両墓制についての質問
江戸時代は参り墓と埋め墓の二ヶ所にお墓があったそうですが、もしそうですと武士ではないのですか?
私の先祖のもので一つある江戸中期の光明真言供養塔は文字が読め名前もはっきりわかるのですが
お墓6体(内3体のお墓は、分家との借財トラブルで分家の墓石の土台になっている)
あるお墓は文字が元々書いてなかったのか、わかりませんが、文字が消えた状態で読めないです
6体のお墓は参り墓であって、土地没収のため3体のお墓を墓石の土台にしたんじゃないかと、言われました
両墓制は基本的に庶民がやってたらしいです
いい伝えで先祖は郷士の下級武士です
だけどお墓が二ヶ所に別れてるって聞いたことないですが、昔の庶民はみんなやってたのですか?
因みに茨城の真言宗です