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不生で一切がととのう
かなり前に読んだ『バンケイ禅師』の中の”不生で一切がととのう。”という言葉がずっと曖昧なまま心に残っています。ご説明頂けませんでしょうか。
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再度の2です。 質問者さまとは、以前、別カテゴリーでも話をしたようですね。(気が付きませんでした) 以前のアドバイスも実践してみてください(生理的アプローチ) >>誤解しないで下さい。言葉の矛盾を捜しているわけではありませんが・・・ はい、上記の通り了解しています。 >>どういう風にすれば得られるのでしょうか 修行者(雲水)の生活は、我々の想像を絶すものがありますが、修行のための環境でやっているんですから、世俗を離れていることを考えても、幸せな生活をしてると思えます。例えれば、自動車の教習の専門課程に居るようなものです。 運転技術が実習だとしたら、読書は学課ですから、やはり方手落ちでもいけません。 図書館に禅に関する本はやまほどあるので、読みやすい文体、親しみやすい本から選んで読むべきだと思います。高僧の書いた本は、まず、言葉の概念の基礎から、頭に入っていないと、何が書いてあるのかもわからないですから、出来るだけ、平たく書いてある本をお勧めします。 で、臨済宗、曹洞宗とありますが、どちらを勉強しても、ちゃんぽんで勉強しても良いんです。あと「天台小止観」も坐禅とその勉強です。みんな大元は一つでお釈迦様の教えですから、原始仏教を勉強されるのも良いと思います。 で、やっぱりスターウォーズではありませんが、これは、脳を鍛え、作り変えるような話なので、口伝、心伝でしか伝わらないことなので、その過程を説いた「十牛図」なるものもあります。実に抽象的です。が、半年でも一年でも続けていると、「ああ、これか・・」と判るはずです。 あとは曹洞宗の「只管打坐」の通り、座る(行ずる)しかありません。 普段の生活も一つ、一つの動きを丁寧にすることも大切です。 歯みがきという行為も、丁寧に、じっくりと取り組みます。 雲水には、歯みがきから、トイレの作法まであるんです。何故ならば、こういう意識した丁寧な動作をすることが生理学的には脳に良いんです。脳は使っている部分の血流がアップして、神経細胞同士の繋がりが確固になりますから、脳全体を活性化するためにも、一つ、一つの動き、言葉を選ぶことも大切ですし、全てのことを【意識して丁寧に】することが大切になってきます。ですから剣道でも、茶道でも、華道でも「道」というのは、意識して丁寧に行うんです。技術の習得だけでは無いということです。脳から変えるということなんです。 座るのは椅子でも正座でも、直立でも良いんです。 勝海舟も直立不動の自然立ちの立禅をしていたそうですし、中国の気功法にも立禅というのはあります。 あと、これも毎日できる「歩行禅」です。 姿勢を正し、維持して、一歩、一歩、かかとからつま先で蹴るまでの行為を【意識して丁寧に】することです。歩いていながら禅定に入れます。空中浮遊しているように気持ちよくなってきます。頭がスッキリ!してきます。 http://www.happywhisper.com/special/200402/top.html 私のHNをクリックしてもらえれば、坐禅の呼吸法をご紹介してます。 洋式便所での椅子禅も出来ますし、電車を待ちながらの立禅も出来ます。 いつでも何処でも出来ますので、脳を失い、五感も失ったつもりで、ただ丹田の動きに仏性を現すつもりで、気長に続けてみてください。 あと般若心経の勉強もすると、良いと思います。 で、繰り返しますが、仏教は、「縁、ゆえに無自性」という理と、「不」「無」は否定系では無く「超えてる」と理解すると判りやすくなってきます。不生不滅 不垢不浄 不増不減なら、生まれたとか死んだとか、綺麗だとか汚れているだとか、増えたとか減ったとかの世俗の概念を超えていると私なら読みます。 脱常識、超常識が仏教です。この時代ですと資本主義に汚染された常識にこだわらない、流されない、迷わされないことも脱常識と言えます。子供の将来で悩むのでしたら、きっと、この社会の枠組みにも悩まされているのだと思いますが、そのこだわり、常識を根底から超えてしまえば良いんです。ですからご利益を謳うご利益宗教では信じてはいけなく、、学課と実習により、自分の脳を鍛えて体感してこそ仏教(宗教)ですので、『実践生理学』だと思って間違いありません。 と言ってる私も悟れたわけではありませんが・・・・^^;
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- mmky
