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人が人を殺すことの是非
別に、私自身が誰かを実際に殺したいなんて考えませんが、それは、小さい頃からの教育で人間を殺してはいけないと教えられているからであると思います。 そもそも、人間が生き物である以上、他の動植物を殺して、食べ、それで私達の「生」が成り立っています。そこで、「人間が一つの動物であると考えたとき(つまり、人道的な見解を除いたとき)、同じ人間を殺すこと」に関しての皆さんの意見を聴きたいと思っています。 結構前からこの事に関しては気になっていたのですが、自分自身だけでは解決できそうもないのでよろしくお願いします。
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>結構前からこの事に関しては気になっていたのですが 私もとっても気になっていました。 なぜ人を殺してはいけないか?という質問は 過去にもいくつかありましたし いろんな立場からの回答がありました。 私は一応「報復の連鎖を避けるため」と回答してきました。 殺してはいけない、とする現在でも 殺人事件はおこるわけですが そこに「殺してもいい」という前提を了解すると 殺された→復讐→復讐の復讐、といった連鎖がおこり 社会が不安定になるのでいけない、ということです。 簡単に言えば、自分が殺されたくないので 殺人を容認しない社会を切望する、ということですね。 基本は自分を守りたいからです。 でも、最近思うのは 日本においてはもはや国力が人口を 支えきれなくなっているのではないか? 年金の問題なんかは最たるものだと思うし 若者の失業率が増加しているのも 年配の高学歴層が就業を独占しているからだと思います。 例えば近い将来、さらに延命技術が進歩し さらに長寿化するなど死亡率が減ったら 日本はどうやって人口を支えるの? 少子化が加速していますが それは独断をご容赦頂けるなら 上が詰まっているからじゃないの?とか 言いたくなってしまいます。 なぜ人を殺したらいけないの?と質問すると 多くの人は、ワイドショー的な殺人事件を想定するのでしょうが 例えば私にとってそう遠くない将来、父親が死に至る病を患い もう延命はしないで欲しい、と願ってしまったとき >人間を殺してはいけない なんて呑気に説教たれてるヤツがいたら 自分はどう思うか?を考え不安になります。
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- tomozoukun
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人道的見解を除いたとしても、 人間は動物よりも高度な知能を持っているので、殺される事に対しての痛みや恐怖や怒りといったものを簡単に想像できるはずです。 それならば、同じ能力を持つ他の人間を殺してそれらの恐怖を与えることは、どう考えても筋が通らない話になりますよね。 貴方は殺されたいのか?という話にもなります。 だから殺人をしてはいけないという単純なことです。 それが結果的に人道的な決まり事となっている。 人間よりも知能の低い動物ならば、そういった行為も可能かもしれませんが、しかし人間よりも知能が低い動物でも、知能レベルが昆虫くらいまで落ちない限りは同種間での殺しは行いません。 ということは、いまだに同種間での殺し合いをしている人間というのは、ある意味昆虫並に相手に対しての想像力が乏しいということにもなります。
お礼
哲学的な質問にたくさんの方から、色んな意見が聞けてよかったです。ご回答ありがとうございました。 >いまだに同種間での殺し合いをしている人間というのは~。 私はそれも人間らしいのかなと思いました。
