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生」が消費されているとき、「生」が自覚される。
. 思考実験しました。 自分が、どういうとき、「生きている」という感じを強く持つか? 食事をしているとき。 映画を見ているとき。 Hしているとき。 哲学しているとき。 眠りから覚めたとき。 悩んでいるとき。 ・ ・ etc しかし、その中で、一番強く「生」・「生きている」を激しく感じたのは、 腕に傷をつけて、滴り落ちている血を見つめている時でした。 「生」が消費されていると感じたとき、強烈に「生」が自覚されました。 これは、どういうことでしょう? この、「生」が消費されていく先には「死」が、見えます。 この、「死」の自覚の対極として「生」が強いコントラストで、自覚されたのでしょうか? それとも、「生」が消費されている時、心の深いところで、 生きようとする何かが活動を強めていくからなのでしょうか? (これは、自分の個人的な感じであり、一般的でないかも知れません。 そういう方は、自分が生きていると強く感じるとき、の事でも構いません) ) 皆さんの意見を聞かせてください。 .
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生きているということを自覚するというのは、「我に返った」ときのことではないでしょうか。我に返るというのは体あっての自分だと思うことだろうと思います。しかしこの自覚は実に不愉快なものなので普通、人は我を忘れようとしています。つまり自分は肉体によって支配されていないと思いたいわけです。肉体はいつか滅びます。この意味で我に返るということは死をも意識することになると思います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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連続投稿お許し下さい。 「女性の哲学者が少ないのはなぜ?」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5479497.html の、No.23にて >>> 本来の主体は、「愛する」の側にあるべきなのに、「知」という対象にのみ関心があるというのは中途半端な状態と言わざるを得ないと思います。 人間という総体が男女という概念区分にて二極を持つと言うことは、同じように総体を二極にて捉えるような概念にて、片方のみを重視した場合に破綻をきたしうるものを想像すれば、いいのかもしれません。。。 たとえば・・・ 中島みゆきの「炎と水」 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54014/index.html <<< と記載させていただいておりますが、知と「知以外」(特に情)といった二極的思索にも当てはめうると思っています。 中島みゆきは、本来、男女の関係になぞらえて「炎と水」を「Flame & Aqua」として記述しているのでしょうが、たとえば、水を知に、炎を情に置き換えても、しっくり来るところがあります。このことは、男性性とか女性性とかいった概念から受ける一般的な感覚と結びついているからなのかもしれません。。。 >>> 中島みゆき 「炎と水」より (前略) 私はあなたを傷つける者 誰よりあなたを傷つける者 けれども唯一癒せるすべを それとは知らずに持っている者 (中略) Flame & Aqua 求めずにいられない 私たちは あまりにひとりでは担い過ぎる炎と水 <<< 一人が一人のみでは「生きていく」ということは担い過ぎるでしょうし、知・情・意がそれぞれ単独では「知情意といった全体」は担い過ぎるものでしょう。。。 互いに傷つけ合うことを恐れていては、癒し合うことすらできないのかもしれません。。。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> >皆が真摯に対応しようと走り回ります。