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他領の宿場町の管轄
他の方の質問を見ていて私も疑問がわきました。 宿場町って幕府が助郷等を課して直接支配し街道管理してますよね。 ですが宿場町の多くは天領ではなく他藩にありますよね。 浜松宿は浜松藩でしょうし妻籠宿は尾張藩でしょうし。 ここの支配関係ってどうなっていたのでしょうか? 天領以外は藩が幕府の要件に従い管理し、妻籠宿が馬匹を減らすよう嘆願を出す場合は尾張藩経由で嘆願書が幕府にまわるようなイメージでいいのでしょうか?
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- kouki-koureisya
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他藩のことは知りませんが、尾張藩の場合はそのとおりだと思っています。 妻籠宿ではないですが、中津川宿や落合宿では、尾張藩へ申し入れている多くの事例があります。 中津川市古文献アーカイブ>市町村史> https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2120605100 中津川市史 中巻II>第6章第2節>5人馬の継立「伝馬等の嘆願と申し合わせ」 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100020/ht020790 1224ページ 中津川宿の嘆願(元禄三年) 元禄三年四月、中津川宿問屋の長右衛門と次郎右衛門は、中津川宿の困窮と伝馬・人足の継立困難の状況を述べて、伝馬役・歩行役への年々の救金下付を領主である尾張徳川家の郡奉行に嘆願している。その趣意はおよそ次の様である。 (1) 中津川宿は、近年殊の外困窮し、人足役の者が草臥て役を勤めることが困難になっている。隣宿の落合・大井宿へは山坂の多い、石地の通行困難な所で、大変難儀をして人足の継立をしている状況である。こんなわけで伝馬役の者全体の持馬が二〇匹程になってしまい、そのうち一駄荷物を付け送りできる本馬は一四~五匹しかなく、大変困っている。(以下略) https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120605100/2120605100100020/ht020720 1207ページ <嘉永以降> 中津川・落合両宿では、元来困窮難儀な宿であるから、幕府の定め通り五〇人・五〇匹の人馬を常備することは不可能であると、領主の尾張徳川家の役所へ嘆願をした。その直後嘉永元年(一八四八)には、道中奉行の役人荻野寛一らが回宿して釆て、宿駅と助郷村の各代表を集めて話合せた結果、 宿立人馬五十人五十疋之内 三人三疋囲之分引之 残り四拾七人・四拾七疋之内人足拾七人・馬拾七疋助郷村々ニて余荷相勤残り三拾人・三拾疋之分 日々宿毎御継立仕 其余之分助郷村々え触当 為相勤候積 双方申分無御座熟談行届…(市岡家文書為取替證文) ということになった。規定の宿立人馬五〇人・五〇匹のうち、三人三匹は囲人馬として備え、四七人・四七匹のうち、人足一七人・馬一七匹は助郷村で、余分の勤めをして宿駅を助けることにし、三〇人・三〇匹の分を各宿で毎日継立、それ以上に人馬が必要な時は、助郷村へ割当てる触を出して勤めさせるということに話がまとまった。 同じ疑問をもっていました。
- ichikawa2017
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>ここの支配関係ってどうなっていたのでしょうか? 江戸時代の藩幕体制というのは基本的に軍事組織でした。 民政に関しては身分に応じた自治組織を設けさせてその自治組織に一任していました。 宿場には宿役人と呼ばれる宿場内の住人による自治組織がありました。 村落には村役人と呼ばれる自治組織がありました。 宿場は村落の中に位置していましたのでこの二つの自治組織が手分けして統治していました。 宿の入口に木戸が設けられていて物理的にはこの木戸の内側と外側という形で役割分担をしていました。 この木戸に隣接して番所が設けられていて藩の役人が詰めていました。 宿場によっては関所のような役割を果たしていました。 一方江戸の幕府内の勘定奉行の配下に道中方という役人がいて宿役人との窓口を務めていました。 宿場内で起きた公事訴訟などで宿役人の手に負えないような場合は道中奉行が担当していました。 