はじめまして、 >表題の人が人を殺すことの是非 について本質的な質問は >人間が生き物である以上、他の動植物を殺して・・「生」が成り立っています。 にあるように思います。 この問題を『宗教論』で助言するのはナンセンスかもしれません。 でも、お叱り覚悟であえて『宗教論??』で助言します。 >他の動植物を殺して、食べ、それで私達の「生」が成り立っています。 これは狩猟者、いまは存在していないと思いますけど ・・の考え方です。 普通、一般に販売されている肉などの食品の場合(__) 業者によって殺した(__)肉を加工した商品を食べているだけです。 よって宗教、得に仏教では、この行為は『殺生』には 加担していない・・と考えます。 (殺生の行為のカルマは業者にかかる) わかりやすく言うと死んだ動物の肉を食べているだけ? ・・と判断できるのです。 これが『あの牛のあの部分を食べたいから殺して・・』 という場合は狩猟者の見解と一緒ですけどね。 >「・・同じ人間を殺すこと」は当然、いけないことです。 チベット仏教のTVを見たときのことです。 夏は小さな虫も殺さないように寺院の外への外出はしないそうです。 これだけ仏教では、虫、動物を殺すことを禁じています。 また、修行を進めるために肉食を禁じているだけで 在家、一般的な信者には肉食をあまり?禁止してません。 参考までに、(__) 以上、少し長くてごめんなさい。 参考になったとしたら幸いです。
お礼
私の家も一応、仏教(真言宗かな?)ですが、それ程宗教に関しては知らなかったので、新鮮な感じで拝見させていただきました。 >よって宗教、得に仏教では、この行為は『殺生』には加担していない・・と考えます 魂という目に見えない、抽象的な物質が肉体から離れたものが死体で、その離脱に関与しなければ『殺生』ではないという考えなのだと思いますが、あまり、宗教といったものを信仰していない私にとっては私は、誰が殺したのであれ、それを口にすること自体が『殺生』に加担している様な気がします。まあ、こういった考えは人それぞれなので(^^; ご回答ありがとうございました。
- kevinkun
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殆どの動物は「生きるために食べる」為にしか殺さない、と聞いたことがあります。 そして他種族でも、生まれたばかりの動物は(赤ちゃんは)「お腹が空いて」いる以外は襲わないとも。 たいした理由がなく同種族を殺すのは人間だけのようです。 人間には(人間だけには?)小さい生き物を守るとか、お年よりは大切にするとかの本能がないため、小さい頃から繰り返し教え込まなければならない、とも聞いたことがあります。 そういった事に誰も気づかなかったら? 人間はとっくに滅んでいるでしょうね。
【質問:人が人を殺すことの是非】 【「人間が一つの動物であると考えたとき(つまり、人道的な見解を除いたとき)、同じ人間を殺すこと」】 ******* ******* ******* こんばんわ、 独断です、意識の問題だと判断しました。 人道が存在すると云うことは、意識の高い人物が(ひとの道を)→意識が発達中の低い人々に説いた教えだと理解してます。 これを“試し算”しますと、我々の殆どが、人道的教えを必要とする 意識の低い(動物のような)人間だ! となります。 ですから 今は日本でも『(つまり、人道的な見解を除いたとき)』のような事件が起きていますよね。 あの…ヒロシマ・ナガサキの後も、世界のどこかで【人道】を無視した行為が続いています、下記URLはドキュメンタリー映画のサイトです。今後の参考になると思います。 で…今現在の世界で起きている“事実”を見ますと、人間的な意識と動物の意識の違いが…本当にあるのか?と疑ってしまいます(私だけでしょうか)。 纏めた私見、 「現時点の動物に近い人類の“低い意識”を なんらかの新しい方法で高めないかぎり 【人が人を殺すことの】問題は解消しない」と理解します。 ******* ******* ******* 蛇足になりますが、 質問者様も感じておられるから この質問をなさったのだと思います、 「この世のなかは、バランスが崩れている…どこか狂ったとこがある!」 と“気づいた個人”が そのひとなりに 出来る“なにか”をして、ひとりひとりの尊厳と“意識を高めあって”いくことがポイントだと感じております…。 ナマステ ******* ******* ******* goo辞書→【人道】 人間として守るべき道。人の人たる道。にんどう。 ――に対する罪(つみ) 戦前・戦中における、一般人民に対しての殺害・殲滅(せんめつ)・奴隷的扱い・強制移動などの非人道的行為と、政治的・人種的・宗教的理由による迫害。第二次大戦後、戦争犯罪とされた。 http://www.wa3w.com/