・・・・まさに「生きている」と実感している それは、自分が質問で挙げた 「生きようとする何かが活動を強めていくから」に通じるものを感じます。根っこは、同じなのでしょうかね? <<< 同じだと思いますよ。 >>> それから、確かにおっしゃる通り、「一人」で、行っていました。思考中心という部分に偏っていたともいえると思います。 「他の人」を入れることで「生きていること」の実感が別の状況で、感じることに、「なるほど!」と納得しました。 他人を考える事で、自分の存在が確認できると言うことに関係があるのでしょうか? <<< 考えることに強く関連する脳細胞-中枢神経系と、その脳細胞に栄養を送っている血液と、その血液の循環に携わっている心臓と血管と、その臓器の状態に影響している末梢-中枢神経系・内分泌系と、それらを支えている数多くの細胞と、それら細胞を支えている遺伝子と栄養と水と、遺伝子に関与している両親と自然放射線と、栄養に関与している生きとし生けるものの相互関係と、適度な状態の水に関与している地球の大きさ・温度・大気および適度な循環と・・・ そういった一連の関連の交錯するところに「生きており、かつ、生かされている」が存続しているという事実は、通常、無意識下におかれていますが、何らかのきっかけで、意識・知が「通常ではないもの」を知覚しえたとき、連鎖的に(芋づる式に)思い起こされるのかもしれません。 そういった関連性を一人で知覚するという行為が自傷行為に繋がっているようにも思っています。 また、一方で、そういった、一連の関連を、無情にも「知」という部分はバッサリと切り取ってしまう。。。(非常に粗い分類であるけれども)「知・情・意」といった概念区分で、知と情が区分可能に思えるからこそ「無情な知」という状況が発生しやすいのでしょう。 逆説的に(いや、粗くても「知・情・意」といった概念区分が成されるからこそ)「知で捉えきれない情・意」を認識しうるとも言えます。 知・情・意、特に情は、他者(外部)との関連性において動的に動くことでしょう。まさに「情動」という言葉そのものです。具体的な他者がなくても「想像・空想」として仮想的な相手を想定し、そこに「情動」を繋ぎ込むこともできますが、それは、本来の意味での「情動」ではなく、「知の内部で組み立てられ、外部との関係を切断されて、自分自身に繋ぎ込まれた、閉じた」情動でしかないでしょう。 本来の意味としての「情動」は、まさに、人と人、人と生命、人と環境、人と外部との間にて、繋がり合っているものでしょう。 知が想像できる(空想しうる)のは、そういった本来的な切り離せない全体としての「情動」の一断面にしか過ぎないと思っています。
丁寧なお礼をありがとうございます。 >その様な、答えを頂くと男性と、女性の性差を強く感じますね。 こう言う書き込みをすると、己の女性性に誇りを持って生きている女性なのだろうと思われそうですが、 私自身は小さい頃からずっと自分が女性である事に違和感を持ち続け、 女嫌いで来ました。誇り等持ち得ず、自分の女性の身体を憎まんばかりに嫌悪した時期もあります。 男の子のようになりたい、女々しいのは嫌い。 >その中で、#12の方の回答が興味深いですね。 恐縮です。 それ、私です。^^ >「死」というのは、女性に比べ、男性のほうが身近じゃないか、 ふうーーん。。。。 遠くにあり過ぎて、考える事が多いのが男性。 身近にあり過ぎて、考える迄も無いのが女性、かも知れませんよ? 冠婚葬祭の実行部隊となるのは女性が多いですし、その話を尊属の女性から聴かされるのも娘の立場が多いです。 息子の立場って、あまりそう言う親戚付き合いの話を好まない人が多いですし。 で、冠婚葬祭と言う人生の通過儀礼を身近に意識し易いのはやはり女性。 通過儀礼は命の流れ方の目安でもありますし、 さらに、嫌でも毎月月経と言う「プチ出産」を繰り返していると、 命の流れ、生きている実感、生きているという事に対する嫌悪も「実感として」強く持っている気がするのです。 まあ、こう考えるのは、「男になりたくてなり切れず、女であるという事実を突き付けられてもがき続けて来た」変な?私だからこその思考かも知れません。 あーーーホントに、生理痛と言う物は「プチ陣痛」なんですよ。 