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供養塔
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何が疑いなんでしょうか。 そもそも「信士」というのは浄土宗なんかの戒名の一部であって、戒名の下に買書かれているというようなものではありません。 江戸時代は下級武士がこの戒名になることが通例でした。 武士でありながら農業をしている人間もありましたし、そういうのが郷士と言ったりしました。坂本龍馬なんかがその一人でした。幕府から扶持はいただいていても家内には下男や女中、馬方なんかを置き食べさせていますからそこそこ費用はかかりますので農業をしながら武士をしていたものはある程度はいました。 お城で勤務があるとしても丸一日残業付きなんていうことはなく、夕方には帰れますしときどきの休暇もありえました。 農業は家内に残っているものが近所の人間の助けを借りながらやり、ときどき主人も手伝うんです。近所の人間は当然できた産物を分けてもらえますしわずかながら手当ももらえますから、喜んでやります。 まあ、特別な病気にもかからず、毎日こういう運動をして体力を養ってご近所とも平和に暮らしていたら90歳ぐらいまで生きた人はいたかもしれません。数えで90歳ですから、今でいうと88歳ぐらいで没かもしれない。 でも当時の戸籍というのはいい加減で、何年もたってから出生届みたいなことをしたこともありましたし、場合によっては生まれた年にすでに5歳なんていう扱いをしたこともあったみたいですから、正確な年齢はわかりません。 生まれた年に5歳というのは異常に感じるかもしれませんが、当時は家の相続というのが大きな問題であり、当主が亡くなって跡継ぎがいないと家が取りつぶしになります。だったら、まだ生まれていない腹の中の子が、存在しているように言いつくろい、すでにこの世にいるもんだとしておいて、いざ当主の喪中のときにその子がすぐに相続するという書類をでっち上げたんです。 相続するためには乳児ではいけませんから、5歳ぐらいにしてしまうんです。 だから、正しい享年はわかりません。
補足
供養塔がある、お寺は真言宗醍醐派です