵」「調練」の間、将軍は何をしていたのか。 ・・・ チビリチビリと酒を飲みながら、「大番組、なんのたれがし、一番槍!」などという名乗りを聞いて、「ウム、見事でアル」とか言っていた(要するに見物していた)わけです。 休憩のため、近くの庄屋宅や寺に寄ったりして接待を受け、「目黒の秋刀魚」の元になったようなエピソードもあったでしょうが、基本的には「すべて持参した」り(輜重兵の調練)、現地調達の手配をして、将軍などが食べたいとき食べられる状態にしておいたと思います。 付き従う家臣(奮闘する彼らこそ腹は空く)たちの飲み物・弁当などだけを運送してそれぞれの武士へ配る(あるいは事前に現地調達の手配をしておいて、配る)が、将軍の飲み物などは一切運ばなかった(現地でも事前に手配しないで成り行き任せにする)、と考えるのは無理があると思うからです。
お礼
確かに江戸時代の将軍の鷹狩りだと、戦国武将の気軽な野駆けとは規模が違いますね。それも訓練のうちと万端の準備をしそうです。 戦国武将がちょっと外出するときお供は何を持ったのかな?くらいの質問だったのですが、これはこれでたいへん参考になりました。 家臣の働き振りを観覧する大規模な鷹狩りならそりゃあ酒と簡単なつまみくらい持ち歩きますね。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ご参考に: 葛飾区にお花茶屋という地名と駅名があります。 八代将軍の徳川吉宗が鷹狩の時に具合が悪くなって立ち寄り、お花さんに介抱してもらい助かったそうです。 そしてその名を取ってお花茶屋。 軍事演習やデモンストレーションですから、余計なものもっていかないでしょう。 食事くらいではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 うーん軍事演習だからこそ荷物ももてるような気もしますがどうでしょう? ご回答ありがとうございました。
お礼
たびたびのご回答ありがとうございます。 事例のごとしとなると、日ごろからそういことも一般的にありえたことが想像されますね。 金品と扇子に短歌書いたもの渡してるようなイメージでしたが、これはどちらか片方といいうことなのかな? 酒を一同に振舞ってたらまた酒持ちの徒士が必要になりますねw わざわざ海外からありがとうございました。