出産を三度経験して説明がつくようになりました。 女性の生殖器官は毎月「生まれ変わって」います。 このあまりに整然と巡って来る命の流れを、そう意識しようとしまいと、 女性は体内(胎内?)に生と死を抱いています。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.10です。。。 立ち入ったことになってしまうかもしれませんが、ご容赦下さい。。。 >>> 食事をしているとき。 映画を見ているとき。 Hしているとき。 哲学しているとき。 眠りから覚めたとき。 悩んでいるとき。 <<< これらは、主として「一人」で行っていませんか? そうして、これらは「思索」中心に偏っていませんか? (と、後は勝手に「そうだろう」と想像して書いていますが、まちがっていたらご容赦下さい) 意識・心が身体側を切断しようとしているとき、「能動・受動」の狭間で生きているのではなく、「現実・空想」への狭間へと移動している状態と思われます。 たとえば職場で困難な事象が持ち上がったとき、問題解決のために、皆が真摯に対応しようと走り回ります。その中でできるだけのことをしようと動き回っているとき、意識はしていませんが、充実した感覚を覚えます。まさに「生きている」と実感している最中ですね。 難しく言ってしまうと、私の場合、「生きている」と思えるのは、「現実・空想」のギャップを了解しつつ、その差が消える方向へと動くときです。すなわち、他者や外部との「能動・受動」の狭間で、想いが形を変えるにせよ、なにがしかの具体的な事象として動く時です。 簡単に言ってしまえば、たとえば、朝の「おはよう!」という挨拶に対する微妙な反応一つですら、(昨夜なにをしてたのかな?等思うだけで)毎回新鮮に感じられるということです。ついでに、ほんとうに何をしていたのか相互に嫌みもなく確認できる関係であれば、さらに楽しくなることでしょう。朝出かける前に、家の掃除や片付け、ゴミ出しなど手伝えることはできるだけやるというのも家族との対話のきっかけになったりします。まさに「能動・受動」の狭間に生まれる会話だと思っています。「やっぱり、生きてるんだね、お互いに!!」と思ってしまいます。 ただし、どうしても「現実・空想」のギャップを越えるチャンスに恵まれなかったり、行動へと移すことのできない事柄だった場合には、「まぁ、とりあえず、生きてるんだから、何とかなるわ」と、ぶつぶつ言っているときが、まさに「生きている」と思えるときです。
御邪魔します。 私は自分に対して凄ーーーく欲張りなのですが、 それなのに自分の存在をとてもとても軽んじている所があります。 勿論、鋼の錬金術師じゃないですけれど、 世界の大きな流れの中で、ひとつの命/自分の存在等、砂粒どころじゃなくちっぽけなものです。 でも、それと自分の人生をどう生きるか?どんな自分を生きるか?は全く別問題。 それも重々承知のつもりです。 だから、なのか分かりませんが、 自分がどうであろうと、死にかけようと、あまり動揺しない感じがします。 以前、横道から飛び出た車に自転車毎押し倒されて、通勤ラッシュの大通りに投げ出されました。 投げ出されて倒れ込んだ私の頭10センチ程の所を、都営バスの巨大なタイヤが続けざまに通りました。 「おおーーーびっくり!」とそれだけ。 いつだって、「今死んでもいいかな」と言う気軽な思いがあります。 そんな私が >一番強く「生」・「生きている」を激しく感じたのは、 「死んだ者の死体に触れている時」です。 生き物が絶えない家で育ち、犬も猫も何匹も居て、何匹も見送って来ました。 生まれたての子犬。 母犬が不安定になってしまって冬の最中に戸外に放り出してしまって、 毛皮があやしい程の生後2日程の子犬。 凍えて動かない身体を、ひたすらストーブで温め、ぬるま湯で口元を塗らし、試行錯誤。 生き返って動き出した子犬の横で、どんどん冷えて固まって行く身体が幾つか。 死体って、どうして「怖い」のでしょう? 生きて生きて!と思いながら、愛おしい可愛らしいと思いながら蘇生を試み。。。 それなのに、「死んでいるんだ」と何処かの瞬間に知るのです。 