- 参考URL:
- http://www.wa3w.com/
お礼
>「この世のなかは、バランスが崩れている…どこか狂ったとこがある!」 中学生の頃から感じていますね。ですが、 >“気づいた個人”が そのひとなりに 出来る“なにか”をして、ひとりひとりの尊厳と“意識を高めあって”いくことがポイント はいまの人間には不可能だと感じています。 >“低い意識”を なんらかの新しい方法で高めないかぎり まあ~おそらく、人間には不可能でしょう。1万年後に人間が絶滅してる確率はどのくらいか忘れてしまいましたが、とても低かったはずです。そういったことも背景にあるのでしょう。
- nabla
- ベストアンサー率35% (72/204)
俺も昔同じようなことを考えました。ちょっと趣旨は違いますが「絶対的に善であることあるいは悪であることは何か?」ってことを考えました。 絶対に何かあるはずだと思って探したんですがないんですね。「殺人は悪」なんてのは真っ先に否定されたものの1つですし「困っている人を助けるのは善」と言ってもその人は自力でやり通そうとしているのかもしれません。 でその結論は「善悪って言うのは普遍的なものじゃなくって時代によって違うし、人によって違うし、状況によっても違う非常に曖昧なものなんだ」ということですね。 だからこそ世の中って難しいと同時に楽しいんだと思いますよ。だって絶対的に善なことがあったら俺そればっかりやりますよ? でも唯一これが絶対善じゃないと否定できないのがあるんです。自分を不快にした奴を許すのはどうでしょう?
お礼
>唯一これが絶対善じゃないと否定できないのがあるんです。自分を不快にした奴を許すのはどうでしょう ? 私の意見としては、場合によっては善で有る場合もあると思います。たとえば、自分の好きな相手に不快感を与えられたからといって、その人を許さないとして、一切口を聞かなくなったとします。ですが、数ヶ月が過ぎ、やはりその人のことが大切だとかんじる場合もあるかと思います。この場合、せっかくの有益な関係は直らないままになってしまいます。 確かに、許してはいけないこともあるはずですが、不快感を与えられたからといって、その人の全てを否定するのは善とは言い切れないと思います。 つまり、私は逆にその相手行動を多少許容することが善である場合もあると考えます。 確かに、善・悪といった考えは、普遍的であり、絶対のものではないと思います。 仮にあるとしたら、悪とは人間で、善とは人間が人間を止めることでしょうか。人間が存在するから悪という考えが生まれ、悪という行動が発生すると考えるからです。自然・地球側に立ってみれば人間が消えたほうが善であるとも思います。
- PEPSI
- ベストアンサー率23% (441/1845)
「生物として」の説明なら・・・ 人間は群れで暮らす動物です。 他の動物のように攻撃する牙も持たず、 すばやい逃げ足も持たず、 活動の場も高い木々の上へ逃げることなく、 「群であること」を武器に進化してきました。 隣人の死はすなわち自分たちの死に繋がってくるのです。 群が小さくなればなるほど危険回避が困難になりますから。
- Nactas
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何故、人間は「人間を殺してはならない」というルールを作ったんでしょう? もともと人間は、他の生物よりも「命」というものを深く考える動物です。これは、世界中の様々な場所で、それぞれ個別の思想を持って生まれたはずの宗教の全てが、死というものに少なからぬ尊厳とその意味を持たせている事からも判ります。 では何故そうなってしまったのか? 恐らくですが、、、人間は死を恐れるから、こうなってしまったんだと思います。 人間が、死というものを理解しておらず、そこに恐れも何も持っていなかったならば、「人を殺してはいけません」というルールは作られていないはずです。 人間がまだ本能のみに従うお猿さんだった頃は、隣りのお猿さんが病気で苦しそうでも何もしなかったでしょうし、遠くのお猿さんが他の動物に襲われていても「自分が痛い思いをしなくて良かった」と考えるくらいでしょう。 でもある日二本足で立つようになり、両手を自由に使い始めた事で知能がメキメキ発達し、動かなくなった同種の仲間たちの事について考えるようになった時から、彼らは死を理解し、それを恐れるようになり、そこから逃げる為に技術力が上がって、医療や武器等が発展したんです。 「死を恐れる」というのは、人間だけが持つ、人間であるが故の本能です。そしてこの本能がある限り「人間を殺してはならない」というルールは、例え法律上で定められていなかったとしても人間同士の間で存在している物だと思います。 それでもやっぱり怒りの感情等に任せて人を殺す人も居るから、結果として法律で定められているのでしょう。 以上、僕の勝手な意見でした。偉そうにすいません^^;
