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日本陸軍30代師団の師団番号と連隊番号についての疑問
- 日本陸軍30代師団の師団番号や連隊番号には何か理由があるのか疑問に思っています。
- なぜ日本陸軍30代師団は32から師団番号が始まるのでしょうか?また、他の30代師団とは異なる210の連隊番号の理由も知りたいです。
- また、30代師団の編成予定に欠番の201~209連隊があったのか興味があります。編成の予定はあったのなら、師団番号や編成地も気になります。戦史叢書は読んでみましたが、詳しい情報は得られませんでした。
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お礼を頂きありがとうございます。 その通りで200番代の新設連隊は、28師団以降の 治安維持師団編成に当てる計画が、ノモンハン事件などで 狂ってしまい、28~30師団のための201~209連隊は 新設せず、既存の独立部隊を寄せ集めて編成したので 欠番になりました。 なお前質問の dayone さんの答えから、202~204連隊 のみは、その後別師団用に新設されたことはわかりました。 ただ31師団編成の謎は完全には解決されてはいません。 盧溝橋事件に関係する、一木連隊(事件当時は中隊)が 含まれてをり、何かありそうです。 「陸軍師団総覧」参照
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- Pinhole-09
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盧溝橋事件から始まった日中戦争の短期解決ならず 前線軍と別の広大な中国占領地の治安部隊の編成が 必要になり、満州の警備部隊と共に昭和13年末に 計画されました。 これが第28師団以降です。 28~31師団が満州方面、32~41師団が中国担当です。 28~31師団は満州駐屯軍、朝鮮駐屯、中国北部駐屯 の古い独立部隊の寄せ集めで編成を計画しましたが、 手間取っているうちに、昭和14年5月ノモンハン事件が 勃発し、これにかかわり大幅に編成が遅れました。 一方第32師団以降は内地で地区単位に、連隊とも 新規編成であり迅速に進みました。 昭和14年2月7日に、32~37師団 同年6月30日に、38~41師団完成となりました。 例えば第32師団は東京編成で、歩兵210連隊(甲府) 歩兵211連隊(東京)歩兵212連隊(佐倉)など 200番台の新設連隊で速やかに編成出来ました。 他方 第28師団は満州新京編成で、歩兵3連隊(東京) 歩兵30連隊(高田)、歩兵36連隊(鯖江)の寄集めで 編成完了は昭和15年7月でした。 第29師団は 満州遼陽で編成 昭和16年4月 第30師団は 朝鮮平じょうで編成 昭和18年5月 歩兵77連隊(平じょう)同74連隊(咸興)同41連隊(福山) 第31師団編成は特殊で中国北部では未完のままで タイのバンコクでやっと編成 昭和18年3月 第13師団より、歩兵58連隊、第116師団より歩兵 138連隊、独立35旅団より歩兵124連隊の寄せ集め でした。 というわけで寄せ集めや再編成は、新編成に比して 手間がかかり、欠番のような状態が続いたわけでした。 これらの新設師団の一部は、満州と中国に駐屯し続け ましたが、多くは日本の第二次世界大戦参戦により 南方戦線に移動しました。 第32師団以降の編成の手際良さからして、これを予測 していたとも考えられます。
お礼
お答えありがとうございます。 まとめると、 第28~31師団は、歩兵201~209連隊で、満洲方面の為に計画された。 しかし、ノモンハン等のゴタゴタで、実現されなかった。 その後、28~31師団は、別の形で編制された。 という事で良いでしょうか?
お礼
またまた、ありがとうございます。 『、28~30師団のための201~209連隊は 新設せず、既存の独立部隊を寄せ集めて編成したので 欠番になりました。』とは、独立守備隊、兵站部隊等の小さな部隊を集めて、という事と理解して良いですか?
補足
一木大佐ですね。