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参考程度の追伸まで 仏性というのは心の中核の部分のことです。考える故にわれありといわれるように考えが発せられる心の芯の部分のことですね。この芯が仏性で、名前の通り仏の性質、つまり根本仏(西洋的には全知全能の神)の思いの一部ということです。それが故に人間は仏の子とか神の子といわれるのですね。心の中核にある仏性はその名の通りで光輝くダイヤモンドのようなものなのですが、日々心から発せられる悪しき思い(塵といいます。)などがその表面にたまって汚れてしまっているので実際は輝いてはいないんですね。この塵が厚くそうのようになって仏性から程遠くなっている人もたくさんいますね。仏性を磨くとは、この塵を誕生までさかのぼって反省行(反省はごみを消す消しゴムですね。)によって少しずつ取り除くことからはじめて、日々悪しき思いを退けよき思いと行いで生きることですね。それによって仏性が顕現してくるつまりダイヤモンドの輝きがもどってくるということです。つまり心の井戸を掘れば仏に会えるということなんですね。禅の本質がこのあたりにありますね。仏性を磨くとはつまり心を管理することなんです。
お礼
わかりやすく丁寧に説明いただき有難うございました。”心の井戸を掘れば仏に会える。”ことを信じて自分なりに心を磨いていきたいと思います。
- mmky
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参考程度に 不生不滅(ふうじょう、ふうめつ), 不常不断(ふうじょう、ふうだん)これは人がもつ仏性(魂の本質)について後代、竜樹菩薩が言い表した言葉です。その意味するところは、人の仏性は生まれるものでもなく滅するものでもない、またいつも同じではなく死んでなくなるものでもない。というものです。 盤珪禅師がこの不生不滅(ふうじょう、ふうめつ)のお考えから「不生で一切がととのう」と説法されていたのなら、人には永遠の生命体としての仏性が宿っているのでそれに気がつけば、その仏性を磨けばいいだけですという意味ととれますね。 人はみな青い鳥を求めてさまよっているのですが盤珪禅師は、それを一喝して「不生で一切がととのう」と説かれたように思いますね。
補足
本当に有難うございます。"死んでなくなることもない永遠の生命体である仏性"とは理解するものではなく、信じるものなのでしょうか。私には専門知識もなく追求する知性もありません。仏性を磨くとは実際にはどういうようにするのでしょうか。
- Syo-ya
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一夜にして苦悩の人となってしまった、再度の2です。 >>不生とは(考えないということ。)であれば事象そのものをを認識しないということでしょうか では無くて、むしろ、正しく認識をする、ありのままに認識をする、 自我を超えたところで認識をするということです。 ですから、むしろ >>反応はコントロールできるということでしょうか こちらに近いと思います。 再度「不生」とはですが、 「ゴチャゴチャ考えないで」と表現しましたが、その真意を説明します。(後悔してます・・・) 「鏡」をイメージして欲しいんですけど、 「鏡」は、綺麗に磨かれて汚れ一つなければ、物事が正しく、ありのままに写せますが、 汚れていると、ハッキリと、クッキリと、スッキリと、物事を正しく写せません。 で、私達は「鏡を見ながら生活している」と想像してみてください。 鏡を見ながら、物事に対処、反応して、考えたり、悩んだり、喜んだりしていると。(※1) 執着・こだわり、欲我、煩悩は「汚れ」です。 汚れていれば鏡に正しく事象が写りません。 汚れた鏡に写る映像を見ていたり、汚れた一点に囚われていれば、餓鬼になりも、修羅にもなり得るんです。 つまり汚れのない綺麗な鏡が理想なんです。 で、私達の本性は「縁起、ゆえに無」により「無心」ですから、本来、汚れ一つ無い綺麗な鏡なんです。(※2) あるのは鏡を見て反応するエネルギー(仏性)だけなんです。 鏡に汚れ一つなければ、事象を正しく、ありのままに認識をすることが出来ます。 鏡が汚れていれば、捻じ曲がった結果に繋がってしまうんです。 鏡が綺麗ならば、反射も綺麗ですし、汚れていれば反射も乱れるのと一緒です。 スターウォーズの「フォース」をご存知でしたら、あれをイメージしてもらうと判り易いんですが、 ・ゴチャゴチャ考えて、心が乱れると力(仏心)が出ません。 ・かと言って、出そうとすると、これも意識して力が出ない。 ・自我、私心を捨てて、無我、無意識っぽくなると、出来てしまう。 つまり鏡を綺麗にした状態だと出てくるというものです。 ですからダース・ベーダーは、悪の鏡として綺麗な鏡ですからフォースが使えるんです。(陰陽説ですね) あの映画は黒澤明監督の影響を受けていたり、おそらく仏教の影響も受けていると思います(余談ですが) ですから「不生で一切が整う」とは、・・まあ、そういうような意味です。 