- Buchikun
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本来生物は自由なので、生かすも殺すも、盗むも、虐げるのも自由です。(倫理的なアプローチは別として)そのような条件で「人を殺す権利」を考た場合、社会に生きる人間は、他人を殺す自由を放棄する代わりに人に殺されない権利を得ているわけです。(逆に殺す自由のある動物は殺される危険と隣り合わせです。) 社会の中で自由を制限する事で得られる権利があります。 その自由と義務の中で暮らす「社会」に生きているのが人間と私は考えます。 つまり、「同じ人間を殺す人」は「殺されない権利のある社会」には適応できず、同じ扱い(殺される)をされても構わないという覚悟をしていると推測いたします。 自由と義務が等価交換された社会だなんて、誰かが言ってましたが...。(日本は交換率が悪く、義務ばかり多いですが)
お礼
>本来生物は自由なので、生かすも殺すも、盗むも、虐げるのも自由です。 同感です。ですが、 >同じ扱い(殺される)をされても構わない~。 これは違うと思います。他人を殺しても、自分は死にたくないと考える人のほうが多いと思うからです。
- dd44
- ベストアンサー率28% (151/521)
「人を殺してはいけない」は倫理ではなく、社会のルール。ある共同体の中で人が暮らしていくために決められた、単なるルールです。殺人を許容していては生活が営めないし、貨幣のシステムさえ揺らいでしまう。だから、「人間は殺してはいけないことにしましょう」と決めたのです。 ただそのルールがあまりにも長く存在し、疑いようが無いので、殺人=悪と認知されているだけだと思います。 国や時代が違えば、「場合によっては人を殺すのも仕方なし」となる場合もあるでしょう(昔のあだ討ちみたいな)。例えば法律が無いような国では、殺人は罪にならない。罪ではないかそれは悪でさえも無いでしょう。けれどそれでは共同体は成り立たないから、いずれ殺人は禁止され、罰が定められ、人の無意識に殺人は悪であると刷り込まれるのだと思います。
お礼
すいません、私が聞きたかったのは「人を殺してはいけない」はどういうことか?ではなく、人を殺すのはいいことか、悪いことか?といったことでした。
- jujuta
- ベストアンサー率16% (31/192)
人間が人間を殺害する理由は、自分の”自我”を 脅かすものから自分を守るためだと思います。 だから”自分を脅かす現実”から”自分の自我” を守るために、人間は自殺できるのでは? ”殉教”も上記と基本的には同じだと思いますが 要するに発狂して生きていけないのが人間。 動物のように、自らの肉体よりも、精神を優先 せざるを得ないという業があるせいでは? だから実際には損をしなくても、腹が立つことは 腹が立つし、それが高じれば殺人にいたる…。 いかがでしょうか?
お礼
哲学的な質問にたくさんの方から、色んな意見が聞けてよかったです。ご回答ありがとうございました。 なかなか参考になる回答でした。 精神を優先⇒自我の保持⇒人を殺す なるほどって感じでした。 ありがとうございました。
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お礼
ご回答ありがとうございました。 >長寿化するなど死亡率が減ったら日本はどうやって人口を支えるの? 私が以前習っていた政経の先生が、「60歳以上の生産人口以外の人間をすべて排除すれば日本は年金問題など考える必要もないし、一気に経済が活性化する」とおっしゃっていました。 確かに、このままであれば日本の将来は不安ですね。 まあ、その先生が言っていたことは確実に実行されるわけはありませんが(^^;