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戦時下の陸軍省・海軍省の就業時間と高官の夜の密談
- 戦時下の陸軍省・海軍省では残業がふつうでしたが、規則もありました。
- 高級官僚は夜に待合で密談することもありましたが、具体的なエピソードは不明です。
- チャーチルは24時間体制で部下たちと財務省地下室で寝起きを共にし、戦時指導を行っていました。
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>ワシントンから日本に帰国して、海軍省の明かりが夜になると消えているのを見て愕然としたそうです。 >ミッドウェー海戦で大敗を喫した直後の頃です。 灯が消えたのは、単に灯火管制だっただけだと思いますが違うのですか? (ミッドウェー海戦で大敗を喫した直後という事は、ドーリットル空襲の後ですから、灯を外に煌々と漏らしていたら非国民街道まっしぐらですが…。) >1.戦時下、陸軍省・海軍省の就業時間。 >一応規則があったと思いますが、残業するのがふつうですか。 >もちろん、人それぞれでしょうが。 誤解がある様ですが、軍人は戦前は勿論、戦後の自衛官ですら労働基準法の範囲外で、残業と言う概念はありません。 申請が許可されて得る休日以外は、24時間フルタイム勤務です。 (食う寝るも、明日以降の英気を回復するための公務と言う概念。なので、命令一つで剥奪されます。←まあ、戦場ならそんな自由は、望むべくもないので…。) まして、苛烈な出世競争に晒される尉官・佐官たるもの、起床ラッパが鳴り響く直前(朝5時とか)に床に入って鳴った瞬間に起床して日々の作業に没頭する毎日に成ります。 (過労死当たり前と言うか、こういう毎日を十年単位で過ごせる希少な人物のみが将官と言う栄達に到達する事を許される。) たとえば実松譲氏が海軍省勤務時代は、一日3000枚以上の書類を処理していた(1枚を2分以上時間をかけたら一日で終わらない…。)くらい、海軍省の仕事は激務です。 →戦時の優秀な人員を前線へ移管した事による人員不足(+ミッドウェイ開戦敗北の後始末)で仕事量は、実松譲氏の海軍省勤務よりひどくなっていましたし…。 あと、灯火管制下でも空襲警報が出ていなければ、窓を閉め切って灯が漏れなければ(カーテン等を含む)、部屋内では電灯等は使えます。 (空襲警報が出ると覆いをかけてスポット光にしたり、灯りを消しますが…。) ただ、中央(海軍省や軍令部)と外角組織では意識の相違は相当あったかもしれません。 例えば、実松譲氏が赴任していたワシントンでは前日に本土から、1両日中に日米関係において重要な電文が発報されるから、準備対応する様に指示が出ていたのに、定時後の同僚の送別会出席を優先し、日米交渉断絶の通知を開戦に間に合わせることに失敗しています。 (実松譲氏は、戦後の連合国の追及のなかで、翌日の朝、未処理で放置されていた緊急電文の紙束を見たとまで証言しています。←この証言に対しては、真実と異なると反論も有りますが…。) 最後に、「明かりが夜になると消えているのを見て愕然」と言う言葉を発した人物は、己が国家の命運を担う外交交渉の一員でありながら、その重責よりも身内の送別会を優先する緩いグループにいた人物の、自分たちを基準にした発言だったという面は拭えないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 残業なんていう概念がなかったのですね。 なるほど、今でも省庁の出先機関の窓口はかっきり定時で閉めていますね。 東京がいつから灯火管制になったのか知りません。 質問文では途中で切りましたが、次のように続きます。 雑誌の記事は、保坂正康氏と福田和也氏の対談で、福田氏が 「ミッドウエーの年ですよ。国の命運を賭けた戦いをしているときに、海軍省の明かりが定時に消えてしまう。チャーチルとは比べようがない。」 と言っています。 実松譲氏の「愕然とした」という発言も、何をいまさら手前勝手な理屈をいうのかの感があります。