綺麗な鏡でいれば、綺麗に写るし、反応も綺麗になる。 かと言って、綺麗、汚いにこだわると、ノイローゼになってしまうから、うるさくは言わない。 出家して修行している人であれば、大変な年月と苦行をして綺麗にしていきますが、 バンケイ和尚は、みんなに話す時には、そういう厳しいことを言わなかったんです。 で、脳の話ですが、坐禅をすると、実際にセロトニン神経という爽やかな覚醒系の神経が鍛えられるんだそうです。 まあ、坐禅以外でも鍛えることは出来ますが、坐禅がそのメソッドの一つであることは間違いないんです。 http://physi1-05.med.toho-u.ac.jp ※1 実際に脳のメカニズムもそうなんです。私達は外を見ているのでは無く、 外から入ってきた光情報を脳に写して「見ている」と感じ、反応しているんです。 ですから実際に脳は『感じる鏡』のようなものなんです。 ※2 「無心」とは、心が無い、考え無いではなくて、これも「心を超えた」という解釈で良いと思います。 「無」を除いた、ただの「心」とは煩悩に迷い苦しんでいる心です。 「心して心に心を許すなよ」と言われているくらいです。 そんな心を超えた心が「無心」であって、「超心」とも言えると思います。
お礼
有難うございます。 >本来、汚れ一つ無い綺麗な鏡なんです。 >修行している人であれば、大変な年月と苦行をして綺麗にしていきます。 誤解しないで下さい。言葉の矛盾を捜しているわけではありませんがいったい綺麗な鏡(無心とは)どういう風にすれば得られるのでしょうか。
- Syo-ya
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私にも挑戦させてください。 まず、どのくらい説明したら良いのか判りませんので、 出すぎた説明になるかと思いますが、お許しください。 まず「不」というのは否定形ではなく「超越・超えている」と解釈したほうが判り易いと思います。 つまり「不生」とは「生まれたとか死んだとかをも超えている」というような意味だと思います。 命、仏心、宇宙エネルギーとでも言いましょうか。(仏心は糞尿にもあるんだそうです) で、仏教は全般に『 縁起ゆえに無自性 』と言うことが判ると判り易いと思うんですが、 お釈迦様の縁起説は、全てのものが「縁」によって成り立っているというものです。 「あれ」があって「これ」が成立しているように、「私」も周囲との「縁」によって「私」たらしめられているんだということです。例えば「長いモノ」があるから「短いモノ」が存在しているんです。 で、これを逆に考えて(引き算して)「私」を構成している全ての「縁」を取り除いていくと、私達は「無」になってしまうんです。私達は本来が「無」なんです。 これが『 縁起ゆえに無自性 』です。 「無」に「縁」を足していけば「私」になりますし、「私」から「縁」を引き算すれば「無」になるんです。 ですから、私達の本性は「無」とか「無心」「無我」だということです。 唯一、在るのは「仏心」「命」ということです。 で、こういう状態で生きれば、現世的な、ものごとへの執着・こだわりを「超えた」ところで生きられますので、人生が楽になるんです。(正しく生きられる・・?) 逆に、執着・こだわりを持っているということは、我欲から優劣を競ったり、正邪を争ったりして、複雑になり、困難になり、生き辛くなってしまいますし、心も餓鬼のようになったりして乱れてしまいます。 ですから「不生で一切が整う」とは、・・まあ、そういうような意味です。(・・そうかな?) ゴチャゴチャ考えないで、あるがままで生きれば、成るように成るし、成るようにしか成らないから、それがベストな状態なんですよ、というような意味だと思います。 ・・こんな下手な説明で通じますか?? 難しい。。。
補足
回答有難うございました。不生とは(考えないということ。)であれば事象そのものをを認識しないということでしょうか。事象を認識しないということではなく反応をしないということでしょうか。反応はコントロールできるということでしょうか。餓鬼になり修羅になるのを自身で拒否するということでしょうか。
- EEshiba
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既にご覧になられたかも知れませんが。 http://www.shogoin.or.jp/shugekuwa.html に 「不生とは元々あったもので後から造られ出来たのでないということで、」 と不生についての解説があります。
お礼
有難うございます。参考になりました。
お礼
いつも色々と親身にお答えいただき有難うございます。仏教の勉強は一朝一夕とはいかないでしょうが、とりあえずお勧めに従って座禅の真似事でもしてみようと思います。