ベストアンサー 足利はいつ三河の所領を失った? 2014/12/03 07:34 三河は尊氏の頃は足利の領地だったと聞きました。 三河というと家康の松平家が思い浮かびますが、足利はいつどのように三河の所領を失ったのでしょうか? みんなの回答 (1) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー kusirosi ベストアンサー率32% (2838/8859) 2014/12/03 08:10 回答No.1 承久の乱の功績で、足利氏が三河守護となり、 その後も、一色など、足利一門が治めた。。 ところが、1440年、幕府が 一色に代わり、細川持常を守護に任じ、 一色派と細川派が対立し、三河が戦国乱世の兆しを、見せる。 その中で松平郷(豊田市)の豪族(伊勢氏の家来として幕府に出仕していた)松平家が 徐々に台頭、1470年には安詳城を落とし、七代清康のころには岡崎を本拠に 三河一の実力者となり、今川や織田に伍して戦国大名の端くれに数えられるようになった。 質問者 お礼 2014/12/11 00:29 kusirosiさん、詳しい回答ありがとうございます。実によくわかりました。またお願いします 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 三河守から征夷大将軍へ 鎌倉時代、足利家と三河国は因縁が深く代々三河国の守護職を勤め、矢作(岡崎)の地は足利氏の一大拠点とも言える土地でした。又、細川・吉良・今川・荒川・仁木等の足利一門も三河一円に拡がりそれぞれの地名を姓とし繁栄しました。尊氏の代には六波羅探題を滅ぼし天下を取りました。 戦国期に入ると三河国は足利一門に代わり松平(徳川)家が勢力を伸ばし、徳川家康の代に岡崎を拠点として三河を統一、東海を制し遂には天下を取りました。 これは単なる偶然でしょうか?それとも三河岡崎の地は天下人を輩出し易い条件が揃っているのでしょうか? 足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか? 私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか? 初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか? 足利尊氏のお墓はどこにありますか? 足利尊氏のお墓はどこにありますか? 高山彦九郎が足利尊氏のお墓を国伐と言って300回鞭打ちした傷あとも残っているのでしょうか? あと京都には足利尊氏の子孫の邸宅が健在しているそうですがどこにあるのですか? 子孫は今は何の商売をしているのでしょうか? 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 足利尊氏は 足利尊氏は何故鎌倉じゃなく 京都に幕府をおいたのですか?? 教えてください。 足利尊氏について質問です 足利尊氏の性格を教えてください! 足利尊氏のお墓は京都市北区の臨済宗等持院にあるとい 足利尊氏のお墓は京都市北区の臨済宗等持院にあるという回答。 グーグルマップで検索したら、足利尊氏の墓は神奈川県鎌倉市の臨済宗長寿寺が表示されて京都の墓の臨済宗等持院は表示されない。 臨済宗長寿寺の墓は尊氏の息子が建てた遺髪を埋めた供養塔で本当の墓ではないという。 でも臨済宗等持院は昔の足利尊氏の時代は京都御所の南にあった。 いまは西に移動されて臨済宗等持院は金閣寺の南にある。 京都御所の南にあった墓を金閣寺の南に移動させたのでしょうか? お墓が本当にあったのなら京都御所の南にあった臨済宗等持院を西に墓まで移動させないのでは? 墓を移動するのは縁起が悪すぎる。さすがに足利尊氏が天皇家から嫌われていたとしてもそんな残酷なことを天皇家はするでしょうか? 足利尊氏の本当のお墓はどこにあるのでしょうか? あと栃木県の足利市と足利尊氏は関係があるのでしょうか?同じ足利繋がりというだけで友好都市として栃木県足利市は足利尊氏を祀って銅像などを設置しているのですか? 足利尊氏は栃木県に生前は住んでた? 足利貞氏の死語、 足利貞氏の死語、 遺言に基づき、執事が高 師重(もろしげ)から、その子高 師直(こうのもろなお)に引き継がれました。 他方、室町幕府ができた頃から、 師重の兄、高 師泰(もろやす)が登場します。 しかし尊氏は、足利家の執事の代々務める高家(こうけ)の頭領は師直だと言っています。 長男が家督を引き継ぐとは限らないのでしょうか? 足利尊氏の花押を見たい! 足利尊氏の「花押」が見たいのですが,写真や絵はありませんか? また,そもそも「花押」というものがどんなものか分からないので, その簡単な説明をお願いしたいです。 知っている方,教えてください! 室町幕府は足利尊氏がつくったんじゃないでしょ どうも、学校でならったことは、いい加減なことが多いようにおもうのですが 室町幕府って、足利尊氏がつくったとありますが 尊氏は、京の三条坊門に開いたのであって 三代将軍の義満が、花の御所を室町に移したわけだから、 室町幕府じゃなく、三条坊門幕府じゃないのこれって しいて言えば、室町幕府は、足利義満が始めたわけでしょ? 