道中奉行という役職は大名を管轄する大目付が兼務していました。 勧請奉行というのは現在の財務省のような性格の役所ですが滞りなく年貢が徴収できるように警察権も裁判権も持っていました。 参考 宿の機能 www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/403010200.htm... 抜粋 宿の支配と宿役人 宿は、おおむね石部宿や隣宿の草津宿のように一村からなっていることが多かった。 ということは、当然宿駅の支配とともに、村の支配をも受けることになる。 宿駅に関することは道中奉行、村そのものの支配はそれぞれの領主ということである。 しかし、いずれの支配も別個に考えることはできず、相互に成り立っているところが多く、重複していた。 一般には、村方に関することは名主が、宿駅に関することは問屋・年寄が管掌していた様である。 そして、この問屋・年寄を宿役人と称した。また村方の名主を加えて宿三役をいう場合もあり、百姓代や問屋場の帳付・人馬差などを宿役人に含めることもあった。 石部宿でも、正徳二年(1712)の「覚書」に「石部宿問屋内貴藤七、人足方清水安太郎」と問屋・人足方の名が見えることから、このところすでに宿役人は設置されていたと考えられる(『石部町史』)。 参考 スッポンで逃げる宿役人 : 江戸・東京ときどきロンドン tukitodora.exblog.jp/12172587/ 抜粋 そして宿場ごとに宿役人というものがいました。宿役人は 名主・問屋・年寄=宿方三役があり このうち「問屋」が人馬継立の実務を行っていました。「年寄」は 問屋の補佐役です。そしてこの宿役人の下にまた 帳付・馬指・人足指(ちょうつけ・うまさし・にんそくさし)がいて問屋場を運営していました。 参考 静岡県掛川市 掛川宿 www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kankou/route/kakegawashuku.htm... 抜粋 東番所跡 掛川宿内の治安維持のため、街道の東西に番所が設けられていました。かつて旅人が宿内に入るには、ここで検問を受けなくてはなりませんでした。 >天領以外は藩が幕府の要件に従い管理し、妻籠宿が馬匹を減らすよう嘆願を出す場合は尾張藩経由で嘆願書が幕府にまわるようなイメージでいいのでしょうか? 上記しましたように宿場内のことは藩ではなく幕府の管轄下にありました。 歎願などがあれば宿役人が勧請奉行配下の道中方と交渉していました。 蛇足 江戸時代には司法権(裁判権)を有する役職が複数ありましたのでご質問のような支配権は誰にあるかということになると極めてややこしいことになります。 司法権を行使できる役職が複数あったことから江戸城内に評定所と呼ばれる席が設けられていました。 訴訟事で採決を下す際にこの評定所で審議した上で将軍の裁可を得ていました。 訴訟内容によって司法権を持つ寺社奉行、勘定奉行、町奉行だけではなく目付、大目付、老中なども加わって審議していました。 極めて面倒なことになることから多少の訴訟事は宿役人などの自治組織で解決させていました。 領内に宿場を抱える大名も建前上は幕府とは独立した治外法権を持ってはいましたが、その大名を管轄する大目付が道中奉行が兼務していましたので百姓町人の揉め事などで家内取り締まり不行き届きなどとされてはたまりませんので可能な限り村役人や宿役人の段階で解決させるようにしていました。 現代の感覚からすればいい加減と言えばいい加減だったのが江戸時代です。
お礼
>ということは、当然宿駅の支配とともに、村の支配をも受けることになる。 宿駅に関することは道中奉行、村そのものの支配はそれぞれの領主ということである。 なるほどこの点、村と宿場が一体支配を受けてる印象を持ってたのが大きな誤解でした。 ただ、宿場の維持の助郷は年貢の減免とセットのように印象を持っていたので、ここの支配者が違うとこの関係がどうなっているか気になります。 大変すばらしいご回答をありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 記憶の片隅に中仙道での馬を増やす減らすのやりとりがあったのですが、あれは妻籠ではなく中津川でしたか。 やはり尾張藩経由だったんですね。 道中奉行道中方が直接宿場内を支配していたのであれば訴えは直接幕府にいきそうな気がしますし、その辺の支配関係がどうにも難しいです。