徐々に知って行く、では無かったのだから、きっと「死の瞬間」があったのでしょう。 生まれたことも知らないまま死んだような、小さな命です。 それでも、死の瞬間を境に、彼らの身体への感覚がどんでん返し。逆さま。 恐ろしい、怖い、気持ち悪い、膝から払い落としたくなる、、、 今の今迄「可愛い小さな子」だったのに。。。 何とも現金な自分に身の毛がよだつ程嫌悪しつつ、死体を嫌悪することが止まらない。 我が子の死にかけた状態にも一度、遭っています。 全く同じ気持ちを抱いた酷い母親?です。 こちらはいくら小さい子と言えども、ある程度の大きさがありますので、 叫びながら泣きながら人工呼吸と心臓マッサージが出来ましたが。 死体の怖さ、が一番生と死の隔たりを感じさせます。 自分の腕を切った事もあるにはあるし、 酷い怪我で血だらけになったこともあるにはあるけれど、 痛みも血液も私にとっては「生に直結しない」です。 まあ、女は毎月したたる血を見ますし、 陣痛の痛みは自分にとっては「死」だけれど、この際自分死んでも新たな命には生き始めてもらうからね!!と言う恨みがましさ?がありますから、生死等気になりません。 私は「他人の死」が一番自分の生を感じさせる/際立たせる?ように思います。
お礼
. 回答ありがとうございます。 その様な、答えを頂くと男性と、女性の性差を強く感じますね。 同カテで、「女性の哲学者が少ないのは何故」というスレッドがあります。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5479497.html その中で、#12の方の回答が興味深いですね。 >男は自分の命の繋がる様子を、実感として得る事が出来ない。 まさしく、その通りで、子供が自分の生を引き継いでいくという概念は頭では持っているけれど、実感としては希薄ですね。 それから、これは、僕の個人的な感じなのかもしれませんが、男性は、女性に比べ、「死」の重みを実感として感じながら生きていると思っています。 例えば、戦争で前線に向かうのは男性ですよね。 船が沈んだ時、先に「女性・子供」を救命ボートに乗せ、男性が最後と言う話はよく聞きます。 「過労死」というのも、ほとんど男性ですし、女性の例は聞いた記憶がありませんね。あったとしても、かなり少数ではないかと思います。 先ほど挙げた、「女性の哲学者・・・」のカテの#4で、自分は以下の書き込みをしています。 哲学者に限らず、数学者、作曲、絵画の世界でも有名な女性は少ないです。 一つには、男性には、自分の生を削っても、目的を達成しようとする傾向があります。 一方女性は、生きることを優先に考えます。それだけに、突き抜けると言うことが少ないと思われます。 これから、「死」というのは、女性に比べ、男性のほうが身近じゃないか、という気もします。 だから、「他人の死」が、「自分の生」と対極の位置にあるというのも、女性特有ではないかと思うのですが・・・・・ これについては、他の方の、感じた所も聞いたみたいですね。 .
- tacchangoo
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私も大学時代”生”の実感が感じられずそれが飢餓感のようになって苦しんだことがあります。社会に出てからもその感覚に苦しんでいましたが最後の最後にこう考えました。どこかで間違った道に入り込んでしまったのではないかと。その時に持っていた価値観や観念を放棄することにし来た道を帰ることにしました。貴方は今持っている世界観や価値観を捨てられるでしょうか? 子供の頃を思いだせますか?生の実感は普段、特別な事がなくても気温の様に暑い、寒いと感じるものと思います。生は貴方そのものです。それに貴方が見ているものや聞いているもの、読んでいるものと貴方は別個の分離した存在ではありません。観念や価値観や誰もが持っている心の傷が貴方を埋もれさせてはいませんか?
お礼
. 回答ありがとうございます。 持っている世界観・価値観ですか・・・ 難しいですね。 自分で、自分の世界観、価値観を客観的に見つめることって・・・ 参考にさせていただきます。 .