足利氏当主の通字 足利氏当主には尊氏までは通字として「氏」が用いられたのに、義詮からは「義」に変わっていますが、何か理由はあるのでしょうか。 足利尊氏の性格 足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか? それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)? それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか? 逆賊 足利尊氏 大村益次郎も九州から足利尊氏のごとき人物があらわれると案に明治政権にとって西郷を警戒してそのように表現しているとおもいますが、現代でこそ逆賊というイメージで尊氏は語られていませんがいつ時代から逆賊との汚名をうけていたのでしょうか? 室町政権が成立当時から人気はなかったのでしょうか? ぜひ教えてください 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 足利将軍の代数 足利将軍は足利尊氏~足利義昭までの15代と言われています。 足利義稙は10代将軍と言われてますが、二度将軍になっています。 なぜ、10代・12代将軍ではなく、10代将軍となっているのでしょうか? 同一人物である、皇極天皇・斉明天皇は重祚して35代・37代天皇、孝謙天皇・称徳天皇は重祚して 46代・48代天皇、とされ、天皇は二度目の即位もカウントされています。 これには何か理由があるのでしょうか? 個人的には天皇の代数と同じように、二度目の将軍就任もカウントされる方が自然に感じるのですが。 三河の地名を江戸(東京)へ 西三河に、一ツ木、二ツ木、という地名・駅名がありますが、この**木という名前は東京にもあります。 家康の御家人衆は、三河人ばかりではなく、遠州や旧武田の配下もいる訳ですが、三河武士団が一大勢力である事は間違いありません。 三河の地名を江戸に移植し、現代の東京の地名へと続いている例はありますか? 楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。 楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏ってどんな関係だったのですか? その時代の情勢を知りたいんですが、なかなか的確なサイトが見つかりません。どなたか歴史の知識がない私にもわかるように簡単に説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。 西三河の強さ、凄さの源は、何でしょうか? 足利氏(細川、今川、一色、吉良、仁木)→徳川家康→トヨタ自動車。西三河(矢作川流域)の強さ、凄さの源は、何でしょうか? 徳川家康は三河弁で「~じゃん」と言っていた? http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=388803 の質問を見て思いました。 関東の「ジャン」という方言は、徳川家康が三河から持ってきた という説があるそうですが、あの徳川家康もそのようにし ゃべっていたのでしょうか? 例、今日鷹狩行くって言ったじゃん。 あいつ打ち首って言ったじゃん。 なんだか、親近感を覚えます…。 徳川氏とその前身の松平氏の中に四の付く名前はいたか 徳川家康の一族の"徳川氏"と、その徳川氏の前身である"三河国の松平氏"の中に、幼名、若しくは、成人後の名前に、"四"という字が付く人物は、いましたのでしょうか? 徳川家康の一族の"徳川氏"と、その徳川氏の前身である"三河国の松平氏"の中に、幼名、若しくは、成人後の名前に、"四"という字が付く人物はいたのかどうかを教えてください。 【徳川氏の前身である三河国の松平氏】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F 後醍醐天皇と足利高氏(尊氏)との対立 さすがの歴史好きの私も唯一苦手なのが南北朝時代なのですが ひとつ疑問が 足利尊氏は鎌倉幕府倒幕の褒美に征夷大将軍を要求しました しかし朝廷が与えたのは征西(鎮守府)将軍 この時天皇だった後醍醐天皇は何故尊氏を将軍にしなかったのでしょうか? 素直に尊氏に将軍宣下をして幕府を開かせれば その後の南北朝内乱も起きなかったと思うのです 後醍醐は朝廷の利権を守りたかった?とするなら尚更だと思いますが… 何か間違ってたらすみません この時代は苦手なので なぜ足利氏は天皇の外戚にならなかったのか? 武士として権力を掌握した人たちは、たいてい皇室に近づこうとしています。 平清盛も、源頼朝も、徳川家康も、娘や孫娘を天皇家に入内させています。 しかし、なぜか足利氏からは一人も入内していません。 足利氏は天皇の外戚になる意思はなかったのでしょうか? 少なくとも三代義満などは、朝廷と非常に接近していて、皇位簒奪説までありますよね。 天皇家の外戚になることは考えなかったのか、非常に気になります。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など
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