• 締切済み

秀吉による北信越・東北での所領安堵

上杉景勝は1587年の惣無事令で、従属化にある真田の上田沼田領の本領安堵を認められず、替わりに庄内佐渡の切り取り次第とされています。 最上義光は1590年の奥州仕置で本領24万石の安堵となってますので、これも庄内地方はあえて外されているでしょう。 仮説が何もたたないわけでもありませんがこの一連の措置はどういった流れなのでしょうか?

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34538)
回答No.1

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11152448446 ヨソの方の回答のコピペとなりますが、この質問のBAの方の回答がよくまとまっていると思います。 戦国時代の庄内地方の有力支配者は大宝寺氏で、そこに最上氏が侵入してきたという図式になりますが、大宝寺氏が頼ったのが長尾景虎すなわち上杉謙信で、その窓口となったのが家臣のひとり本庄繁長です。つまり大宝寺=本庄=上杉というラインがあったので庄内地方は準上杉領というのは中央政府である豊臣政権も認めるところであったのだと思います。 また庄内地方の支配権をあえて曖昧にすることでそこを「緩衝地帯」とする考えもあったと思います。 真田氏の存在は、越後上杉家への牽制として必要不可欠だったでしょう。そもそも真田氏は上杉家の仇敵武田家の家臣で上杉家とはお世辞にも友好的な関係とはいえません。真田氏が豊臣政権に反抗的になれば上杉家を使って潰せばいいですし、もし上杉家が秀吉に反抗的なら真田氏を先鋒として使えます。 上杉氏と友好的ではない真田氏が南に、最上氏が北にいればそれは上杉氏に対する結構な牽制になりますよね。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ただ庄内はそれでいいのかもしれませんが、だとしてもいまいち真田領の扱いはよくわかりません。 真田領は上杉・徳川・北條に囲まれた地 秀吉政権にもっとも友好的だったのはこの3者から選べば明らかに上杉で、その上杉の対抗策に真田を残したのならば速やかに真田を豊臣大名化して真田に本領安堵を出さないといけません。 一番友好的な上杉を牽制して最終的に一番敵対的な徳川の与力にしてしまうのが史実の流れで、それを上杉牽制説で説明しようとするのはいささか疑問が残ります。

関連するQ&A