No.6&7&13です。 先の由貴奈さんの詩の・・・・・にあてはまる部分を以下に記します。 ちょっと、mintarou1様とご一緒に考えてみたかったのです。 何年も何年も 月日がたってやっと 神様から与えられるものだ 命がないと人間は生きられない でも 「命なんかいらない。」 と言って 命をむだにする人もいる 由貴奈さんは「何年も何年も月日がたってやっと」「神様から」「与えられるものだ」と記しています。 たかだか11歳の若さなのに、です。 同書のあとがきのおわりに、こども病院の医師のコメントが記されているのでこちらも引用させていただきます。 「医療は人の苦しみを和らげてあげるのが本来の姿だと思う。 それがいつしか、医師は人の命を左右できる存在と勘違いするようになった。 傲慢な考え方だ。 命にとって大切なことは長さではなく、質である。…」 この「医療」を「哲学」に置き換えてみることはできると思いますか。 であれば、 「医師」「苦しみを和らげる」「命」「長さ」「質」などには、いったいどんな言葉が相応しいとお考えになられますか。
お礼
. ごめんなさい。 「哲学は人の苦しみを和らげてあげるのは本来の姿」というのは、すこし違うのかな? って思っています。 哲学は、あくまで、目に見えないものの(心とは何か?とか、自分とは何か?とか、存在とは何か?とか)本質を見つけようとする「知的作業」であり、結果、残酷な結論も用意している場合もあると思います。 しかし、それとは別として、由貴奈さんの例は考えさせられますね。 日々、「死」と「生」について、意識して生きてきた重さを感じますね。 参考になるお話、ありがとうございます。 .
- takuya196
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私は、死があるから人は行動していると思っています。 それを考えたきっかけは、人が死ななかったらどうなるか を考えたときでした。
お礼
. 回答ありがとうございます。 >死があるから人は行動していると思っています。 それは、半分納得できて、半分違うのかなって思います。 「死」を意識しない子供は、十分活動的ですしね。 でも、生の締め切りという「死」が、生にある種の意味づけをしていると言うのは、十分納得できますね。 漫画家や、小説家が、編集者に「締め切り」までの原稿の提出をもとめられ、それを目標に仕上げる。 「締め切り」というプレッシャーがが、漫画、小説等に何らかの形(例えば、緊張感等)で影響を与えているのは、十分に想像できますしね。 自分が、質問で挙げた、 >生きようとする何かが活動を強めていくからなのでしょうか? と言うことと、深いところでつながっている感じもしますね。 .
No.6&7です。 >それとも、「生」が消費されている時、心の深いところで、 >生きようとする何かが活動を強めていくからなのでしょうか? 上述のご質問のくだりにつき、宮越由貴奈さんという、当時小学4年生のお嬢さんの書いた詩を、以下に部分引用させていただくことをお許しください。 『命』 命はとても大切だ 人間が生きるための電池みたいだ でも電池はいつか切れる 命もいつかはなくなる 電池はすぐにとりかえられるけど 命はそう簡単にはとりかえられない ・・・・・・・・・・・・・・・ まだたくさん命がつかえるのに そんな人をみると悲しくなる 命は休むことなく働いているのに だから 私は命が疲れたと言うまで せいいっぱい生きよう 「電池が切れるまで──子ども病院からのメッセージ すずらんの会編 角川書店(平成15年3月8版発行)」(8~9頁より引用) 宮越由貴奈さんは、5歳の時、神経芽細胞腫と診断され、様々な辛い治療の末、十一歳の若さで亡くなりました。 詩のどこにも、手直しなどなかったそうです。 ──母 陽子さんのコメント── 「…ちょうど院内学級で電池の勉強をしたばかりだったそうです。 この詩を書いた四ヶ月後に亡くなりましたが、これに書いたとおり充分精一杯生きました。 書くことがそんなに得意ではなかった娘のこの『命』という詩は十一年の短いけれども凝縮された人生の中で得た勉強の成果なのではないかと思います。」(122頁)
お礼
. 回答ありがとうございます。 先に、#13の方に、回答へのお礼を書かせていただきました。 .
お礼
. 回答ありがとうございます。 >皆が真摯に対応しようと走り回ります。・・・・まさに「生きている」と実感している それは、自分が質問で挙げた 「生きようとする何かが活動を強めていくから」に通じるものを感じます。根っこは、同じなのでしょうかね? それから、確かにおっしゃる通り、「一人」で、行っていました。思考中心という部分に偏っていたともいえると思います。 「他の人」を入れることで「生きていること」の実感が別の状況で、感じることに、「なるほど!」と納得しました。 他人を考える事で、自分の存在が確認できると言うことに関係があるのでしょうか? 新しい視点、で考えを深めることが出来ました。 ありがとうございます。 .