- ベストアンサー
第二次世界大戦末期の日本陸軍師団について
日本陸軍では戦争末期に向かって、あたかも雨後のタケノコのように師団が編成されました。 師団長は中将ポストですし、その他にも参謀や副官、実践部隊長等相当数の士官・下士官が必要になったと思うのですが、そんなに人材がいたのでしょうか?(特に師団長等の高級士官群。戦時昇任等考えづらく)。 どのようにやり繰りしていたのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
例えば1940年以降の陸軍士官学校の卒業生は千数百人、陸軍大学校で数百人。重複する部分はあるかと思いますが、1年でこれだけの人数が任官しています。これらのすべてが実戦部隊に配属されるほど、ポストは多くありませんし、年齢による退役もあります。そういう形で待命(待命という形で任官・待機状態を一定期間務めて予備役に回る)・予備役になる将官・士官は多数いたかと思います。それを再招集し、階級が足りなければ昇級させて、大部分はそういう人材で孔を埋めていた訳です。
その他の回答 (2)
- RikugunEiseihei
- ベストアンサー率29% (8/27)
実に鋭いご指摘であり、我が意を得たりの思いです。質問者様がお書きの「人材」というのが、必要充分な能力と経験を備えた人物を指すのであれば、そんなに簡単に二倍も三倍も増やせる訳がありません。 その実態は水増しと員数合わせです。これは何も軍事組織だけの事ではなく、平時の民間企業や公的組織における人材育成にも共通する原理原則でありましょう。 中には生まれつき飛び抜けて優秀な人材もいますが、こういった例はごく少数であり、大部分は質の高い教育と充分な経験の蓄積によってはじめて優秀な人材に育つものです。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。 やはり数合わせが中心だったのですね。適任者が急に増えるとも思えませんので、仕方なかった部分はあるのでしょうが。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
takepan_tokiさん、こんにちは。 人のほうは徴兵や階級の承認なんかでやりくりできますが、肝心の装備のほうが回りませんでした。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。 確かに竹槍・弓矢まで持ち出す様でしたから、装備なんて存在しない状態だったのでしょうね。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。 士官学校の卒業生は確かに多かったでしょうが、実戦部隊での経験があったかどうか、、、。単なる名前だけの配置だったのでしょうか。